偽りの春(八章)
代官屋敷の奥座敷でお紺は代官にお酌をしていた。
「少し早くはございませんか?」
酒を飲む早さではない。
「腹が空いておるのだ。全ておまえのせいだぞ」
「一人ずつと、お約束したじゃあございませんか……」
「良いではないか。女に逃げられたのはお主の責めじゃ」
「だからと言って今日入った子にまで、目をつけることはないじゃあございませんか?」
「女などいくらでもいるだろう。なにを案じておるのだ、儂を誰だと思っておる?」
その問いに答える代わりにお紺は目を伏せた。目はなにかを言いたげだ。
月に一人という約束だった。
それが今月は、一人目に逃げられた挙句に死なれ、二人目にも逃げられ子分たちに探させている最中だ。代官は二人目がいるにも関わらず、堪え性がなくお千代にも目を付けた。お千代に印を付けたのは、二人目が逃げたという話が入る前だ。
代官という地位があれば、政[マツリゴト]の範囲内ではいくらでも隠し事が利くだろう。
しかし、悪い噂が立てば立つほど女郎たちは言うことを聞かなくなる。
それにもうひとつお紺は危惧していた。
「逃げた娘を探しに出した子分から連絡がございません」
「逃げた娘がまだ見つからんだけだろう」
「それだけなら宜しいんでございますが、お代官様もくれぐれもご注意を……」
お紺はゆらりと艶やかに立ち上がり軽い会釈をした。
「それでは御機嫌なすって」
奥座敷をあとにして、障子を閉めたお紺は呟く。
「……糞爺め」
その呟きは完全に雨音に掻き消された。
代官屋敷を出たお紺は御付きを従え歩き出した。
雨風が強く、御付きが持つ行燈が激しく左右に揺れている。
灯していた行燈が雨に濡れてすーっと消えた。
闇の中でお紺の形相は見る見るうちに歪んでいった。
「どいつもこいつも、腹の立つ奴らばかりだね!」
怒りが最高潮に達したお紺は、その長い爪を前にいた御付きの背に振り下ろしていた。
「ぎゃぁぁぁ!」
御付きの背が血を噴いた。
地面に両手をついた御付きにお紺は冷笑を浴びせ、裾を捲し上げて御付きの腹を蹴り上げた。
「ぐがっ……」
胃の内容物を吐露した男にお紺を軽蔑した。
「汚らしい真似すんじゃないよ!」
御付きの後頭部は力強く踏みつけられ、頭を地面に激しく打ち付けられた御付は絶命した。
「こんな下男を殺しても腹の虫が治まらないよ」
嵐の夜道を歩きながらお紺は気を静めていった。
面を被ったように荒れた気性を隠し、お紺は何食わぬ顔で天狐組みに戻って来た。
すると子分たちは慌てふためいていた。
「姐さん! 一大事ですぜ、早く奥の部屋に来てください」
子分に連れられ奥の部屋にいくと、片耳に布を当てられた男が呻いていた。傍には親分も付き添っている。
「畜生め、誰にやられたかはっきり言え!」
親分の怒号が子分たちの耳を振るわせた。
部屋に入ってきたお紺は冷静を装って辺りの子分たちを見回した。
「いったいなにがあったんだい?」
子分たちが黙り込む中、答えたのは親分だった。
「いや、それが……わからねぇんだ」
「わからないってどういうことだい!」
お紺の米神に血管が浮いた。それを見た子分たちは震え上がり、親分まで腰が引けている。
「だってよぉ、おまえ。帰ってきてからこの状態で話も聞けねぇんだ」
「ウチの組は役立たずばっかりだね、おまえさんもだよ」
お紺を上から親分を見下ろした。
町民や子分たちには強い親分も、お紺だけには頭が上がらない。
「役立たずなんて言われてもよ、いちよう子分たちを探しに出したんだぜ」
女郎を探しに出た子分たちの中で、ただひとり帰ってきたのは片耳を失った男だけ。他の子分を探しに、新たに子分たちを探しに出したが、一向に見つかったという連絡はない。
外は嵐だ。それに夜だ。外に出された子分たちも嫌々だろうに。
お紺は親分の顔をぎろりと見た。
「で、どうなったんだい?」
「なにもない。さっき一度帰ってきた子分に話を聞いたが、前に出た子分たちの足取りをまったく掴めんそうだ」
「嵐の晩に隣村まで女郎一人を追う根性はウチの若いもんにはないだろ? 真昼間だって途中で戻ってくるさ。じゃあどこに消えたのさ? 死んでるにしても、大勢が死んでりゃあ、どこかに痕跡が残ってるもんだろ。まさか神隠しにでもあったというのかい?」
片耳を失った男から察するに、なにか暴力沙汰があったのは確かだろう。と、お紺は察したが、自分でも言ったように屍体すら出ないことが頭を悩ませる。
まさか葛籠に吸い込まれたなど誰が想像しようか。
片耳を失った男は、それからひと言も発せず、眠ることすらできずに恐怖に震え続けた。
雨の中を走り回った子分たちも、なんの収穫もないまま帰ってきた。
今宵のお紺は嵐よりも激しく荒れ狂いたい気分だった。
「どいつもこいつも……」
しかし、お紺は理性で怒りを沈めた。
敵の正体が知れないうちは下手に動かないほうがいい。
いや、正体には心当たりがあった。
知りたいのは目的だ。目の届くところで自由に泳がせたが、今ひとつ相手の目的がはっきりとしていなかった。
そして、お紺は不気味にほくそえんだ。