友理 潤さま お祝い小説
三毛猫の朝
友理 潤
◇◇
こよみのうえでは、立春を迎えたが、手足が凍るような寒さが続くある日の朝。
もこもこしたダウンコートに身を包んだその女の子は、白い息を吐きながら病院が併設された大学の校舎に向かって足早に先を急いでいた。
あどけなさの残る可愛らしい顔に似合わぬ、疲れの影が見られるのは、彼女がこのところ根つめているせいだ。
はたから見れば、「不機嫌なのかな?」と首をかしげてしまうほどに険しい表情の彼女。
と、そこに、足元から「ミャーン」という猫の泣き声が聞こえてきたのだ。
彼女はぴたりと足を止め、横に停まっている白い軽自動車に目をやる。
すると車の下で、一匹の三毛猫が丸まっていた。
「あら、可愛い三毛猫ちゃん。こんなところにいると風邪ひいちゃうよ」
彼女の固くなっていた肩がほぐれ、かすかに笑みがもれる。
それを黄色い瞳でじっと見つめていた猫は、もう一度「ミャーン」と高い声で鳴いた。
「ふふ、まるで励ましてくれているみたい。ありがとね」
彼女が「励まされた」と感じるのも無理はない。
実を言うと彼女は看護師の卵で、この大学に通う4年生だ。
二週間後に迫った国家試験に向けて、昼夜も問わずに猛勉強中。
しかし、どんなに勉強しても「本当に合格できるのか」という不安が常に彼女の背中を追いかけまわしていたのである。
突然目の前に現れた三毛猫に一瞬だけ緩んだ気持ちだが、吹き抜ける冬の風を受けて、再び凍りついた。
「はあ……」
大きなため息とともに、再び無機質な校舎に視線を戻した。
今日もこれから黙々とテキストと向き合う時間が待っている。
立ち止まっている暇なんてない。
だって、もし足を止めたら、たちまち不安という名の黒い雲に飲み込まれてしまうから……。
――ミャーン。
暗い顔をした彼女の鼓膜を震わせる猫の声。
彼女は再び猫に目をやった。
その直後、猫は車の下からのっそりと出てくると、とことこと歩き出したのである。
そしてしばらく行ったところで、彼女の方を振り返り「ミャーン」と鳴いた。
「ついてこいってこと?」
彼女は目を丸くして問いかけた。
もちろん猫が答えるはずもなく、再び前を歩き出す。
今日の授業は午後からだ。午前中は自習をするつもりだったので、多少の寄り道をしても問題ない。
そこで彼女は猫の後をつけていくことにしたのだった。
大きな駐車場を横切り、大学と病棟を結ぶ廊下を抜けていく。
彼女が入学して間もない頃は、何度も迷子になった大学の敷地を、猫は迷いなく真っ直ぐ進んでいった。
白と茶と黒の三色に彩られた背中が小刻みに揺れている。
その背中を見つめているうちに、不思議なことが起こったのである。
「これって……。4年間の記憶……」
そう、それは彼女が『見習い看護師』として過ごしてきた日々が頭の中を埋め尽くしていったのだ。
辛かったこと。楽しかったこと。嬉しかったこと。
患者、先生、先輩そして同僚の顔。
そして目に見えぬ人々の励ましの声。
彼女の腹の底で熱い何かが沸き上がっていく。
ちょっとでも油断すればその大きな瞳から涙が溢れてきそうだ。
――ミャーン。
そうして猫に連れだされた場所は、かつて彼女が小児看護の実習で子どもたちと遊んだ庭だった――。
『おねえちゃん! がんばってね!』
『おねえちゃんがしろい服を着るのをたのしみにしてるね!』
まるで流れ星のように脳裏をよぎっていく子どもたちの声と笑顔。
『わたしたちも病気に負けないから!!』
そして彼女はきづいたのだった。
「戦っているのは、わたしだけじゃないんだ……」
と――。
彼女の顔に覇気が戻り、瞳には強い光がともる。
4年間の日々で取り戻した自信は、彼女の丸くなっていた背筋を伸ばした。
「もう少し、がんばってみる」
そうつぶやいた彼女は大学の校舎に向けて、力強い一歩を踏み出す。
だが彼女は一つだけ忘れ物を思い出した。
「猫ちゃん、ありがとう!」
しかし三毛猫の姿は、そこにはなかった。
あたりを見回してもどこにもいない。
それでも彼女の耳には確かに届いていたのだ。
――ミャーン。
という甘い鳴き声が。
それは、
『がんばって!』
と言ってくれているように、彼女には思えてならなかった。
(了)
がんばれ!
友理 潤
友理 潤さまへ
試験を直前に控え心に余裕がなく情緒不安定な時に届いたプレゼント。本当に嬉しかったです。4年間頑張ってきたことを思い出させてくれたのもこの作品でした。
潤さまに素敵なプレゼントをいただき、いい報告をできるように頑張らなくちゃ。と心に気合いを入れ直す事ができました。本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします。