偽りの春(十三章)
料亭から宿に戻って来たお蝶は、冷静な顔をしながらも、辺りを世話しなく見回していた。
昨晩、お蝶たちが助けた娘がいない。
もとより荷物のなかった娘だ。痕跡が何一つないと言っても、厠に立っているだけかもしれない。
しかし、胸騒ぎがする。
すぐにお蝶は番頭を呼んで問い詰めた。すると、娘は天狐組が来てかど勾引[カド]かしたというではないか。銭を握らせて置いたというのに、糸も簡単に裏切られたものだ。
「銭を返せとは言わないよ。けどね、あの娘さんになにかあったら、承知しないよ!」
番頭に睨みを利かせ、お蝶は急いで宿を出た。
向かうところは天狐組の他はない。あそこでなければ、他に見当もつかない。
天の字が書かれた戸を開けると、奥座敷で誰かが煙管を吹かしていた。
乱れた着物から覗く艶かしい脚。
肩膝を立てて胡坐を掻いていたのは、お紺だった。
「あんたがここに来て、うちのひとが帰ってこないってことは、みんなやられちまったのかねぇ?」
「さて、どこにお逝きなさったのか、あたいも検討つきやせん」
「この期に及んで惚ける気かい?」
「いえいえ、本当にあたいもどこに逝くのか知らないんで」
「あんたの言葉はさっぱりだよ」
「それは申し訳ありやせん」
笑顔でぺこりと軽く頭を下げたお蝶にお紺はほくそえんだ。
「本当に惚けた奴だ。でも、そろそろ本性を見せてくれるんだろう?」
「そちらさんは魅せてくれないんですかい?」
「そうさね、ここじゃあんたもやり辛いだろう。裏庭にでも出ようかね」
紺色の着物を揺らしながら、お紺はすらりと立った。
敵に背を向けて歩き出すお紺。後ろから攻撃をするような、無粋な真似はしない。お蝶と黒子はお紺の後をついて行った。
裏庭は閑散としていた。
背を向けて歩いていたお紺が振り返った。
「うちの組はあらかた壊滅状態。そろそろ潮時かねぇ」
「そんなことありやせんよ。あたいの見たところ、ここの組はお前さん一人の力で成り立っているように思えやしたが?」
「『かしら』っていうのは『頭』と書くのを知ってるかい? 実際に躰を使って動くのは『手足』さ」
「つまり自分独りじゃなにもできないと?」
「あはは、なかなか言うじゃないか。試して見るかい?」
「滅相もない」
と、言葉は下手に出ているが、表情は不敵だ。
お蝶の後ろでは黒子が葛籠を下ろして、地べたに正座をしていた。それはこれからはじまることを予兆している。お蝶とお紺の戦いがはじまるのだ。
どちらも妖気を纏った魔人。
まだお紺の実力は定かではないが、妖々とした氣がお紺の周りを渦巻いている。
しかし、お蝶は掌を返したように肩から力を抜いている。
「ここはひとつ穏便に済ますことはできやせんか?」
「怖気づいたようには見えないけど、どんな魂胆があるんだい?」
「魂胆なんてありやせん。宿から連れ戻された娘を返していただければ、早々に退散いたしやす」
「返すもなにも、あれはうちの商売道具だよ」
もし、あの娘を渡しても、本当にお蝶が引き下がるとは思えない。それに加えて、お紺には晴らしたい仮がある。
「大勢の組の者がどこかに逝っちまったんだ。あんたを生きて帰すわけにはいかないよ」
と、お蝶に言われても、やはりお蝶は惚ける。
「さて、本当に何処にいきやしたんでしょうねえ?」
「もういい加減にしな!」
ついにお紺が声をあげた。目じりを大きく吊り上げ、本性を見せた。けれど、それもすぐに治まる。
すぅと息を吐いてお紺は艶やかに微笑んだ。
「まあいいさ。あんたがなんと言おうと、邪魔者には変わりない。始末するに越したことはないよ」
空は黄昏に染まっていた。妖魔が跋扈する時間が近づきつつあった。戦いには相応しい。
お紺が構えた。
しかし、先に仕掛けたのはお蝶。
振られたお蝶の指先から輝線が翔けた。
ひょいとお紺は横に退いた。
お蝶は腕を振ったままの体勢で動きを止めてしまっている。
「避けなさるとは……視えやしたか?」
「視えたよ。氣を集束させた線だろう?」
「そうでやすか……いえ、あたいには視えないもんで……やはりお前さんは人間じゃありやせんね?」
「そういうあんたは?」
「さて?」
お蝶は惚けた。
視えたとなると厄介だ。
お蝶が放った技は氣を練り糸状にしたもの。お紺は線と例えたが、もっと柔軟で撓[シナ]りが利く。罠を張ることもできるが、視える相手には意味を為さない。人間の目にはほぼ不可視の妖糸なのだ。
妖糸といえど物理法則に左右される代物だ。放たれる速度は術者の身体能力に比例し、手から遠くなればなるほど速さは落ちる。
しかし、お蝶の身体能力は常人を遥かに凌いでいた。
その躰からは想像もできない瞬発力でお蝶は翔け、神速で妖糸を放った。人間とは思えぬ速さだ。
だが、お紺は高い下駄で軽く躱す。こちらも人間を越えていた。
そして、ついにお紺が反撃に出た。
空気が焦げたかと思うと、火の玉がお紺から撃たれた。
すぐさまお蝶は後ろに飛び退く。
四散した火の粉の痕が地面を焦がした。
やはりとお蝶は頷く。
「狐火ですかい?」
「さて、どうだろうね?」
惚けたのは、今までのお蝶の態度への軽い仕返しだ。
お蝶は視線を左右させ辺りを見回した。広い裏庭といえ、周りは家に囲まれた中庭のような場所だ。ちょいと先には女郎屋の縁側もある。ここでの戦いは多少の幸運といえた。
お紺も馬鹿ではない。火の玉は斜め下に撃たれた。矢鱈滅多ら撃って、よもや辺りを火の海に沈めるようなことはないだろう。
妖糸は視られたが、狐火も自由に放つことはできない。
お紺はお蝶から一定の距離を保って離れていた。減速する妖糸は離れれば離れるほど、躱しやすくなることを知っているのだ。一方のお蝶はもう少し近づきたい。けれど、近づき過ぎるのも危険だ。どの程度、お紺が肉弾戦に長けているかによる。
黒子は依然として静かに正座をしている。
切り札の葛籠はどうした?
理由は『色々』とあるが、一番の問題は呑み込んではないモノがあることだ。女郎屋の縁側や民家の窓、言うことを聞かなかった〈闇〉が飛び込み可能性がある。
お蝶はお紺との距離を縮め、渾身の氣で妖糸を煌かせた。
「しまった」
と、誰かが漏らした。
獣ように四つ足で立ったお紺の上を妖糸が抜けた。そのままお紺は後ろ脚で地面を蹴り上げ、肉食獣のようにお蝶の咽喉元に飛びかかった。
自ら背中から倒れたお蝶は真上を通り過ぎるお紺の腹を両足で蹴り上げた。
蹴り飛ばされお紺が滞空している間に、すぐさまお蝶は体勢を整えて立ち上がり翔けた。
地面に四つ足をついて着地したお紺のすぐ横に立つお蝶。
お紺は眼をギラつかせた。
「気安く触るな!」
お蝶に手はお紺の尻から伸びた金色[コンジキ]の尾を握っていた。
その尾を引っ張ろうとしたお蝶の手をなにかが素早く引っぱたき、思わず尾を放して咄嗟の判断でお蝶は退いた。
立ち上がったお紺の後ろから伸びた尾が、頭よりも高い位置まで立っている。それは三本あった。
金色に輝く尻尾を見て、お蝶は感嘆を吐く。
「神々しいまでに輝いておりやすね。尻尾が妖力の源だとか……」
「あたしは三本もある。少しはあたしの恐ろしさがわかったかい?」
「水を差して悪いんですが、確か殺生石に封じられた狐は九尾だとか?」
「……くッ」
嫌そうな顔をしてお紺は歯軋りをした。
お蝶はすまし顔の奥で、目は不敵に笑っている。
「妖狐の実力とやらを魅せてもらいやしょう」
「肝を喰らってやる。あたしの恐ろしさを思い知るがいいよ」
真の戦いがはじまる。
果たして決着の行方は――?