第十話 噂娘
絵里咲が転生してしまった『肇国桜吹雪』の世界は、〈完全歴史シミュレーション乙女ゲーム〉という分類にくくられる史上初めてのゲームだ。完全歴史シミュレーションというのは、世界の物理法則を完璧に再現し、人間と見分けがつかない“完全な”知能を搭載したキャラクター達がゲーム世界に配置され、外の世界からの客人であるプレイヤーたちをキャーキャー言わせるというものである。
もちろん、プレイヤー自身が喋って動くわけにはいかないので、行動と発言はその都度自動生成される選択肢から選ぶことになる。攻略できるキャラも、ゲーム内では四人に絞られている。主人公が四人以外を好きにならないようプログラムされているのだ(だから、絵里咲をはじめとした流々子ファンたちはゲーム内でその欲望を満たすことが叶わなかった)。
ストーリーの分岐点は膨大で、そのパターンは推計80恒河沙通り(8のあとに0が53個付く)もあるという。だが、エンディングには大まかなパターンが、あり、おおよそ128通りに収束する。ハッピーエンド、バッドエンド、ハッピービターエンド……プレイ後の余韻はさまざまだが、そのすべてに共通していることがある。――神宮寺椿の死だ。
椿はどのルートでも鬱陶しく、高飛車な態度としつこい狼藉でプレイヤーを苛々させる。自分の地位と脳力を鼻にかけていて、何かにつけていちいち喧嘩を売ってくることから、椿さまのことが本気で苦手なプレイヤーは多い。そんな椿さまがむごたらしく死ぬシーンは、プレイヤーに最高のカタルシスを提供する(つまり、スカッとする)。
通のあいだでは、ストーリーにおける椿の死亡時点をツバキの花になぞらえて〈椿の首落ちポイント〉と呼ばれ、そのタイミングやシチュエーションがフラグを判定する基準にも使われているくらい。――『肇国桜吹雪』のファンはみな、椿の死に慣れきっているのだ。
しつこいアプローチを断るのも、椿さまが死ぬまでの辛抱。そう自分自身に言い聞かせて、同室人が待つ寮の自室に向かった。
「ちょっと――えりずさん! どういうことかしら⁉」
同じクラスにお初というゴシップ好きでお節介な女の子がいる(この時代、人口の八割以上がゴシップ好きでお節介だが)。
絵里咲が自室で茶々乃と茶飲み話をしていると、けたたましい音とともに襖が開いた。襖の向こうに仁王立ちしていたのは、ゴシップ好きのお初。
彼女はその活発そうなポニーテールをゆらゆらと揺らして部屋に侵入し、荒々しく茶々乃を押しのけると、鼻息荒く絵里咲の肩に掴みかかった。
興奮しすぎて、まるでオランウータンのボスみたいに顔が火照っていた。
「えりずじゃなくて絵里咲よ。どうしたの?」
「火事でも起きた?」
余計な茶々を入れたのは茶々乃。茶々乃は頻繁に余計な茶々を入れる。
「火事なんかよりよっぽど大事よ!」
「どうしたのよ」
「どうしたのよ……じゃないでしょ‼ 貴女、椿さまに求婚されたじゃないの! どうして断ったの!」
「断るわよ。あんな意地悪な人」
「意地悪でも相手は神宮寺家だよ? 歴史上最大の玉の輿だよ? おとぎ話にも書かれないよ⁉ こんなにおいしい話をご破産にするなんてどうかしてるよ!」
歴史上最大の玉の輿かどうかは怪しい。黄金煌めくマリ王国のマンサ・ムーサ王は35兆円も持っていたらしいから、ジェフ・ベゾスと結婚しても差額は20兆円。誰と結婚しても論理的に『歴史上最大の玉の輿』となる。
「でも苦手だし」
「苦手でも結婚しなさいな! 貴女は嫌でも、ご両親のことを考えて。神宮寺さまと結婚したら、お父上とお母上がどれだけ喜ぶと思う? 育ててもらった恩を返すと思って話を受けなさいな‼」
「いやよ。苦手な人と結婚して不幸な結婚生活を送ることは親孝行じゃないわ」
――椿さまのことは苦手だし、どうせ3年以内に死ぬし、結婚なんて絶対にしないわ
絵里咲に迷いはなかった。
「もう。ほんっとバカなんだから」
「なんとでも言って。私にはね、心に決めた人がいるの」
「流々子さまのこと?」
「ええ」
「あんなにやんごとないお方と結婚するのなんて無理だよ。現実を見なさい!」
「椿さまだってやんごとないじゃない」
「椿さまの例が特別なだけ。諦めて求婚を受けなさいな!」
「諦めないわ」
もし椿と結婚しても、どうせすぐに椿が死んでしまい、『十七歳で未亡人』という現代の法律では論理的に再現できない現象が起こってしまう。
そんな面白いエンディングはごめんだった。
「田舎っ子にはわからないよ。椿さまのお嫁さんとなれば、那古野藩の人々にどれほど敬愛されるか。想像してみなよ! 藩に帰ったら百姓が名前を叫びながら手を振ってくれるんだよ?」
「それで京では謀略に巻き込まれる。――あたしは敬愛なんかされなくたっていいの。なるべく長い時間を好きな方と一緒に過ごして、苦手な方とはそうしたくないだけ」
先ほどからさらっと同性婚について話しているが、『肇国桜吹雪』の世界においては普通に受け入れられている。ゲーム内にもさまざまな男性同士、女性同士のカップルが脇役として登場する。ネット掲示板では、このゲームの開発に外資系企業が参加したことが関係していると推理されていたが、真相は開発者のみぞ知る。
「苦手でも玉の輿だよ?」
「玉の輿なんてどうでも――」
「あーもー。えりずの好きにさせてあげなよ。こいつは貧乏性なんだから、百姓身分が丁度いいんじゃない?」
「茶々は黙ってて。私はえりずさんと話をしているの」
「なによー!」
お初と茶々乃が火花を散らす勢いで睨み合っている。
争う二人を見ていると、絵里咲の前頭葉にある学級委員長中枢が「諫めなきゃ」と騒ぎ出した。
「そこまでよ!」
「お初さん。ご助言をいただけるのは大変うれしいけど、ここはあたしと茶々乃の部屋よ。余所の人はもう部屋に戻って寝る時間でしょう?」
「いいの? 絶対に後悔するよ。絵里咲さん」
「後悔するのはあたしよ。お初さんじゃなくて」
「せっかく親切で言ってあげてるのに」
「わかってるわ。親切にありがとう。おやすみなさい」
「絵里咲さんがいいならいいのよ。……おやすみなさい」
お初がおとなしく去ろうとしたところで、
「早く帰れー! べー!」
茶々乃があっかんべーをしたことで、二人は本気の枕投げ合戦を始めた。
学級委員長中枢が諌めようとしたが、枕投げによって舞った埃に絵里咲のハウスダストアレルギーが発動して咳き込んでしまったため、消灯時間までに諌めることはできなかった。
廊下から見回りが歩いてくる足音がした。茶々乃は素早く寝たふりをし、お初は茶々乃と同じ布団の下に隠れた。
ただ一人。絵里咲だけは散らかった部屋の中心で咳き込んでいた。
襖が開いて現れたのは、よりにもよって鬼教官と恐れられてる熊沢先生だった。ヒグマのように屈強な筋肉に覆われた強面の女性である。
一歩踏み出すごとにドシンドシンと床を振動させながら、絵里咲の前に迫った。
その巨大な図体の存在感は圧倒的だった。思わず唾を飲んだ。
「えりずさん。夜中なのに騒がしい音がしたのですが、これはどういうことですか?」
「これは……えっと~……」
布団の下に隠れているお初の存在を密告するわけにもいかず、なにも言えないでいると……
「覚悟が足りないぞ古読えりず。武人を目指す者は早寝を心がけろ! ――三日間居残りの罰だ!」
「え……えりずでは……」
「返事はっ⁉」
「――はいっっ‼」
――なんであたしが~~!
先生が去ると、茶々乃はツボに入ったように笑いはじめた。絵里咲はそのあんぐりと開いた口に枕を投げつけた。華麗に避けられた。




