第十一話 継矢(つぎや)
弓道場
観衆の中心には、自らの身長よりも大きい長弓を携えた赤髪の女性がいた。
鷹のように鋭い眼光で的を睨んで、弦を引き絞った。袖から覗く右手には、健康的に緊張した筋肉が浮かんでいた。
弓の弦を引き離すと、弧を描いて飛んだ矢が的の中央に命中した。
おお~という歓声が上がる。だが、このくらいはみんなが予想していたこと。弓の名手なら、当然的の中央に当てるだろう。
だが、次の一射は見物人たちの度肝を抜いた。
続いて放った矢は、すでに的に刺さっていた矢の背面に命中し、縦に裂いてしまったのだ。
矢の背面に矢を当てて割いてしまうことを〈継矢〉という。継矢は弓術版のホールインワンみたいなものであり、めったに見られるものではない。極上の命中率を誇る者だけが稀に起こす絶技である(矢がダメになるのでもったいないのだが)。
目を疑うような絶技に、観衆から黄色い歓声が上がった。もちろん、弓の名手・神宮寺椿の演武だ。
「素敵! 私も射抜かれてしまいたい! ね? 絵里咲?」
物騒なことを言うのは、椿・ラブのお初。
「射抜いてって頼めば射抜いてもらえると思うけど」
――経験済みだし。
「本当に⁉ お願いしようかしら!」
「冗談でもやめたほうがいいわよ」
空の弓を引く練習をしながら、椿の様子を横目で眺めてみた。
その椿が三本目の矢をつがえた。弦を引き絞り、再び前の矢に命中させると、示し合わせたような大歓声が湧き上がった。ゆっくりと残心を解いた椿は、わざとらしく絵里咲に視線を送った。
「キャー! 椿さまがこちらを見たよ!」
「見てたわね。お初のことが好きなんじゃない?」
「冗談やめてよぉ!」
「本当にそう思うの」
「キャァァァァァ!」
絵里咲が冗談を言うと、お初は真っ赤になったほっぺたを抑えて、知能の低い動物のようになってしまった。恋の力ってすごいなぁ、と感心する。
それにしても、さすがな腕前を見せられると、先日、祇園社で椿に勝負を挑まれたときには戦いにならなくて本当によかったと思う。あれほどの技量を誇る弓術で心臓を狙われたら、バイクに乗っても逃げられないだろう。まあ、それだけ強くても椿は3年以内に死ぬのだが。
百姓出身の学生たちは、ほとんどが弓術の授業で初めて弓に触る。ご多分にもれず弓に触ったことがない絵里咲は、まず弓を引く訓練から始めた。
和弓の弦は見た目に反してものすごく固く、鍛えていない限りまともに引くこともできない。初めて矢を飛ばすことができるのは何ヶ月も先のことで、十分に引き絞れるようになるまでは空の弓を使って弓を引く感覚を掴む。これを〈素引き〉という。
弓道館に集まった学生の半分は素人の集まりだったが、幼いころから武術の薫陶を受けてきた武家貴族階級出身の者たちはすでに相当な習熟度に達している者もいた。
椿以外にも幾人かは矢を軽々と的に当てている。椿のように京随一という箔がつくほど、というほどではないが、的に当てるだけで相当な訓練が必要な和弓を軽々と扱っているのはさすがである。
練習が終わり、更衣室で弓術着から普段着の袴に着替えていると、椿が話しかけてきた。
絵里咲の後ろにある壁に手をついて、息がかかるような距離まで顔を近づける。俗に言う壁ドンになった格好である。流々子にやられたらキュン死するのは間違いないけど、苦手な椿にやられると圧迫感があって怖いだけだった。
「百姓」
「……絵里咲です。なんですか?」
「わたくしの演武を見まして?」
「お見事でしたね」
――それは本当にそう
ちょっと褒めると、椿の表情筋がほんの少し緩んだ。0.3ミリくらいだったけど、好きな人(=絵里咲)に褒められて内心嬉しいのかもしれない。
「実は、わたくしにも継矢なんて狙ってできるものではありませんの」
「え? 二回も連続で成功してたじゃないですか」
京一の弓取りというくらいだから、毎回のように成功するものだと思っていた。でも、考えてみれば当然である。矢の背面はたったの1センチ。30メートル先を1センチ精度で狙うためには、風の強さや湿気なども関係してくる。現実的に考えて、どんな名人であろうと狙ってできるものではない。
「絵里咲が見ていたからできましたのよ」
「あたしが……?」
「そうですわ。絵里咲にかっこいいと思ってほしいから、普段以上の力が出せましたの」
「そ、そうですか……」
間近で見る椿の顔面は、良すぎた。
ウェーブがかかった柔らかそうな赤髪。長いまつげ。端正な口元。
性格が嫌でなければ、推せるくらいにはかわいい。
だが、いくら顔が良くとも人を簡単に殺す悪役令嬢だ。倫理的に推すわけにはいかない。絵里咲は頭の中で「大嫌い大嫌い!」と自己暗示するように唱えた。
「だから、ご褒美をいただけませんの?」
「ご褒美……?」
「ええ。継矢を成功したご褒美ですわ」
「ご褒美って……たとえば?」
「そうですわねぇ。頬に口づけ……とか」
「口づけ……?」
椿は自分の頬を指差した。
冗談かと思ったが、椿が冗談を言うとも思えない。
「すみません。あたしは洗濯をしなきゃいけないので、ここで……」
「ご褒美をくれてからでもよいのではなくて?」
「しません! そもそもあたしは継矢をしてなんて頼んでませんから!」
「つれませんわね」
悪役令嬢は不満げに口を尖らせた。
そんな椿を尻目に、壁ドンの状態から抜けて立ち去ろうとすると――椿の腕に退路を塞がれた。
「な……なんですか?」
椿が真剣な顔で絵里咲を睨んでいる。
超怖かった。
「ご褒美がほしいですわ」
ご褒美がほしいだけのようである。
――早く抜けないと洗濯当番に間に合わないのよねぇ……
ちらりと椿の頬を見る。
きめ細かい肌はまるで化粧水を塗ったばかりみたいに潤っている。
悪役令嬢は嫌いだけど、頬は柔らかそうだった。
不覚にもドキドキした。でも、相手は悪役令嬢。好きになるわけにはいかない。だから、ドキドキしたのは悪役令嬢が怖いせいだと自分に言い聞かせた。
――まぁ……頬だけなら……。えいっ!
「!」
軽く唇を触れさせると、悪役令嬢は後ろに倒れそうになった。
その顔から火が吹き出そうなほど赤く染まっていた。
「――それでは!」
「ちょ……ちょっとお待ちなさいな」
「さっき、口づけしたら行っていいって言いましたよね?」
「言いましたけど……本当に行きますの?」
椿は頬の口づけされたあたりに手を当てて、信じられないといった風に目を見開いていた。瞳孔がほんの少し開いてさえいた。
「ではさようなら」
「ず……ずるいですわ!」
名残惜しそうな椿を置いて、そそくさと洗濯場へ向かった。