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偽りの春(七章)

 自分が泊まっている宿にお蝶は娘を匿った。

 ふとんに寝かされた娘の顔は赤く、頬がやつれてしまっている。

 豪雨に打たれ風邪を引いてしまったらしい。痩せこけた娘の顔を見るに、自力で回復する体力はなさそうだ。

 お蝶は娘の額に濡れ布を被せた。

「よく効く薬がある。それを飲んで、温かい粥でも食って休むといい」

 無言の黒子は早々にあの葛籠から薬を出し、娘に口を開かせようとした。

 だが、葛籠が再び開けられるのを見た娘は凍り付いてしまっていた。

 葛籠が開かれる恐怖が躰を凍らせる。

 黒子はお蝶と娘に背を向けて、徐[オモムロ]に顔の前に掛かっている黒い布を捲くった。今、壁だけが黒子の顔を見ている。果たしてどんな顔をしているのだろうか?

 壁を向いた黒子は紙に包んだ薬を顔に近づけてなにかをした。

 再び顔を隠した黒子は振り返り、娘の顔に自分の顔を近づける。

 驚く娘の眼前で、黒子は顔に掛かる布を捲くって、なんと素顔を見せたのだ。

 娘は呆として口を開けた。その瞬間、黒子は口移して薬を娘の口に飲み込ませた。

 唇を離しながら黒子は再び顔を隠した。

 娘は呆としたまま、目を白黒させてしまっている。

 この世ならぬモノを見たことは確からしいが、なにを見たのか娘はぼんやりとして思い出せない。

 薬が効いたのか、それとも別の妖術か、しばらくして娘の熱は引いてきた。

 先ほど粥を食べた娘だが、風邪がどこかに飛んでしまったためか、腹の虫がぐぅと鳴いた。

 宿の者に大きな握り飯を三つ用意してもらったが、娘は相当に腹を空かせていたのか、あっという間にぺろりと平らげた。

 口の端に付いた米粒を親指で取り、娘はその指を舐めた。

 それを見ていたお蝶がにこりと笑うと、娘も人懐っこい笑みを浮かべた。

 娘はふとんの上で正座をして、丁寧に頭を下げた。

「ありがとうございました」

「よっぽど腹を空かせてたんだね」

 笑いながらお蝶は言った。

 娘も照れながら笑う。

「はい、このところ飯も咽喉に通りませんでした」

「なぜだい?」

「怖くて、お代官様に抱かれるのが怖くて……」

 顔を曇らせ娘は眼を伏せた。

 優しい顔をしてお蝶は娘の髪を撫でる。

「安心おし、あたいが守ってやるよ」

 その方法は恐怖でしかない。けれど、それを操るお蝶と黒子に、なぜか娘は強烈に惹かれていた。魔性に属している二人に魅入られてしまったのだ。

 お蝶は娘の頭を胸に抱き、優しく髪を撫で続けた。

 娘の耳は激しい鼓動を聴いた。

 安らかで、落ち着いているお蝶の鼓動が激しい。それはまるで激しい運動をしたように、脈々と躰の中を巡り巡っている。

 娘はお蝶の鼓動の音に不気味さを感じ、ゆっくりと抱かれることをやめて躰を離した。

 菩薩のような穏やかな眼差しをお蝶は娘に向けている。

「なぜお代官様が怖いのか話してくれるかい?」

「……はい」

 娘は自分が知る限りの話をお蝶たちに聞かせた。

 女郎屋から消える女郎たち。その影に潜む代官の悪い噂。そして、自分の身に起きたこと。

 この娘は代官のいる座敷に何度か呼ばれ、数回にわたって代官に抱かれた。その時期、この娘以外にも代官の相手をしていた女郎がおり、その女郎の首には代官に付けられたらしい痣があった。

 首に印を付けられた女郎は獲物だと皆噂する。その印を付けられた者に限って姿を消すからだ。中には印が付けられたあとに足抜けをしようとする女郎が数多くいる。

 前に印をつけられた女郎は足抜けをしようとした。けれど、それは成就することはなかった。この町にお蝶が来てはじめて出会った女郎だ。

 あの女郎が死んだ日のうちに、今お蝶たちの前にいる娘は印をつけられたらしい。今日、お千代が座敷に呼ばれるよりも前、日がまだ昇っていた頃のことだった。

 代官は一日うちに何人の女を抱いているのだろうか?

 あの枯れた躰からは信じられないことだ。

 印を付けられた娘は逃げた。それからすぐにお蝶たちに助けられたのだ。

 そして今に至る。

 お蝶は難しい顔をして腕組みをした。

「本当にお代官様が事件に関わりあるっていうのかい?」

「はい、いなくなった者はみんなお代官様に印をつけられた者でした」

「多くの女郎がいなくなったっていうのに、あの女元締めさんや天狐組みの親分さんはなにもいわないのかい?」

「元締めはきっとぐるなんです。絶対そうです」

「あの元締めはなにか臭うとは思っていたけどね。まあいい、今日はゆっくりとおやすみ、病み上がりの躰に無理をさせちゃあいけないよ」

 お蝶は娘をふとんに寝かし、掛け布団を優しく被せてあげた。そのまま相手の瞳を覗き込みながらお蝶は言う。

「町の外まで送ってあげたいけど、あたいらはまだこの町に用があってね。店の者に金を握らせておけば、多少は匿ってくれるだろうよ。けどね、危なくなったらひとりでお逃げ」

「待ってます」

 宿を出た途端、天狐組みのやくざに出会わないとも限らない。

「そうかい、用が済んだら隣村でも町でも、好きなところまで送ってやるよ」

「ありがとうございます」

「あいよ、おやすみ」

「おやすみなさい」

 娘は静かに眼を閉じた。闇は訪れなかった。ゆらゆら揺れる蝋燭の火が瞼の裏に映る。

 闇の中で娘は眠ることができないだろう。

 これからずっと……。

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