偽りの春(一章)
山道を歩いていると急な夕立が降ってきた。
近道だと通ってきた道だが、斜面が急で足元が悪く雨でぬかるみはじめている。
柿渋色の大きな葛籠を背負っていては余計に歩きづらいだろう。
遠めに目を見やると、小さな山小屋が見えた。猟師が骨休みをするための小屋だろう。寝泊りくらいならできそうだ。
芸者か花魁か、桜模様の華やかな着物を着た女は小屋の扉を開けた。
「失礼しますよ」
誰もいないと思って言った挨拶だが、どうやら中には先客がいたようだ。
男と女がひとりずつ。微妙な距離を保って座っている。どちらも猟師には見えない。
見るからに尖っていそうな男は案の定、小屋に入ってきた女に向かって睨みを効かせた。だが、次に入ってきた者を見て、ぎょっと眼を剥いた。
「なんだてめぇら?」
答えたのは華やかな着物を着た女だった。
「失礼いたしやす、あたしゃ旅芸人のお蝶と申します。こちらにおりますのが、連れの黒子」
黒子の姿はまさに舞台裏方の黒子。頭巾を被った黒い顔で、軽い会釈をした。旅姿としては相応しくなく、空の下で出会えば皆一様に驚く姿だ。
お蝶は早々に腰を下ろすと、黒子も背負っていた葛籠を床に下ろして正座をした。
方膝を立てて座っている男は、あからさまに嫌そうな顔をしてお蝶と黒子を見ている。
お蝶はにっこり笑って受け流す。
男は舌打ちをして床を睨んだ。その近くには女が似たような眼をして床を見ている。
この男女の関係は恋仲には見えない。
男の風貌から察するに、やくざもんの使い走りだろうか。少なくとも真っ当な生き方をしている者の眼ではない。
女のほうは難しい。綺麗な晴れ着と化粧をしている。お蝶と比べれば不思議はないが、山中には不釣合いだ。
化粧で誤魔化されているが、よく見れば女は若い。まだまだ娘という言葉が相応しいかもしれない。
子細がありそうな男女だ。
小屋の屋根を叩く雨音は強くなっている。もう外には出られそうにない。日も暮れはじめ、今夜はここで一晩明かすことになりそうだ。
しかし、一晩明かすにしては険悪だ。
元凶は不貞腐れている男。お蝶と黒子に不快感があるようだ。特に黒子を見る眼は鋭い。
黒子は正座をして無言でじっとしている。その姿は不気味という形容詞が当てはまりそうだ。得体の知れない者に警戒感を抱くのは当然といえよう。
長い時間が無言で流れた。
遠くの山から雷鳴が響いてくる。
雫の音が小屋の中でした。続いて男の舌打ちが聴こえる。
「チッ、雨漏りしてんじゃねえか……」
眼を凝らすと男の着物の袖に染みができている。
天井を見れば雫がぽつりぽつりと垂れている。険悪な雰囲気に拍車をかける出来事だ。
お蝶が自分の横に置いていた包みをすっと手に取った。
「退屈じゃぁありませんかい?」
男が顎をしゃくってお蝶を見ると、彼女は話を続ける。
「これでも旅芸人の端くれ、退屈しのぎに芸を見てくださいまし。もちろん御代はいただきません、退屈しのぎの座興でございます」
お蝶が包みを開いて出したのは、三本弦をぴんと張った楽器。見た目からも明らかな三味線だった。
不審の念を抱く男の目の前で、黒子が葛籠を開けようとしていた。
「おいてめぇ、なに出そうとしてんだ!」
身を乗り出す男。
すぐにお蝶が割って入った。
「これから見せます芸に使うもんですよ」
黒子が葛籠から取り出したのは、煌びやかな羽織りを着た糸あやつり人形だった。人形の大きさは、だいたい黒子の膝丈くらいだろうか。
人形が出てきて、はじめて晴れ着の女が口を開いた。
「おもしろそうね」
やはり若い。化粧で艶やかに繕っていても、声は瑞々しく幼さが残っている。
相手の興味を惹けばあとは簡単。
しかし、男は未だに警戒感を解いていない。
「そんなの頼んじゃいねえ、さっさと仕舞いな」
「そうといわず、そちらの娘さんは見たいと顔に書いてありやす」
と、お蝶は言って娘の顔を覗きこんだ。
「見たい、わたしは見たい」
願いを乞う瞳で娘は男を見つめたが、男はそれを簡単に突っぱねた。
「てめぇにゃ自由なんてねえんだ。おれが見たくねえと言ったら、それでおしまいよ」
「わたしは売られていくんだ。これくらい良いじゃないか……御代もいらないと言っているんだ」
売られていく娘に上等な着物を着せて送り出す。それが晴れ着と化粧の理由だった。
もうすでにお蝶はイチョウ型の撥を構えている。黒子の準備も整っているようだ。
男は不貞腐れた顔で、床にどすんと胡坐をかいた。
するとはじまるお蝶の演奏。
澄んだ声で唄い出すお蝶に合わせて、黒子の操る人形が舞い踊る。
時には激しく、時には穏やかに、人形は小人と見紛うほどに滑らかな動きを魅せている。
先ほどまで険のあった男の表情も、きょとんと人形に魅入られてしまっていた。
夜も更るまで、お蝶は声枯れることなくその美声を響かせた。それに合わせて黒子も一人で二体の人形を操る妙技を魅せた。見ている二人も時を忘れて、時おり思い出したように瞬きを連続でしていた。
険悪だった雰囲気もどこ吹く風で、芸が終えた後は皆に健やかな眠りが訪れた。
――翌朝になると雨は止んでいた。
眠気眼を擦りながら男は狐に抓[ツマ]まれた気分だった。
過ぎ去った雨と共に、謎の旅芸人たちも姿を消していたのだ。
小屋の外にでた娘を色鮮やかな紅葉が出迎えた。
秋の景色は哀愁を誘[イザナ]い、娘は潤んだ瞳で泣いていた。
それは売られていくことの哀しさか、それとも別の想いなのだろうか……。
知るは娘の心だけ。