偽りの春(四章)
石灯籠が灯っているとはいえ、庭は暗がりで隅々まで見通せなかった。その闇に身を乗り出して目を凝らすお蝶。
「桜の下には屍体が埋まっているとよく言ったもんございやす」
廊下からお座敷に戻って、正座をしたお蝶はポンと手を叩いた。
「こりゃ失礼、それをいうなら柳の下でごぜえやした」
女郎屋の元締め――お紺の紹介でお蝶たちは座敷に呼ばれた。
相手は代官のお付だ。当の代官は隣の座敷で宴会を催しているらしい。お付の侍は酔わない程度に酒を嗜み、大事とあればすぐに駆けつけるように待機している。
この侍たちに芸を認められれば、代官に推挙してもらい、後日お代官のお座敷に呼んでもらえるということだ。
黒子はまだ葛籠から人形を出さずに、じっと正座をして待機している。
お蝶は三味線の音を合わせながら侍に尋ねる。
「お武家様方は、身の毛もよだつような怖い話はお好きでごぜえやすか?」
「それは良い、お代官様は奇譚がお好きでござったな?」
一人の侍はそう言い、隣の侍と顔を見合わせた。
「そうだ、あの御方は恐ろしい話が好きだと言っておられた」
お蝶はそれを聞いて、艶やかに笑って頷いた。
「それはよろしいこって。外の桜の木を見ておりやして、ひとつ面白い話を思い出しやした。今は秋、桜の花も咲いておりやせんが、今からお話するのは怪談とは無縁と思えやす、麗らかな春の話でございやす」
そして、お蝶は唄い出した。
黒子は唄に合わせた人形をすでに取り出していた。まるで示し合わせたような手際の良さだ。
女郎に本気の恋をした男と、その男を愛してしまった女郎の悲恋の話。
饒舌に唄う声に合わせて、弦が切れんばかりの激しい三味線の音色。
料亭の外は激しい雨が降ってきた。
風が笛を鳴らし、稲光が障子に女の影絵を映し、雷鳴が轟いた。
その時にちょうど、渡り廊下を歩いていたのはお紺に連れられたお千代であった。
お千代はお蝶が唄う部屋の前を通り過ぎ、隣の部屋の前で足を止めた。
廊下に二人は正座して、お紺が障子を開けた。
「失礼いたします」
開けらた障子の先では、代官が胡坐をかいて仰け反りながら酒を浴び、その取り巻きでは美人の芸者たちが歌い踊っていた。
ギロリとした代官の目玉がお千代を見た。
「早う早う、近う寄れ」
自分の横に座ったお千代に代官は空のお猪口を突き出した。すぐにお千代は酒を注いだ。
酒を注ぐお千代の横顔を舐めるように代官が見ている。
「上玉じゃのう」
生臭い息がお千代の吹きかかった。
代官はもう周りの芸者など見ていない。
「もう下がってよいぞ、二人で酒を楽しむでな」
唄い踊っていた芸者たちが急に静まり、乱れた着物を直して廊下に出て行く。最後にお紺がお座敷を後にする。
「どうぞごゆるりと……」
恐ろしいほどの艶笑を浮かべて、お紺は障子をぴしゃりと閉めた。
「若くて良い躰をしておる」
裾の間から枯れ枝のような指が差し込まれ、柔肌の太腿をまさぐられた。
顔を背けたお千代の横顔に代官の顔を近づく。
「怖がることはないぞ、儂は女の扱いを心得ておる」
ねっとりとしたモノがお千代の頬を這った。それは蛞蝓[ナメクジ]のように動く代官の舌であった。
お千代の躰は震えた。いや、痙攣した。
身の毛のよだつ恐怖のはずが、気持ちとは裏腹にお千代の躰は身悶えた。
耳を舐められ、息を切らしたお千代は退いた。
代官から逃げるようにお千代は退いた。
しかし、代官は蛇のようにしつこくお千代の躰に巻きつこうとする。
「儂が怖いか?」
「…………」
お千代の顔は引きつっている。
「良い表情じゃ。恐怖に引きつった顔のなんと甘美なことか……」
「嫌……まだ心の準備が……」
「大人しく儂に抱かれろ」
「嫌……緊張して……か、厠に行って参ります」
お千代はめいいっぱいの力で代官の躰を押し退け、廊下に続く障子の前に逃げた。
「厠に行って参ります。す、すぐに帰って来ます、絶対に」
「逃がさんぞ!」
飛び掛ってくる代官に背を向けてお千代は廊下に逃げた。
廊下を走るお千代は本当に厠に駆け込んだ。
肩で息をしながら、表情は強張っている。
呼吸を整えたお千代は裾を捲し上げて、自らの股座に手を忍ばせた。
そして――。
「ぐっ……」
歯を食いしばったお千代の目頭から涙が零れた。
厠を後にしたお千代は廊下でばったりお蝶と出会った。
お蝶は無言で横を通り過ぎようとしたお千代の腕を掴んで引き止めた。
「どこか怪我でもしたのかい?」
お蝶の掴んだお千代の手首から先に、血で汚れた跡が残っていた。
「いえ……」
「ならいいけど」
お蝶は懐から出した手ぬぐいで、お千代の手の穢れを拭った。
軽く頭を下げてお千代はお蝶と別れた。その足で代官のいる座敷に戻る。
障子を開けて、正座をしたお千代は深々と頭を下げた。
「失礼したしました。心の準備はもうできました」
顔を上げたお千代の表情は、先ほどと別人のように凛としていた。
「ほう、恐ろしゅうなって逃げたと思うたが、戻うてきたとは見直したぞ」
心の決まっているお千代は、臆することなく代官に身を任せた。
蝋燭の火が消された。
雨音が激しく打ち鳴らされ、部屋まで延びる雷光が代官の顔を照らす。
醜悪な表情で嗤っている。
お千代はその表情を瞼に焼き付けながら目を瞑った。
相手の為すがままに、お千代は傀儡と化した。
傀儡に涙は出なかった。
遠い世界に置いてきた耳に代官の声が響く。
「生娘と聞いておったが……ん?」
しかし、代官はお千代の股座から手を離し、指先につけた血を舐めた。
いつ流された血なのか、それを知っているのはお千代のみ。