第二三話 三年坂のお団子
五月の京。
翡翠色に染まる柳の枝を揺らす風が、清々しい春の匂いを運んできた。
鴨川沿いの道でとなりを歩く流々子は、軽やかに口笛を吹いている。
ぴーぴぴぴーぴーぴー♪
「流々子さま~。お行儀がわるいですよ~」
「絵里咲も吹いたら? 気持ちがいいわ」
「吹きません! 貴人が町を歩くと危ないから、なるべく目立たないようにって言ったのは流々子さまですよね」
貴人は過激派に斬られたり、強盗に狙われたりする危険がある。だから、護衛無しで町歩きするには身分を隠さねばならない。
「目立たないわよ。だって、貴人は道端で口笛なんか吹かないもの」
「吹いてるじゃないですか‼ 口笛は終わりですっ」
「え~っ」
流々子にかわいく抗議されたけど、ここは心を鬼にする。絵里咲は威嚇するエリマキトカゲのように一歩も引かなかった。絵里咲のしかめっ面を見た流々子は渋々口笛を吹くのをやめ、しばらく他愛もない話をした。
どうでもいい話をしているうちに、流々子は絵里咲が左腰に下げている細剣に興味を持ったようだ。
「新しい洋刀ね。誰にいただいたの?」
「東行春風さまです」
「へえ。剣聖さまは気に入った弟子に剣を渡すと聞いたわ。気に入られているのね」
「えへへ。そうだと嬉しいんですけど」
――気に入っている弟子を置いて留学に行くかしら……
「抜いてみせてくれる?」
絵里咲は細剣の柄を掴んで一息に抜いてみせると、シャキーンという小気味よい擦過音が鳴った。刃を自分側へ持ち直し、流々子に柄を差し出す。
細剣を手にとった流々子は、真剣な眼差しで剣身をつぶさに観察していた。金属の鈍い輝きをじっくりと眺めたあと、柄を握って左右に軽く振ってみせた。
「優美ね……。両手で折れてしまいそうなくらい細いのに、岩を斬るほど靭い。――名剣よ」
さらっと言ってのける流々子。武家貴族の子息にとって刀の鑑賞は現代人にとっての九九だ。
流々子には呪術しか使えないイメージがあるが、意外にも彼女の実家である彦根守家は先祖代々呪術よりも剣術の才能に恵まれてきた家系である。流々子も、卓越した呪術の才を持つと気付かれるまでは武術教育ばかりを受けていたそうだ(そちらでは才能が無かったらしい)。
呪術を得意とする神宮寺家に生まれながら、呪術ではなく弓の才に恵まれた椿とは正反対なのが面白い。
「はい! この剣は死ぬまで手放さないつもりです」
「〈剣〉じゃなくて名前で呼びなさいな。名剣は銘を求めるものよ」
「もう決めてあります!」
「あら。聞かせてくれる?」
「――若水」
その銘は、とある意味を込めて付けたものだ。
絵里咲は流々子の眼をじっと見据えた。
「由来は上善若水かしら? よい銘だわ。ぜひ、水のように掴みどころのない剣技を見せてほしいものねぇ」
上善若水――「上善は水の若し」とは、水の柔軟さを讃えた言葉である。『老子』の言葉だ。この世界では儒家よりも老荘思想が流行っていて、老子と荘子はしょっちゅう引用されるし、学校でも覚えさせられる。
「違います!」
「そうなの?」
「流々子さまが由来です」
「あら。私が好きすぎたのかしら」
「それもあるのですが……貴女がこの剣をくれた人だからです」
「……」
若水という言葉は水の流れる様子を表している。それは、流々子の名と、人柄にちなんだものだ。絵里咲は、流々子の眼をじっと見据えて訊いた。
「この剣を春風さまに渡したのは流々子さまですよね?」
「……どうしてそう思ったのかしら」
「このあいだ、流々子さまは道場にいらっしゃいましたよね。あたしの剣術を見ていて、この剣があたしに合っていると思ったのでしょう?」
「そうね。刺突が得意な絵里咲に合っているとは思うわ」
「この剣はレイピア。またの名を洋式十字剣といいます」
「そうなの。勉強になるわ」
「もちろん、洋式十字剣は西洋で作られるものです。でも、和国で洋式十字剣が作られたことがあるという噂を小耳に挟んだことがあります――鳰海藩の『水口』という場所です」
流々子の眼の色が変わった。
絵里咲がまだ現世にいた頃、フェンシング仲間から興味深い話を聞いた。戦国時代に滋賀県の水口というところで西洋式のレイピアが製造されていたというものだ。ヨーロッパから伝来したレイピアを手に取った刀工が見様見真似で再現したその剣は〈水口レイピア〉と呼ばれ、現代でも貴重な資料として博物館に飾ってあるという。
水口レイピアはたったの一振りしか見つかっていない上、日本とヨーロッパでは剣の製法が根本的に違うため実用性は無かったというが……花園時代には、その製法が細々と研究され、磨かれてきたのだろう。そのことは、絵里咲が今まさに手に持っている極めて高品質なレイピア――〈若水〉が証明している。
「……」
「水口は彦根守家が治める土地。流々子さまの土地ですから、都合よく手に入れられるのは流々子さましかいません」
「……不思議だわ。水口の剣は藩の上役だけに秘されているから、知る者は藩外にいないはずなのだけれど」
「知ってますよ。流々子さまのことならなんでも」
「……ますます、貴女がどこから来たのか気になってきたわ」
「しがない農民です」
――違うけど
「ねぇえりず。貴女はどこの藩なのかしら?」
「南の国です」
「訛りは国の手形……とはいえ貴女の喋り方は火護でも、紀伊でもないわねぇ。琉球かしら?」
「……とても暖かい国です」
絵里咲はとても暖かい国から来た。でも、誰にも真実を告げることができない。
もし誰かに知られれば、絵里咲は攘夷派に斬り殺されてしまうだろうから。
●○● ○●○ ●○●
とるに足らない話をしているうちに、二人は三年坂に着いた。三年坂とは清水にほど近い、古式ゆかしい雅やかな商店が並ぶ坂である。特に北向きに歩くときには、五重塔を背景にして、誰もがイメージする「ザ・京」といった趣がある。
ふと、一つの商店から甘く香ばしい煙が漂ってきた。
七輪の上で、串に刺さった白い粒たちがパチパチと罪深い音を立てていた。
「あら。おいしそうな団子」
「罪深いですね~」
団子にはみたらしと抹茶の二種類があった。きな粉が大好きな絵里咲は、奥に並んでいるわらび餅に気を取られていたが。
「そういえば、今日はごちそうになれるんだったかしら?」
「流々子さまのほうが一兆倍くらいお金持ってますよね……。ていうか、あたしがおごるって話冗談じゃなかったんですか?」
「うちの藩、金欠なのよ」
「嘘つけ! 和国一豊かでしょう!」
記念すべきことに、絵里咲は藩主の娘に団子をおごった史上初の百姓になった。不思議と誇らしくなかった。




