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偽りの春(十二章)

 今、このふとん部屋にいるのは二人きり。外には見張りがいる。

 弥吉は声を忍ばせてお千代に話しかけた。

「おれの匕首だ。これを懐に忍ばせて置け」

 匕首を渡されたお千代は深く頷いた。

 いつもは料亭で娘を抱く代官だが、今日はお千代を自らの屋敷に呼ぶという。これを逃す機はない。全ての真相を探るため、お千代は意を決した。

 そして、弥吉がそれに同行する。

 しかし、お千代には腑に落ちないことがあった。

「どうして弥吉にわたしを?」

 女郎を逃がそうとした男と、その女郎を外に出すはずがない。

「逃がそうとしたお前をおれの手で届けさせて、苦しませようとしてるんだ。お紺姐さんってのはそういう人だよ。でもよ、これを逆手に取ってやろうぜ」

「そうね」

「おれも一緒にお代官様のお屋敷に行けるんだ。お前になにかあったらすぐに助けてやるからな」

「ありがとう」

 真相は近い。だからお千代は弥吉の言葉を盲目的に信用した。

 代官屋敷までの道のりは、弥吉の他に二人の組の者がついた。お千代と弥吉が不審な行動をしないか見張りだろう。

 日は西の空に傾いている。夏のような暑さも、秋の陽気に戻りつつあった。

 代官屋敷の前まで来ると、弥吉たち玄関の前で待たされることになった。

 何気ないそぶりで弥吉はお千代に耳打ちをする。

「なにかあったらすぐに逃げるんだぞ」

 言葉はお千代の胸に届いたが、周りに悟られないように、無表情のまま女中に連れて行かれた。

 姉と同じ道を歩くお千代。

 廊下を歩くお千佳は首元がむず痒くなって、指先で軽く押さえた。その場所には小さな痣がある。代官の吸うような接吻で付いた痕だ。

 とある障子の前まで来ると、女中は足を止めた。

「こちらに……」

 促されるままにお千代は障子に手を掛けた。

 故郷に残してきた母の顔を浮かぶ。そして、別れたときの姉の顔が浮かんだ。

 障子を開けると、代官が一人で酒を嗜んでいた。

「近う寄れ、酌を頼む」

 枯れた声が耳の中にへばりつく。

 お千代は代官の横には座らず、正面に捉えて正座をした。

「恐れながらお代官様に申し立てが御座います」

「なんじゃ、言うてみい?」

「消えた女郎はどこで御座いましょう?」

 包み隠さない真っ直ぐな質問をした。

「女郎が消えた?」

 枯れた躰に惚けた表情は本当に呆けた老人に見える。

 しかし、瞼の奥で光る眼は野獣のように鋭い。

 お千代は目を逸らさずに立ち向かった。

「ここに痣を付けられた者に限って姿を消しております」

 襟首をずらし、白い首筋についた痣を見せ付けた。

 それを見た代官は腹の底から低い嗤いを発した。

「確かに、儂は知っておるぞ……女郎はここじゃ」

 代官が指さしたのは自らの腹だった。

 なにを意味しているのかお千代は戸惑った。

 下卑た顔で代官は乱杭歯を剥いた。

「生き血を吸うてやった」

「なんで……そんな……」

「女の血は美酒じゃ。女の生き血はこの上ない美酒じゃ」

「……許せない」

 お千代は懐に忍ばせていた匕首に手を伸ばした。

「この人でなし!」

 金切り声をあげてお千代は代官に襲い掛かる。

 刹那に取った代官の動きは恐るべきものだった。

 枯れた躰からは想像も出来ぬ俊敏さ。

 掛台から刀を取り、疾風を靡かせ抜刀した。

 鋭い切っ先がお千代の咽喉に突きつけられた。お千代が腕を伸ばしても、匕首の刃は代官に届かない。

 代官を睨んだままお千代は足を引いた。その時、背中に当たった温かい壁。焦った時にはお千代の躰は何者かに羽交い絞めにされていた。

 腕を捻られ落ちた匕首が畳に突き刺さる。

 お千代は首を曲げた後ろにいる顔を見ようとした。

「……なっ!?」

 信じられない出来事に、お千代は息を呑んだ。

 急に潤んだお千代の瞳に映る男の顔。

「なんで……」

「すまねぇお千代」

 お千代を羽交い絞めにしたのは弥吉だった。

 やはり弥吉は裏切ったのだ。

 目の前の真相を追いすぎて、お千代は弥吉の闇に盲目だった。

 今まで湧いたこともないほどの憎悪が、ふつふつとお千代の腹の底から沸き上がる。

「この、この、人でなし! 殺してやる!」

 我武者羅にお千代は暴れて弥吉を振り払い、素手で代官に飛び掛った。

 鈍く煌いた切っ先がお千代の背を抜けた。

 刀はお千代の躰を衝いた。

 刃を滴る鮮血が柄に溜まっては畳に堕ちる。

 お千代は刃を食いしばり、自ら前へ進み刀を深く躰に突き刺した。

 そして、震える両手で細い代官の首を絞めた。

 爪を喰い込ませて、力いっぱい絞めた。

 なのに代官は下卑た嗤いを浮かべている。

 力は入っていなかった。

 精一杯の力で憎き相手を殺そうとしているのに、お千代の手には力が入っていなかった。

 貧血で手足が痺れ、視界が霞む。

 お千代が最期に見たものは、醜悪な代官が近づくその時だった。

 そして、お千代の瞼は幕を下ろした。

 まだ微かに息があるお千代の柔肌に乱杭歯が突き刺さる。

 女の首筋から血を啜る光景は、げに恐ろしく、弥吉は目を放さずにいられなかった。

 そのまま弥吉は無言のままに座敷を出て、肩を震わせながらクツクツと嗤った。

 裏切りの代償は弥吉の精神を蝕んだ。

 ふらりふらりと歩く背中、弥吉は幽鬼のような蒼白い顔で、何処行く当てもなく歩き続けた。

 弥吉を信じたお千代は死んだ。

 憎しみを胸に抱いたまま……死んだ。

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