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少年は少女と出会う


 暗い暗い夜の樹海の中を、少年は必死に駆けていた。


 月明かりも分厚い暗雲で遮られ、一寸先には暗闇がぽっかりと口を開けている。底無しの穴に自ら飛び込むかのようで、恐ろしくて堪らなかった。

 それでも足を止めずに走り続ける。


 すぐ背後に迫る「死」から逃げるために。


「あひっ、あぐ、あがぁ……!」


 最早、言葉の体を成していない叫びを漏らしながら、息を吸おうとする。

 しかし上手く呼吸ができず、足はもつれ、太い木の根に躓いた。

 地面を転げ回り、全身すり傷だらけになる。血の匂いが鼻を突く。


「う、ぅぅ」

「グルルルッ」


 涙を堪え切れず蹲っている間に、死が少年に追いついた。

 少年が見たことのある野犬より、一回りも二回りも大きな体の――狼だ。

 数は三匹。鋭い牙の間から滴る涎を見れば、目的など言葉が通じずとも一目瞭然。


「なんでっ、どうして、こんなことに」


 少年は恐怖に震え、泣きじゃくりながら、ここに至るまでの経緯を思い返す。


 ……元はと言えばいじめっ子どもに押し込まれ、小船で沖に流されたのが不幸の始まりだ。急な潮の流れで、船はどんどん陸から離れて。大人は気づいてくれず、船を漕ぐ櫂もなく、どれだけ手で必死に海を掻いても陸には戻れず。


 気づけば海の真ん中でひとりぼっち。もうどちらに陸があるのかもわからない。


 泣いても叫んでも喚いても助けはなく。やがて飢えと喉の渇きと疲労で、呻き声一つ立てられなくなった。そこへ雨が降って天の助けと思ったのも束の間、雨は嵐に変じてちっぽけな小船を呑み込んだ。神も勇者もいないのだと、意識も絶望の底に沈む。


 気がつけば、見知らぬ浜辺に流れ着いていた。

 嵐になにもかも持っていかれたように、心は空っぽで。

 とにかくお腹が空いて、誰かに会いたくて。

 ただそれだけを思いながら、絵本でしか見たことがない樹海の中に足を踏み入れた。


 そして今、自分は獣に追われて餌になりかかっている。


「ふざ、けんな」


 なぜ自分がこんな目に遭う。そんなのわかり切っているではないか。


 遊び気分で自分を沖に流したいじめっ子どものせいだ。

 沖に流される自分に気づいてくれなかった大人たちのせいだ。

 救いの手を差し伸べてくれない神や勇者のせいだ。


 そして、そして――「誰か助けて」と震えることしかできない、己が無力のせいだ!


「ふざけんなよ、クソが。クソがっ、クソッタレがああああ!」


 憎い。憎い。憎い!

 自分を虐げる下衆な者たちが憎い。自分を見捨てる薄情な者たちが憎い。

 なにより、我が身も守れず誰かの助けを期待するばかりな、己の弱さが憎い!


 気づけば体の震えは治まっていた。

 勇気などではない。もっとドス黒くて凶暴な衝動が少年を奮い立たせる。


「死ぬもんか。死んでたまるか」


 たまたま手に触れた棒切れを掴んで、立ち上がった。

 武器としては余りに貧弱だ。勝算なんてない。勝ち目なんてない。

 うるせえ知るか、と耳障りな弱音を切り捨てる。


「殺されてたまるか。いや……ぶっ殺してやる!」


 ただの自暴自棄だ。やるだけ無駄だ。諦めろよ、ゴミめ。

 そういじめっ子どもが、大人たちが、世界そのものが自分を嘲っている錯覚。


 負けてたまるか。屈するものか。諦めてなんかやるものか。

 誰も助けてくれないなら、自分で立ち上がるしかないんだ!


「ルオオオオアアアアアアアア!」


 吼えた。ありったけの怒りを込めて。獣のごとく雄叫びを上げた。

 狼たちが少しだけ怯んだような様子を見せて、すぐに飛びかかろうと再び身構える。

 ほんの僅かな時間差。しかし、その間で少年の運命は大きく変わった。


「――良い怒りです。見所ありますよ、あなた」


 涼やかな声と共に、背後から氷の礫が飛来する。

 氷は少年を避けて狼たちに命中し、狼たちはキャンキャンと吠えながら退散した。

 死が遠ざかっていくのを呆然と見送った後、少年は背後を振り返る。


 狙ったように雲が途切れて、差し込んだ月明かりの下。

 高い段差の上に、翼を広げた少女が立っていた。


「……天使さま?」

「――くふふっ。この姿を見て、真っ先に口から出る言葉がソレだなんて、変わってますね。第一、天使というのは、背中から翼が生えているのでしょう?」


 目の前に降りてきた少女の姿は、確かに少年が知る天使とは大きく異なっていた。


 まず、少女は『頭から』翼を生やしている。それも鳥のような羽根でなく、蝙蝠に似た皮膜の翼だ。手足も、まるで違う生物の部位を人間と混ぜ合わせたような異形。大人や他の子供たちなら、これを「バケモノ」と呼び表したことだろう。


 しかし……少年はその異形を「美しい」と感じた。自分が知る言葉では上手く言い表す術のない、未知の「美」に自分は巡り合ったのだと。

 だから少年は、惚けた顔でこう訂正を返す。


「ごめん、言い直す。君は、天使よりずっとずっと綺麗だ」

「――っ。いや、その反応は、流石にちょっと予想外なんですが」


 頬を朱に染めた少女が、頭の翼で顔を隠そうとする。

 同じ年頃の割に大人びているというか、大人ぶっているような喋り方や振る舞いだが、その仕草は普通に可愛らしい女の子のそれで。

 異形とのギャップがまたなんとも胸をくすぐり、少年は一段と見惚れてしまった。


「可愛い……。綺麗で可愛いでしかも強いとか、もう無敵なんじゃ……?」

「ああもう、調子が狂うから禁止です。それ以上は禁止!」


 鱗に覆われた、ひんやりとした手に口を塞がれる。

 異形への恐怖よりも、異性に触れられた羞恥で少年の顔がカアッと熱くなった。

 その反応に対し、少女はなにやら珍獣でも見るような目をする。


「あなた、本当に変わってます。私が怖くないんですか? 私、どう見たってバケモノでしょう? 襲われるー、とか。食べられるー、とか。もっとこう、ないんですか?」

「いや、そんな両手の指曲げて『がおー』ってされても……。可愛い、よ?」

「――これでも?」


 不意に少女の表情が凍てつき、その全身から《闇》が溢れ出した。

 炎のように揺らめくそれは、暗闇さえ色褪せる深き漆黒で少女の姿を縁どる。

 暗黒のオーラが叫びにも似た圧を発し、少年を震え上がらせた。


 少女は満足げ、というにはどこか感情を押し殺したような表情で、再度見せつけるように異形の手を差し出す。


「ほら、これでわかったでしょう? 私は綺麗なんかじゃ……え、ちょ、なにをして」

「い、痛いの痛いの、飛んでけえ――って痛い!? 俺が痛い!?」

「馬鹿ですか、あなた!? 今の私の手、鮫肌になっているんですから!」


 少女の手を擦ろうとした結果、少年の手がザックリを裂けてしまったのだ。

 慌てて少女は、どこからか取り出した糸を包帯代わりに巻きつける。

 すると手から不思議と痛みが引いていき、少年は涙目になりながら礼を言った。


「ありがとう。ごめん、かっこ悪くて」

「いえ、その、今のはどういうつもりですか?」

「どういうつもりって、うーん……なんだか痛そうで、辛そうだったから。助けてもらったし、なんとかしてあげたいって、そう思ったんだ。できなかったけど」


 不甲斐なさと情けなさに、少年は縮こまる。

 少女の纏う《闇》が、まるで泣き叫んでいるかのように少年には感じられた。

 だから助けになりたかったのに、醜態を晒しただけの自分が嫌になる。

 しかし少女は、思わずといった様子で凍っていた表情を綻ばせた。


「なんというか――不思議な人ですね、あなたは」


 その雪解けのような微笑みに、少年の胸が一段と大きく高鳴る。

 恐怖とは別の、名も知らぬ感情が心臓を叩き、全身に血を巡らせた。

 冷え切った体が温かな熱に浮かされ、夢でも見ているような心地だ。

 しかし、少女の問いかけが少年を現実に引き戻す。


「やっぱりあなた、外からやって来た人ですよね。どうしてこんなところに? 家はどこですか? 帰り道はわかりますか?」

「……わから、ない。もう、帰る場所なんて、ないのかも」


 あまりに衝撃的な体験続きだったせいか、生まれ育った村の記憶が酷く遠い。

 今この場にいることより、むしろ村で育った思い出の方が幻のように思えてきて。

 途端に、世界のどこにも居場所がなくなったような心細さに立ち竦んだ。


 そんな少年の心情を、少女がどこまで汲み取ったかは定かでないが。

 少女はこんなことを言い出した。


「――そうですか。帰る場所がないなら、うちの子になりますか? もう一度言いますけど、あなた、見所ありますよ。闇の力を制する才能が」

「闇の力? 君は、一体……」

「私たちは《ダークの民》――闇の力で強大な獣と戦う狩猟民族です。あなたには素質がありますよ。もしかしたら、私たち一族以上に。……強い狩人になったら、私のお婿さんにしてあげてもいいですよ?」

「本当!?」


 歳がいくつだろうと男なんて現金なもので、少年はホイホイと誘いに釣られた。

 悪戯っぽい笑みで差し出された少女の手を取り、導かれるがままについて行く。

 暗闇のさらに奥深くへと進んでいくが、もう怖くはなかった。


 だって――少女の異形の手が、こちらをもう傷つけまいとするように優しく、少年の手を握り返していてくれたから。



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