獣人少女は狩人と出会った
少女は思い出した。自分たちが、虐げられる存在であることを。
長らくそれを忘れていたのは、優しい主が忘れさせてくれたからだ。
しかし、主はここにいない。主も、他の同族たちも、危機に晒されている。
唯一逃れた自分が、助けを呼ばなければならないのに。
やはり人々が指差して嘲る通りの、無力で無意味な存在なのだろうか。
自分たち――《獣人》は。
「ちくしょう! どこまで追ってきやがるんだよお!?」
「なにが『行商をゴブリンの餌にして、積み荷を馬車ごと頂くだけの楽な仕事』だよ! 来たのはゴブリンじゃなくて《オーガベアー》じゃねえか! お前の発案でこうなったんだぞ、どう責任取ってくれる!?」
「うるっせえ! お前らも一獲千金だって大喜びで賛成しただろうが!」
汗だくになって走りながら、口汚く罵り合う三人の男たち。
先のやり取りだけでわかるように、冒険者よりならず者と呼ぶのが相応しい連中だ。
「それもこれも、てめえのせいだぞ、クソガキが! てめえの獣臭い匂いが熊野郎をおびき寄せたんだ、そうに決まってる!」
「そうだ! どこまで俺たちの足を引っ張りやがる、この役立たずが!」
「てめえには分け前なしだからな!」
三人の罵声の矛先が、彼らの後ろを走る少女へと向けられる。
フードを被った少女は女の子と言っていい年頃で、小さな背丈には明らかに不釣り合いな大きさの荷物袋が。中にはありったけの金品が詰め込まれ、ただでさえ満足な食事も与えられず弱った少女の体は悲鳴を上げていた。
男たちは気遣うどころか、ノロマだ足手纏いだと罵詈雑言を浴びせるばかり。奴隷のように、ではない。事実、男たちは少女を奴隷として扱っているのだ。
分け前なんて一度だって払ったがないくせに……そう口に出して言い返せれば、どんなにスッキリするだろう。しかし過去に体に刻みつけられ、ここ数日で思い出させられた苦痛の記憶が、少女の喉を凍りつかせた。
今も逃走中でなければ、罵声と一緒に拳や蹴りや石が飛んできたことだろう。
「ゴギャアアアア!」
「ひ、ひぃぃ!」
剛腕の一振りでへし折られた大木がすぐ隣に倒れ、悲鳴を漏らす男たち。
背後から迫るのは赤銅の獣毛に覆われ、頭から太く鋭い角を生やした鬼熊――本来なら白銀級の冒険者がパーティーを組んで挑むような怪物だ。最下級である青銅級の男たちでは到底戦いにならない。
「くそ、こうなったら……」
リーダー格の男が、こちらを振り返ってニタリと嗤った。
「その荷物を寄越せ。重かっただろ? 持ってやるよ」
白々しい猫撫で声は魂胆が見え透いていたが、少女は抵抗の術が思いつかない。
男のこちらを見る目に苛立ちが浮かぶと、反射的に荷物を明け渡してしまった。
そして案の定、腹に蹴りを入れられ鬼熊の方へと転がされる。
ああ、結局こうなるのか。自分たちはこうなるのが運命なのか。
惨めで情けなくて……「やっと終わる」という昏い安堵と絶望が心を満たす。
「獣畜生同士、仲良くやれるだろ? その貧相な体張って、そいつを足止めしろ! お前みたいなゴミを今まで使ってやったんだ! 最後くらいしっかり俺らの役に立ちやがれ、このケダモノ女! ギャハハハハ――ギャバ!?」
「うん、お前がやれ」
突如として吹き荒れた黒い風が、リーダーの男をふっ飛ばした。
男は少女の頭上を飛び越えて、オーガベアーの鼻っ面に激突。
当然、オーガベアーは男の方に食いついた。
「やめろ! やめで! たずげ、グゲェェ!」
耳を塞ぎたくなる、肉を抉る音と断末魔の叫び。
安物の金属鎧を紙切れのように爪が裂き、男は腹から貪り食われていく。
助かった、と言うべきなのか。今のは黒い風は一体?
「お前ら、突然現れてなんなんだ!? 妙な格好しやがって!」
「リーダーをオーガベアーに食わせやがったな!? 正気かよ、この人でなしがあ!」
少女が顔を上げると、残る男たちの前に立ち塞がるかのように、見たこともない格好をした二人の男女がそこにいた。二人とも金属でなく、明らかに獣の素材で作られた装備に身を包んでいるのだ。
鈍色の、しかし鉄ではない甲殻の鎧を纏った、黒髪の剣士が低い声で言う。
「自分の数秒前の行いを顧みてから物を言えよ。獣の前に蹴り出して餌にするのが人でなしなら、こいつに同じことしたお前らも人でなしだろうが」
「ふざけんな! そんな人擬きと俺たち人間様を一緒にするんじゃねえ!」
「ふざけてるのはそっちでしょう。人じゃなければ獣の餌にしていいなら、人でなしのあなたたちを餌にしたってなにも問題はありませんよね? まあ既に一人やっちゃいましたし、死人に口なしということで。どの道、生かして帰す気は毛頭ないですが」
とんがり帽子と手には杖の、絵本から出てきたような魔女が冷たく嗤った。
格好はともかく、見る限り二人は男たちと同じ人間のはず。しかし男たちが自分を見下す目よりも、二人が男たちを見る目の方が遥かに冷たくて恐ろしかった。あれほど怖かったはずの男たちが、蟻のごとくちっぽけに見えるほどに。
二人は男たちと少女の間に位置取りを変える。あたかも少女を庇うようにして。
前方が開いたことで、男たちは逃げ出そうとした……のだろう。しかし実際には一歩どころか指一本動けなかった。彼らの足下から白い糸が伸び、まるでそれ自体が生き物のように蠢いて、男たちに絡みついたのだ。
そして簀巻きにされた二人はひとりでにオーガベアーの方へと引っ張られていく。
「こいつを解け! この人殺し! ひとご、ゴボォォ!」
「やめて! 助けて! お願いします! おね、ギャア!」
「怪我はありませんか? ――これはちょっと驚きましたね、まさかこんなところで『親戚』と出会うとは」
魔女が少女の体にあちこち触れて、怪我の有無を確認する。背後でオーガベアーのおかわりになった二人の叫びなど聞こえていない顔だ。
抵抗する間もなくフードを外され、頭から生えた「猫耳」を見られてしまうが……魔女の目には蔑みも憐れみも浮かばなかった。本当にただ、ちょっと驚いたように目を瞬かせただけ。むしろ慈しむような手つきで頭を撫でられて。
思わず肩から力が抜けてしまいそうになるが、少女は現状を思い出して我に返る。
「あの、オーガベアーが! 逃げなくちゃ!」
「オーガベアー……《オニビグマ》を、こちらではそう呼ぶのですか。大丈夫ですよ、三人も食べてお腹は一杯でしょうし、フレイが威嚇すればオニビグマも裸足で逃げ出し「ゴギャアアアア!」「ちぃ!」え――?」
余裕を示す魔女の表情が、弾き飛ばされた剣士を見て驚愕に変わる。
オーガベアーは逃げ出すどころか、こちらを見逃す気など欠片もない様子で吼えた。
直立し、肩から伸びる赤毛の二本腕と……汚泥のようにドロドロした二本腕の、計四本腕を掲げてこちらを威圧する。その巨体は獣毛と汚泥がまだら模様を作り、黄ばんだ白い眼球には瞳がない。まさに生命を冒涜するかのごとき、おぞましい異形。
こんな言い方もおかしいが、少女からすれば『なんの変哲もない』邪悪な魔物の姿だ。
しかし二人にとっては違うのか、なにか信じ難いモノを見る目をしていた。
「魔物の汚泥に、肉体を侵食されている……!?」
「どうやら、こっちで魔獣と魔物が一緒くたにされている原因はこれらしいな。俺の威嚇に反応するだけの自我も失われているみたいだ」
二人の会話の意味はよくわからなかったが、危機的状況に変わりはない。
ところが、剣士は剣と盾を手に再び前へと進み出た。
「ミクスはその子を守ってやれ。こいつは、こんな姿のままにしとくのは憐れだ。せめて俺が介錯する」
「な、なにを言ってるの!? 敵うわけない、殺されちゃうよ!」
「まあまあ、ちょっと見ていてご覧なさい」
なぜオーガベアーを前にして、そんな暢気に構えていられるのか。
少女の混乱と恐怖は、雄々しい咆哮にかき消された。
「【獣装:錬鉄の竜身】――グルアアアアアアアア!」
おぞましい魔物が発するソレとはまるで違う、勇壮なる雄叫び。
剣士の全身が燃えるような漆黒のオーラを纏い、その姿を変えていく。
鎧と人体の境目が失われ、皮膚が鱗と甲殻に覆われる。防具のない頭さえ、人ならざる顔に化けた。口は耳元まで割れ、歯は鋭い牙に、瞳は瞳孔が縦に裂ける。極めつけはマントの下、背中からズルリと伸びた『尾』だ。
竜の鎧を身につけた人が、人型の竜となっていく。
少女が獣人なら、剣士の変じた姿はさしずめ――。
「竜、人……!?」
「我らが《ダークの民》に伝わる暗黒魔術の秘伝『その二』ですよ。身につけた魔獣の武具と一体化し、半獣半人の異形に我が身を変える術。獣の装いを自らの爪牙そのものと化す奥義……それがこの【獣装】です」
「ゴギャアアアア!」
「グルアアアア!」
そこから起こったのは「戦い」でなく、一方的な「狩り」だった。
オーガベアーの振り下ろした赤毛の両腕が、盾の薙ぎ払いで弾かれる。
否、赤毛の両腕は衝撃でへし折られ、増えた関節から骨が飛び出していた。
盾で払った勢いを殺さず、剣士はその場で回転。
無防備に晒された背中を叩き潰そうと、残る汚泥の両腕が襲いかかる。
しかしそれも、剣士の『尾』が遠心力を乗せた一撃で、肩の根元から寸断した。
腕を四本全て潰されたオーガベアーに、剣士は一回転からの斬撃を繰り出す。回転の最中に盾を放棄し、両手持ちに切り替えた渾身の一振りだ。さらに白磁の刃が黒い炎で燃え上がり、激しい力の高まりのためか、怒れる竜の姿が剣士に被って見えた。
「ゴアアアア――!」
オーガベアーも最後の足掻きとばかりに、吼えながら頭を突き出す。
狙ったのは牙での噛みつきか、角による頭突きか。どちらにせよそれは、断頭台に自ら首を差し出すようなモノだった。……あるいは、本当に介錯を求めたのか。少女にはとても判断がつかない。ただ、剣士の表情がどこか悲しそうに見えた。
漆黒の斬撃がオーガベアーの首を一閃で断つ。胴から離れた鬼熊の頭が、重々しい音を立てて地面を揺らした。
現実味のない光景に、少女は我が目を疑う。
男たちといい、オーガベアーといい、自分が絶望の象徴のように恐れていたものは一体なんだったのか。そんなものは取るに足らないとばかりに吹き散らした、恐ろしくも美しいまでの暴威。この二人は一体何者なのか。少女の常識からはかけ離れた存在だった。
まるで人間ではないかのような――そう考えたところで、血の気が凍る。
二人の正体に思い至った少女は、地面に頭を擦りつけながら訴えた。
「に、逃げたことは謝罪します! いくらでも罰を受けます! どんなことをしてでも償います! 『魔王軍』のことは誓って誰にも話していません! だから、だからご主人様と皆に酷いことはしないで……!」
「…………まーたその手の誤解ですか。でも、なにかワケアリっぽいですね?」
「まあ首を突っ込んだ以上、ここで放り出すわけにもいかないか。とりあえず、腹ごしらえしながら事情を聞かせろよ。ところでこいつ、汚泥に浸食されてない部分だけでも切り分けて食えないかな? せめてもの供養にしたいんだけど」
「魔物を食べる!? 人ならざる所業、やっぱり魔の一族……! ま、まさか私も鍋にして食べるつもりなんじゃ!?」
「「だーかーらー」」
懇々と説明された内容の半分も理解できなかったが、とりあえず『あいつら』の仲間ではないらしい。それだけでも、少女は腰が抜けるほど安堵する。
あと、熊鍋は今まで味わったことがないほどの美味だった。