偽りの春(二章)
町中でも二人の姿は行き交う人の目を惹いていた。
旅芸人のお蝶と黒子である。
華のあるお蝶を見る目は皆熱く、全身真っ黒な黒子を見る目はさまざまだ。
柿渋色の葛籠を背負い、黒子は杖を突きながら歩いている。杖の突き方は地面を確かめるようで、前が見えていないような歩き方だった。
道の真ん中を歩くお蝶と黒子の向かいから、派手な着物を乱す娘が走ってくる。
だいぶふらつく足取りで、娘はぶつかるようにしてお蝶に抱きかかえられた。
すぐさま娘を追ってきた面構えの悪いやくざもんたち。
「あら、困ったねえ」
と、お蝶は小さく呟いた。
抱きかかえられた娘はすでに気を失っている。やくざもんたちはすぐそこまで迫っていた。
「おい、その娘を渡してもらおうか!」
ドスを利かせた低い声に、周りの町人たちは身を潜めたが、言われたお蝶は凛としている。
「渡すもなにも、あたいたちは通りすがりの旅芸人。この娘さんとはなんの関係もありやせん」
「ならさっさと渡しやがれ!」
「ですが、通りがかりとはいえ、あたいに助けを求めた娘を放っておくわけにもいきやせん」
娘と三味線を黒子に預けようとお蝶は振り返り、向けた背に血の気の多いやくざが飛び掛ってきた。
黒子の持っていた杖が飛ぶ。
杖はやくざの眉間に当たり、短い奇声をあげてどんと倒れた。
やくざもんたちが一斉に匕首を抜いた。
対するお蝶は素手である。
ひらりひらりとお蝶は踊り、風を切る刃先を躱す。
ぽんとお蝶が相手の手首を叩けば、握られていた匕首は吸いつけられるように地面に落ちる。
舞い踊るお蝶の姿はまるで黒子の操る糸人形のようであった。
いつの間にかやくざもんたちは地面に倒され、残る一人は乱心して匕首を振り回して襲ってくる。けれど、そんな相手も軽くあしらい、力も加えたようすもないに、ひょいと投げ飛ばしてしまった。
くるりと回って飛んだ男は腰から地面に落ち、呻き声をあげながら戦意を喪失させた。
「お、覚えてやがれ!」
と、お決まりの文句を吐き捨てながら、情けない背中を見せて逃げていくやくざもんたち。
辺りは急に静まり返ってしまっていた。
しかし、空気は緊迫した人々の視線が痛いほどに飛び交っている。
お蝶が物陰に隠れている町人に顔を向けると、町人は怯えた唇を開きはじめた。
「おまえさんたち、天狐組に手を出すなんて生きてこの町を出られないよ」
「この島のやくざはそんなに幅を利かせてるのかい?」
「天狐組とお代官様が……」
なにかを言いかけて口を噤んだ。それでも察しは容易につく。天狐組とお代官様の間に、なんらかの関わりがあるということだろう。
黒子に抱かれている娘は安らかな顔をして目を閉じている。その首筋には痣らしき青い痕があった。
そして、娘は死んでいた。
痣以外は外傷もなく、こんな痣が致命傷とも思えず、娘はおそらく病かなにかで死んだのだろう。
お蝶は辺りの人々に言葉を投げかける。
「死んだこの娘さんの身寄りを知ってる者はいないのかね?」
皆一様に首を横に振った。中に一人がこう言う。
「その子は女郎だよ、どっかの村から連れて来られたんだろうよ。この町に身寄りなんていないさ」
引き取り手がないのならば仕方ない。
黒子は柿渋色の葛籠を開けると、中にその娘を丁重に入れた。人々はその光景に目を丸くした。
大きな葛籠と言っても、中に荷が入っているだろうし、娘が入らないこともないが、躰を曲げなければ到底入らない。それが、娘の躰はすーっと葛籠の中に吸い込まれたのだ。
天神の術か、それともバテレンの術か、得体の知れない黒子の謎は深まるばかりだった。
娘の入った葛籠をひょいと持ち上げ、黒子は重さなど感じさせない足取りで歩く。
お蝶も自分の三味線の包みを持って歩きだす。
二人が向かった方向は、やくざもんたちが逃げてった方向だった。
道行く人にお蝶は天狐組の居所を訊いて回った。すると賭場を構えていると教えられた。
天の紋が入った戸の前に目つきの悪い男が立っている。その男はお蝶の姿を見た瞬間、腰が引けた。
「て、ててめぇは!」
つい先ほど、お蝶にのされた男だ。
戸の前から動けない男を軽く押し退け、戸口に手を掛けた。
開いた戸の音は甲高く奥の部屋まで響いた。
中に居た者は一斉に身構える。
険悪な男たちとは違い、お蝶は柔和な笑みを浮かべた。
「あたしゃ喧嘩に来たんじゃありません。親分さんにお目通りを願いたく参上いたしやした」
奥の部屋から煙管を吹かせた小太りの男が現れた。
「俺になんの用だいお譲ちゃん」
「こちらさんの子分が追っていた娘さん、可哀想に亡くなりやした」
「で、亡骸は?」
「はい、そちらの葛籠に……」
お蝶が手向けた先で黒子は葛籠を開けた。
葛籠の中から『立って入っていた』ように娘の亡骸は脇を抱きかかえられた。
畳に寝かされた娘の表情は安らかだが、頬は酷くやつれてしまっている。
「随分とここの親分さんは遊女の扱いが手厚いようで……」
と、皮肉って、周りの眼がきつくなったのを承知でお蝶は言葉を続ける。
「この娘さんがなぜ死んだのか、深い詮索はいたいやせん。ですが、せめて里親に知らせてやるのが筋ってものでしょう」
お蝶の足元に小判が一枚投げられた。放ったのは親分だ。
「娘の亡骸は俺たちが預かろう。それは娘を届けてくれた駄賃だ、取っておきな」
「一両とは羽振が良いこって、ありがたく頂いておきやす」
一両には運び賃の他に、口止め料や無駄な詮索をするなという意味が含まれているのだろう。
懐に一両を仕舞ったお蝶は軽く頭を下げた。
「それではあたいはこれで失礼いたしやす」
背を向けたお蝶を見ながら、親分は子分たちに顎をしゃくって合図をした。
子分が抜いた切っ先がお蝶の背を襲う。
誰かが呟く。
「懲りないお人たちで……」
まるで背中に目があるように、お蝶は匕首をひらりと躱し、相手の手首を捻り上げた。
「いでででで……」
呻く男の横でお蝶は艶笑を浮かべた。
女の細腕でお蝶は掴んでいた男を、戸を破って通りの向こうまで投げ飛ばした。
驚いて眼を剥いた親分にお蝶は再び軽く頭を下げた。
「失礼したしやす」
着物の襟首を正しお蝶はこの場を後にしようとした。
その背中に親分が声をかける。
「おい、ちょっと待ちな」
「なんですかい?」
振り返ったお蝶の瞳に映る親分は人が代わったように、手をすり合わせて偽善者顔を作っていた。
「その腕を買おうじゃないか、ウチの用心棒としてどうだい?」
「ご生憎様で、あたいらは旅芸人。喧嘩沙汰を商売にしておりやせん」
二階から降りてくる人の気配がした。
子分の誰かが声をあげる。
「姐さん!」
紺色の着物を着た艶やかな女が、裾から生足を覗かせながら降りてくる。姉御のお紺だ。
「ウチの若いのを可愛がってくれたそうだね。それだけの武芸の腕がありゃ、他の芸も達者だろうよ。あたしが座敷を紹介いてやろうじゃないか」
「ありがとうございやす」
礼を述べるお蝶を見ながら、親分は口を挟む。
「おいおい、おまえ……」
「あんた、なにか文句でもあるのかい?」
と、切れ長な眼のお紺に睨まれ、親分は怯えたように口を慎んだ。
壊れた戸口を不審そうに見ながら、若い娘を連れた男が玄関に上がってきた。男の方はお蝶にすぐ気がついたようだ。
「あんたは……」
男と娘は山小屋で出会った二人だった。
連れの娘は畳に寝かされている、同じ年頃の娘の死体を見つめている。これから足を踏み込む世界の成れ果てだ。
お蝶と黒子はすでに通りに出ていた。屋内にいる親分と姉御に頭を下げて立ち去った。
乱暴に運ばれていく娘の死体。それを見る娘の眼は憎悪を湛えていた。