赤い赤い炎は誰が為に燃える
フィーナは見た。鮮血にも似た、赤い赤い赫炎を。
最初、燃え上がるフレイの体を見て、彼がやられてしまったのかと思った。
しかし、それが誤りだとすぐに悟る。
赫炎に包まれ、鎧ごと真っ黒に炭化したフレイの右半身。
それがビキビキと異音を立てながら、半竜半人以上の異形へと変異する。手足からは鉤爪、頭からは尖角を伸ばす、焦げ付いた黒い外殻に。外殻の下には皮膚も筋肉も骨格もない。かろうじて人型と思しき輪郭を保って、ただ炎が赤々と燃えていた。
体が燃えているのではない。体が、炎そのものと化しているのだ。
【グルルルッ】
「なん、なの、アレ」
口から火を噴く魔物なら話に聞いたことがある。
全身に炎を纏う魔物なら実際に見たこともある。
しかし……『身体が炎でできている生き物』など、見たことも聞いたこともない!
『ウギャアアアアアアアアアアアアアアアア――ア? あ? へ?』
断末魔の叫びが、困惑と恐怖と混乱の声に変わる。
使徒は『傷一つない』己の全身を両手で忙しなくまさぐった。のっぺらぼうの顔でも、その手つきから狼狽のほどが窺える。
夢か幻覚かと使徒が惑うのも束の間、フレイだった赫炎の怪物が動いた。
【グルア!】
変異した右足が火を噴き、その反動で怪物は跳躍。
最早、飛翔に等しい勢いが、上空にいる使徒との間合いを秒で殺す。
振り抜かれた赫炎纏う右拳に、使徒の体がパンケーキのごとく噛み千切られた。
『ヒギィ!? ……ぎ? が? あ?』
胴の半分以上が削り取られ、誰の目にも明らかな致命傷。
しかしその体が赫炎で燃え上がったかと思えば、後には無傷の使徒が。
炎に包まれて再生するなんて、まるで伝説に語られる不死鳥か。
だが、それが使徒自身の意図した現象でないことは、使徒が全身で表す混乱の様子からも明らかだった。
ならば、あの異常を引き起こしているのは、赫炎の怪物に他ならない。
魔獣の力を操るというフレイとミクスの暗黒魔術も、フィーナにとっては十二分に未知の領域だった。司祭が変じた使徒も、神話から現れたかと見紛うほどの脅威だった。しかし、あの赫炎はそれらをも遥かに凌駕する、あまりにも人知を超えた規格外。
一体、アレはなんだというのだ。
フィーナは自分と仲間の獣人たちを庇うように覆い被さった、ミクスへと視線を向ける。どこか悲しげな彼女の表情に、驚愕や動揺の色はない。つまり、あの赫炎の怪物を知っているのだ。彼女も三種混合の異形に変じているが、とても気にしていられない。
言葉にならず視線で問いかけるフィーナに気づき、ミクスが苦笑を浮かべた。
「私たち《ダークの民》に伝わる暗黒魔術、魔獣の力を操るその奥義には、大きく三つの段階があります。魔獣の素材を媒介として消費し、瞬間的に魔獣の能力を具現化するのが奥義の一【獣臨】。魔獣の素材で作られた装備を媒介に、我が身を半獣半人に変える奥義の二【獣装】。そして最後が奥義の極み――体内に魔獣の力を定着させ、己の中に獣を宿すことで、媒介を必要とせずに我が身を獣と化す【獣躯】です」
ほとんど説明になっていないが、言わんとしていることはなんとなくわかった。
その【獣躯】とやらでフレイが変異した結果が、あの赫炎の怪物。
しかし聞く限り、【獣躯】自体は先に見た暗黒魔術の延長に過ぎない。
つまり、異常で規格外なのは術でなく――。
「ただし……彼の中に宿るのは、《獣》の範疇を遥かに逸脱した《龍》ですがね」
【グルアアアアアアアア!】
『ぬ、ぐああああ! 汚らわしい魔族ごときが、図に乗るなああああ!』
言葉こそ傲慢だがその実、恐れを振り払おうとする必死で悲痛な絶叫。
使徒は光輪から光の矢を乱発する。矢の威力は石造りの壁を容易く穿ち、穴の周囲にはヒビ一つ入らない貫通性。冒険者はおろか、魔導鎧で身を固めた王国軍さえ、降り注ぐ光の矢に抗う術はないだろう。
まさに神の御使いが下す裁きの光は、しかし赫炎の怪物に対し全くの無力だった。
効く効かないの以前に、届かない。怪物の半径三メートル付近に達した時点で、光の矢が突如として発火し燃え尽きてしまうのだ。『光を燃やす』などという事象は、フィーナが知る限りどんな魔法でもありえない。しかし現実に起こっている。
逆に怪物の攻撃は、一撃ごとに使徒の体を消し飛ばした。
拳や蹴りの一振りで半身がボロ炭に変わり、体内から発生した火球で残りの半身が灰になる。ときに一撃では原型を失わずに済むこともあるが、原型がなくなるまでの苦痛が長引くだけ。魔力障壁や高速飛翔で抵抗を図っても、全くの無意味。
炎に放られた木の葉のように、使徒は一瞬で火達磨と化した。
――そして次の瞬間には、使徒の体は傷一つ残さず元通りになる。
再生したところで痛みはあるのだろう。繰り返すごとに使徒の声は、恐怖と絶望の色を幾重にも塗り重ねたものになる。のっぺらぼうの顔が悲痛に歪む。
しかし、終わらない。頭を潰されても。心臓が胴体ごと消し飛んでも。全身が灰になっても。磨り潰されても。焼却されても。赫炎に包まれては蘇る。そして死ぬ。再生する。殺される。元通りになる。燃えて。燃やされて。何度でも、何度でも、何度でも!
それは苦痛のための再生。破壊のための回復。本来なら一生にあって一度きりで済む、想像を絶する死の痛苦を、絶え間なく与えられ続ける地獄の責め苦だ。
【グルアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッ!】
『やめ……許し……助け……!』
悪夢よりも酷い地獄じみた光景だった。
光輪と翼を備え、まさに天使がごとき威容を輝かせた使徒なる存在。
それがまるで、鳥を捌いて串焼きにでもするかのような気安さで、翼を千切られ光輪を砕かれ、八つ裂き串刺しの挙句に燃やされる。宙を舞い、地べたを這いずり、怯えた悲鳴を上げて。その有様に、神の御使いとしての荘厳さや威圧感などどこにもなかった。
人が伏して崇めるべき絶対の存在。そう教会が声高に嘯く威信を、圧倒的な暴威が嘲り笑い踏み躙る。歴史ある信仰と神話が、紙切れのごとく炎に焼いて捨てられる。
信心深い、平伏して神に救いを祈っていた者たちが、夢から醒めたような顔でそれを見ていた。
そこにいるのは自分たちの不信心を断罪する天使などではなく、暴力をさらなる暴力で踏み躙られる、ただの矮小な人なのだという事実を突きつけられて。
あの恐ろしい赫の炎に比べれば、神も天使もちっぽけな存在なのだと思い知って。
『うぐおおおお……! な、なんだ? なにが起きている? 私は死んで、生きて? うああああ! 貴様、私の体になにをしているのだあ!?』
【なにをしたかと言えば、ただ「燃やした」だけだ。その機械仕掛けの体に仕組まれた能力も、不死性も、なにもかもな】
獣じみた唸り声ばかりだった怪物が、不意に理性的な言葉を発した。
怪物の異形と化した側の顔には眼球がなく、空っぽの眼窩から炎が絶えず迸っている。その一方でよくよく見れば、人の形を留めている左側の眼には、変わらぬ意志の光があった。つまり、半分はフレイの意識が残っているというのか?
あの怪物に人の意識が同居しているなど、俄には信じ難い。しかし、どこか人ならざる者じみた口調ながら、確かにフレイの声で怪物は語る。
【我が炎は赫怒の劫火。森羅万象、一切合切を焼き尽くす災禍だ。貴様が死なないのも、焼き殺す度に『貴様の「死」を燃やして』蘇らせているだけのこと。距離も、時間も、時空も、次元も、我が赫炎の前では等しく灰燼に帰すのみ。――そら、この通りにな】
怪物が前方へかざした手のひらの上で、赫炎が燃える。
すると、地を這い怪物から必死に遠ざかろうとしていた使徒が、瞬きの間に怪物の手に捕まった。傍からでは、使徒が自ら怪物の手元へ瞬間移動したようにしか見えない。
距離も燃やすと怪物は言った。つまり使徒との間にあった距離を、燃やして失くしたとでもいうのか。やはり、あの赫炎は異常だ。自然現象でも魔導工学でも、現象や事象そのものを燃やすような炎なんて在り得ない。
『ひぃぃ、ひぃぃ……! なんだ、この理不尽な力は、異常だぞ!? おのれ、悪魔め! なぜ貴様のようなバケモノが私の前に、なぜ私がこんな目にぃぃ!』
【我は憤怒の化身。力なき者の、切なる怒りが我を呼び寄せた。後ろの子供たちだけではない。その卑小な優越感に浸るために貴様、どれだけ多くの獣人たちを虐げてきた? 貴様にこびりついた彼らの無念が、怨念が、我には視えているぞ】
怪物の半身を形作る炎が揺らめき、なにかの像が浮かび上がる。
それは、顔だった。怒りと憎しみに満ちた、獣人たちの顔だ。
その中に見知った顔を見つけて、フィーナの心臓がキュッと締めつけられる。今、腕の中で気を失った獣人たちは、仲間の全員ではない。この場にいない仲間の顔が、怪物の赫炎に浮かぶということは……つまり、そういうことなのだろう。
彼らが永遠に帰らぬ身と悟ったフィーナの耳に、使徒の耳障りな嘲笑が飛び込む。
『は、ハハハハ。なにを言い出すかと思えば。人の皮を被った畜生同士で、傷の舐め合いか? くだらん! 我ら穢れなき真なる人族と、貴様ら薄汚い獣人とでは、命の価値が違うのだ! 獣人ごときゴミどもの怒りなどで、この神聖なる体を傷つけるなど万死に値する大罪だぞ! 身の程を弁えろ、このクズがあ!』
「お、ま、えぇぇ……!」
仲間を助け出した安堵と、怪物の規格外ぶりで吹き飛びかけていた怒りが再び込み上げる。こいつは自分の手で殺さねば治まらないと、憎悪の火が魂を焼く。
しかし――その怒りと憎しみの火が、スッとフィーナの中から引いていった。
怒りも憎しみも鎮まったわけではない。
ただ、それらがフィーナの手元から離れ、赤い赤い炎となって怪物に吸い込まれる。
【勝手で悪いが貴様たちの怒り、引き受けさせてもらうぞ】
半身の赫炎が火勢を増し、人のままの半身を焦がした。
フィーナだけでなく、多くの怒りと憎しみに身を焼かれながら。
怪物は逃げず拒まず否定せず、その全てを受け入れ引き受けていく。
「――最後の一押しになったのは私に対する侮辱でしょうが、フレイはずっと憤っていたのです。あなたたちが受けた理不尽な仕打ちに。あなたたちだけでなく、多くの罪なき獣人を嘲笑い踏み躙った、あの司祭の理不尽に。その怒りが彼を怪物に変えた」
ミクスは泣き出しそうな顔で、しかし呼び止めることはしなかった。
炎を纏い、炎に焼かれ、炎となる背中を、決して目を背けずに見届ける。
「恐れるのは当然ですし、感謝しろとは言いません。でも、どうか知っていてあげてください。彼が、あなたたちの痛みを思って怒っていることを」
「私たちの、ため……?」
――誰も助けてなんかくれない。誰も手を差し伸べてなんかくれない。
そう言ったフレイが、ここまでフィーナを連れてきてくれた。仲間を自分の手で救えるよう、助けてくれた。無力な自分たち獣人の怒りに、手を差し伸べてくれた。
怖いのに。恐ろしいのに。禍々しくて、異形で、異常な怪物なのに。
まるで、小さい頃の絵本で夢見た勇者様みたいだ。
『ま、待て! 貴様、神の代理人たる我ら教会の者に手を出して、タダで済むと思っているのか! 既に聖戦の準備は整っているのだ! 我らが偉大なる神の光が、貴様ら穢れた闇を暗黒大陸から浄化する! これに逆らえば、死後も永久無限の神罰が……!』
【うるせえ、知るか。燃えろ】
怪物に掴み上げられた使徒の全身が、瞬時に炎上する。
皮膚が爛れ、肉が溶け、骨が焦げつく。
今度は再生せず、かといって燃え尽きもしなかった。
天使の皮も剥がれた司祭が、しかし人の形を保ったまま灼熱の中で踊り狂う。
終わらない責め苦にのた打ち回るその有様こそ、地獄で業火に焼かれる咎人の姿。
『――――!』
【それは貴様が踏みつけてきた者たちの憤怒。救われぬままに命果て、それでも死に切れず世界に焼きついた怒りの炎だ。彼らの怒りが晴れるまで、彼らの痛みが癒えるまで、何日でも何年でも赫炎に焼かれ続けるがいい】
炎の眼で一瞥したのを最後に、怪物は踵を返す。
黒殻が赫炎を閉じ込めるように合わさって人型を作ると、ボロボロとひび割れ剥がれ始めた。黒殻が全て剥がれ落ちると、そこには元通りの姿になったフレイが。
酷くバツの悪そうな、しかし引き起こした異常のほどに比べれば、呆れるほど軽い調子でフレイは呟く。
「悪い。またやらかした」
「いつものことでしょう? 慣れっこですよ。まあ……謂れもない誤解が、もう取り返しのつかない次元に悪化したようですが」
そう言ってミクスが視線を巡らせた先には、頭を地に擦りつけて平伏す人々。
「これが魔王軍の力」「いや、アレこそ魔王」「いいや魔王より上の魔神」等々と、かろうじて拾える言葉だけでも、恐怖で憶測が飛び交い戦慄で妄想が加速し、話が際限なく大きくなっている様子。なんだか司祭のでっち上げよりも話が膨らんでいるような?
たぶん実際は、どの言葉でも到底収まらないような存在なのだろうけども。
「とりあえず逃げましょう。やるべきことをやり遂げたら、後始末は偉い人に丸投げしてとんずら。これがはみだし者の鉄則です」
「どこか安全な場所で、仲間の手当てもしないとな。なんかもう、勝手に首突っ込んだ挙句に今度はこっちが巻き込んだ感じだけど……災害に巻き込まれたモノと思って、諦めてくれ。お前とお前の仲間と、お前らのご主人様の安全を確保するまではひとまず、さ」
それでも、この二人が本当は優しい人たちだと、自分には信じられたから。
二人から差し出された手を、フィーナは迷いなく掴んだ。
蜘蛛糸の揺り籠が自分と仲間を優しく包み込み、蝙蝠と竜の翼で空へ連れ出される。
異形の姿で飛ぶ二人が、フィーナの目には神様のように見えた。