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偽りの春(六章)

 お千代たちの姿が消えたあと、お蝶は黒子を引き連れ歩き出した。

 傘は差しているが、暗がりの中で行燈は灯していない。

 月も星も出ていない晩。土砂降りの雨が空から落ちてくる。

 時おり奔る稲光が辺りを照らす。

 歩いていたお蝶の足がなぜか止まる。

 ふと横を見ると、細い路地で蹲る娘の影があった。

 派手な振袖がびしょびしょに濡れている。

「どうしたんだい、あんた?」

 お蝶が尋ねると娘は震えた躰で逃げ出そうとした。

「ちょいとお待ちよ」

 お蝶は相手の袖を掴み、そのまま自分の元に抱き寄せた。

 娘の首に青い痣がついていることをお蝶は見逃さなかった。

 激しい雨音の中で黒子は耳をそばだてた。

 お蝶は黒子に娘を預け、通りに出て遠くに目をやった。

 踵で水を跳ね上げ、何者かが束になって走ってくる。その顔には見覚えがあった。天狐組みの奴らだ。

 雨で瞼を開けづらそうにやくざもんたちは辺りを探している。もちろん、黒子が肩を抱いている娘だ。

 やくざの一人が暗闇に潜むお蝶に気付いた。

「おい、年頃の娘を見なかったか?」

「見た」

 と、お蝶は顔を横に向けて娘を示した。

 娘は引き渡されると顔をハッとさせ、寒さと恐怖で身を震えさせた。

 やくざもんが娘に近づこうとしたとき、それを遮るように長い腕が伸びた。

「娘さんをあんたらに渡す気はありやせんよ」

「なんだと?」

 眼つきの悪い男は下から顎を突き出し睨め付けた。

 いつの間にかやくざもんたちはお蝶を取り囲んでいた。彼らにはいつかの礼もあるだろう。たっぷりとお蝶を可愛がろうと思っているに違いない。

 しかし、お蝶に臆する様子はまったくない。

「娘さんが欲しければ、あたいを犯すなり殺すなりなすってからにしてもらいましょうか」

「おう、言われなくても姦[マワ]してやらあ」

「威勢だけは良いこって。今日は観客もおりやせんし、都合の良いことに暗がり。こちらも本気でやらせてもらいやすよ?」

「調子に乗りやがって、やっちまえ!」

 暗がりで鈍く匕首が光った。

 大の男が束になってお蝶に襲い掛かる。

 朱塗りの傘が宙に投げられた。

 お蝶が舞う。

 それは乱舞だった。

「グギョェッ……」

 蛙の咽元を潰したような奇声がした。

 そして、お蝶から一番離れていた男が地面に倒れた。

 その奇怪な現象にやくざもんたちは一瞬怯むも、頭に血の昇った躰は抑えられず、構わずお蝶に飛び掛った。

 暗がりの中で風が薙がれた。

 風が吹き出すような音がした。それは首を失った胴が血を噴き上げる音だった。

 今度こそ心の芯から怯んだ男たちは動きを止めた。

 仲間のひとりが首を飛ばされた。その男にお蝶は触れていない。かまいたちか?

 一人の男が叫び声をあげてお蝶に背を向けた。逃げようとでもしたのだろう。

 しかし、その男の末路は悲惨だった。

 男の上半身が傾いた。否、右肩から左腰まで何かが趨[ハシ]り、男の上半身が斜めにずり落ちた。

 地面に落ちた上半身だけの男は、しばらくの間、もがき苦しみ生きていた。その呻き声を聴いたものは、耳に張り付いた恐怖に夜な夜なうなされることだろう。

 誰も逃げるしかないと思い、やくざもんたちは各々の方向に走り出した。

 膝を斬られ勢い余って胴が飛んだ。

 首が転がった。

 手が飛んだ。

 斬られた四肢が宙を舞う。

 噴出す血は雨や泥と混ざり、穢れた沼をつくりだす。

 最後に腰を抜かして動けなかった男が残った。

 地面に尻をつけ、躰の震えが止まらない。

 夢にしても悪すぎる。例え覚めたとしても、瞼の裏に焼きつく残像が恐怖を呼び起こすだろう。

 男は叫ぶ。

「殺してくれ!」

 死んで楽になったほうがましだ。

 昏[クラ]い陰を落とすお蝶の唇が艶やかに微笑んだ。

「外道は殺す価値もないね」

 お蝶の手が動いた刹那、男の片耳が削ぎ落とされた。

「ぎゃぇ!」

 悲鳴をあげた男の股間が温かくなった。男は失禁してしまっていた。

 お蝶はそれを知ってか知らずか嘲笑う。

「お逃げ、逃げなきゃもう片方も落とすよ」

「や、やめ……」

 男は指で泥を掻き分け必死に立ち上がろうともがいた。

 四つん這いになって背を向ける男のケツにお蝶の蹴りが入った。

「さっさとお逃げ、そのまま尻を突き出してる気なら、本当に尻を二つに割るよ」

「ひぇっ!」

 まともな言葉も出せず、男は必死に立ち上がり走り出した。けれど、少し走ったところで足がもつれて転んでしまった。

 顔面から地面に飛び込み、それでも痛みなど忘れて立ち上がり、無我夢中で逃げていった。

 残されたお蝶はばら肉に囲まれながら呟く。

「……さて」

 黒子は一部始終の間、肩を抱いていた娘の眼を手で押さえていた。

 例え目で見えなくとも音は聴こえ、娘は恐怖を感じていた。

 凍てついた狂気が辺りを包んでいる。

 黒子は娘の躰を半回転さえ、目から手をゆっくりと退けた。娘は振り返る気など毛頭ない。振り返ってはいけないと本能的に感じた。

 黒子は背負っていた柿渋色の葛籠を地面に下ろした。

 そして、ゆっくりと蓋を持ち上げた。

 お蝶は遠くを眺め甘く囁く。

「おゆきなさい」

 泣き叫ぶような声が聴こえた。

 その声は葛籠の奥にある闇の世界からした。

 悲鳴が聴こえる。泣き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。どれも苦痛に満ちている。

 葛籠から闇色をした風が飛び出した。

 叫び声をあげながら〈闇〉が世界を飛び交う。

 〈闇〉はお蝶の周りを飛び交い、地面に落ちた血肉を呑み込んでいく。

 跡形もなく、血の一滴も残さず、地面を抉ってでも全てを呑み込もうとする。

 貪欲に貪り喰う。

 何事もなかったように、その場にはなにも残らなかった。

「さっ、自分の世界にお帰り」

 お蝶の言葉に服従する〈闇〉は、やはり叫びながら葛籠の中に飛び込んでいく。

 そして、黒子は葛籠の蓋を固く閉じた。

 声を聴いてしまった娘は震えていた。

 聴いてはいけない、この世ならぬ叫びを聴いてしまった。

 これから一生、闇を恐れて生きていかなくてはならないかもしれない。

 女郎屋を逃げた娘は、それが正しい選択だったか、胸に迷いを生じさせた。

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