偽りの春(十四章)
お紺から狐火が三発も放たれた。
どうにかお蝶は躱すも、続けざまに三発の狐火が宙を焦がす。
狐火を放ちながらお紺はお蝶との距離を縮めていた。
鋭く伸びたお紺の爪が妖しく光る。
お蝶は妖糸を放った。
妖糸を躱しながらお紺は長い爪を振り下ろす。
桜柄の着物に一本の線が奔り破けた。
あと一刹那、お蝶が飛び退くのが遅ければ、線は三本、はたまた五本、胸を抉られていたかもしれない。
危機一髪を乗り越えても、お蝶は汗一つ掻いていない。激しい運動を重ねているにも関わらず、やはり汗は掻いていない。やはり、お蝶は人間ではないのか?
お蝶に攻撃を躱されたお紺はそのまま地を駆け、正座をする黒子に飛び掛っていた。
慌てて黒子は横の地面に飛び込んだ。
地面に肩肘から落ちた黒子は立ち上がろうとしたが、そこへ再びお紺が襲い掛かる。
だが、それはお紺の目の前を抜けた輝線によって防がれた。
「あたいが相手だよ!」
叫ぶお蝶。
その隙に黒子は立ち上がり、乱れた息を整えた。
ひと言も発することなく、影のようにお蝶に寄り添う黒子。生きておるか死んでいるか、それすら怪しい黒子が、深い呼吸をしながら息を整えている。
お紺は黒子を見ながらお蝶に話しかける。
「あんたの連れは、あんたほど俊敏じゃなさそうだねえ」
「相手はあたいだよ、連れに手を出さないで貰おうじゃないか!」
「生憎、正々堂々なんて言葉は持ち合わせてなくてね。黒子はあんたの足手まとい、弁慶の泣き所と言ったところかねえ」
黒子は打ちつけた肘をだらりと地面に垂らし、もう片方の腕は腰でも打ったのか、背に回している。
お蝶は三点を見ていた。黒子、お紺とその近くにある柿渋色の葛籠。問題は葛籠がお紺のすぐ傍にあることだ。
葛籠を見ているお蝶の視線に気付かれた。お紺は葛籠に目をやった。
「この葛籠がどうかしたかい?」
「いえ、ただの商売道具が入っておりやすだけで」
その言葉を信じず勘ぐるのは当然だろう。
葛籠に手を掛けようとするお紺をお蝶が止める。
「ちょいとお待ちを!」
「この中になにが隠され……て!?」
葛籠は中から開き、人の膝丈ほどの影が飛び出した。
輝線が流れた。
紺が裂かれ朱が噴出す。
腕を斬られたお紺が顔を醜悪に歪ませながら怯んだ。
葛籠の前に立つ小柄な影。
それは袴を身に纏った人形であった。人形は脇差よりも短い刀を抜いている。
人形は糸が切れたように崩れた。すぐにお紺の背後にお蝶が襲い掛かる。
迫った妖糸は金色の尾によって弾かれた。
振り返ったお紺は憤怒していた。
「切り刻んでやる!」
お蝶がお紺の気を引いているうちに、再び人形が動き出しお紺の背後を衝こうとする。だが、二度目はない。人形は尾に弾かれ遠く宙に舞ってしまった。
その隙に黒子は迅速に駆けていた。葛籠に駆け寄り蓋を閉め、すぐさま葛籠を背負って間合いを取った。
負傷したと思われていた黒子の片腕は自在に動き、拾い上げた自らの杖で地になにかを描いていた。
蛇が張ったような文字を円形に描き、自分の周りをぐるりと囲う。
もしやと思い、お紺は腕を斬られ血の付いた袖を破り取り、それを黒子に向かって投げつけた。
血の付いた袖は火花を散らしながら、黒子の目の前で燃えた。妖魔を寄せ付けぬ魔法陣を黒子は描いたのだ。
最初に描いたのは簡易処置。さらに黒子は最初に描いた魔法陣の外側に、二重三重と魔法陣を描いていった。
魔法陣を見ているお紺は顔を渋らせている。
「今まであたしが見てきたものとはちょいと違うようだね」
「わかりやすかい?」
と、にやりとお蝶は笑った。
「遠い異国の術でやす」
「伴天連[バテレン]かい?」
「いえ、欧羅巴[ヨーロッパ]魔術の類でやす」
術を講じた黒子に代わってお蝶が説明をした。謎の葛籠に西洋魔術。黒子の謎は深まるばかりである。
お蝶とお紺が対峙する。
再び戦いがはじまり、熾烈を極めるかと思われた。
しかし、事態は思わぬ方向に進みつつあった。
どこかで悲鳴が聴こえ、耳を済ませれば喚き声も聴こえる。
女郎屋の窓や縁側から急に煙が出た。立ち昇る灰色の煙が、休むことなく女郎屋から出ているではないか。
縁側から駆け出してくる者も数人いた。その中に混ざり、幽鬼の形相でゆらりゆらりと歩く男の姿。男は肩を震わせクツクツと嗤っていた。
――弥吉だった。
胸を紅く滲ませ、弥吉は空ろな眼で歩いていた。
「クククッ……燃えちまえ、全て燃えちまえ!」
そう、弥吉が油を撒き女郎屋に火を放ったのだ。
木造立ての女郎屋は見る見るうちに燃え上がっていく。
弥吉は最後にお紺をも裏切ったのだ。
お紺は憤怒した。
「人間てのは本当に醜い生き物だねッ!」
狐火が放たれ火のついた弥吉は両手を高く掲げ広げた。
地獄の業火に焼かれながら、弥吉は奇声にも似た高笑いを発していた。
裏切りを繰り返した弥吉は炎によって裁かれた。
火は密集した家々にすぐに飛び火するだろう。
「本当に潮時のようだね」
と、お紺は呟き、狐火を放った。
もう手加減をする必要はない。ここは火の海に沈む。
お紺はところ構わず狐火を放ち、あたりはまさに火の海に沈んだ。
建物に囲まれた裏庭は、このままでは火の壁に囲まれることになるだろう。
炎を後ろにしてお紺は艶やかに微笑んだ。
「尻尾を巻いて逃げさせてもらおうかね」
金色の尻尾を揺らし、燃え盛る女郎屋に消えていくお紺の影。
その後を追ってお蝶は火の中に飛び込もうとしたが、屋根が崩れ落ち行く手を塞いでしまった。
気付けば女郎屋以外の建物も燃え盛っている。
熱風が吹いた。
「さて、どうしたもんか……」
お蝶は辺りを見回しながら呟いた。
目が留まった。
お蝶も黒子も二階の屋根を見上げていた。
煌きが屋根に向かって放たれる。
不可視の妖糸を屋根に固定し、葛籠を背負った黒子を、さらにお蝶が黒子を背負う。
「屋根が崩れないことを祈るのみだね」
そして、お蝶は軽やかな動きで屋根に登りはじめた。