偽りの春(十章)
先日のお蝶の唄と黒子の人形劇がいたく気に入ったらしく、代官の御付きに推挙してもらい、今日は日の高いうちに料亭に呼ばれていた。
秋めいていた今日この頃から急に、夏の暑さがぶり返えしたことから、道を行き交う町人たちの中には、額に薄っすらと汗をかいている者もいた。
そんな日差しの中でも、黒子はいつものように真っ黒な装束を着て、重たいであろう荷物を背負って歩いている。
お蝶たちが呼ばれたのは、静かな町外れにある情緒が溢れる料亭だった。その場所でお蝶たちの芸を見たいというのだ。
開かれた玄関を潜り抜け、出迎えた店の主人に連れられ、中庭に面した座敷に連れて行かれた。
「この中でしばらくお持ちください」
と、早々に主人は姿を消した。
落ち着いた様子でお蝶と黒子は畳に腰を落ち着かせた。
しかし、黒子は葛籠を背負ったままだ。
お蝶がひと言。
「あたいら、この町で人に怨まれるようなことをしたかねぇ?」
そこら中から気配がした。それを承知で畳の腰を落ち着かせる、まさに落ち着きよう。部屋の周りは殺気を殺した野郎どもに囲まれていた。
堰を切ったように襖が蹴破られ、押し寄せる男たちが荒波をつくった。
すぐさまお蝶と黒子は障子を開けて逃げた。
障子ごと敵を押し飛ばし、軽やかな足並みで縁側から庭に降りた。
お蝶の桜柄の着物が舞い揺れ、描かれた花弁がゆらりと映る。
庭に出たお蝶たちは、囲い込み漁に掛ったように、逃げ場もないくらい取り囲まれてしまった。
若い衆を掻き分けて、天狐組の親分が姿を見せた。手に握られているのは珍しい短銃だ。密貿易かなにかで大枚をはたいて手に入れた品だろう。
「お紺の奴がお前さんたちのことを臭うというもんだからな。うちの若い衆が行方知れずになってるんだが、知らねえかい?」
人に物を尋ねるにしては物騒な装いだ。周りを取り囲んでいる人数を見ると、余程お紺に気を付けろと言付けられたのだろう。
それだけ二人は警戒されているということだ。
この緊迫するはずの状況で、お蝶は微笑を絶やさなかった。
「親分さんのところの若い衆になにがありやしたか? あたいらはしがない旅芸人ですよ、こんな大勢に囲まれる道理はごぜえやせんぜ?」
このお蝶の物腰を見て、親分はお蝶の実力のほどを計った。お紺の勘が騒いだように、やはりお蝶たちは只者ではないと親分は悟った。
しかし、お蝶が行方不明になった若い衆たちをどうこうしたという、一本の線には繋がっていない。まさかこの二人が多勢に無勢をどうにかできる、そこまでの想像をするのは突拍子すぎる。たとえそれが事実であってもだ。
そのためにまだ親分には貫禄という余裕があった。
「なんにせよ、なにか知ってることには違えなさそうだ。おれが仏の顔をしてるうちに大人しく吐いてもらおうか」
「では、ここでお魅せしましょうかい?」
お蝶はこの世のものとは思えない美貌で艶笑した。仏の笑みではない、それは魔性そのものだった。
親分は怯えた。この感覚は誰かと似ている。そうだ、お紺と似ている。お蝶とお紺はどこか似ているのだ。
じっとりと滲む汗を掻きながら、親分は子分たちが見ている手前、恐怖でおののくわけにはいかなかった。
「な……にを見せてくれるっていうんだ?」
隠そうとしても隠し切れない怯えが言葉に出た。
お蝶はそれに気付いてされに嗾[ケシカ]ける。
「昨晩、親分さんの子分がどうなったのか、ここで再現しましょうかと、言ってるんでやすよ」
生唾を飲み込む音がそこら中からした。
余裕があれば、恐ろしさ半分、興味半分で見たいと思うかもしれないが、ここにいる誰もが見たくないと思った。それがなんであるかわからずとも、見たくないと本能的に危機を感じたのだ。
なにも言わない周りの野郎どもに、お蝶はさらに言う。
「どうです? 見たくはありやせんか?」
親分は瞬きもせずに固まっている。
今日は夏のような季候だというのに、この場は氷結してしまったように冷える。
お蝶はあくまで返事をまった。この時間がとても甘美なものであるように、至極の表情で艶笑している。
息遣いが聴こえてきそうなこの場に、ガタンと葛籠を下ろした音がした。
黒子は葛籠を下ろして、その横に正座をした。いつもで葛籠を開くことができる。
親分の片足が地面を擦りながら引かれた。その足は爪先から酷く震えている。お蝶はもちろん見逃していない。
「このままでは埒が明きませんぜ、親分さん?」
もう親分に言葉を返す力はなかった。
口をパクパク動かし、今にも泡を噴いて気絶しそうだ。
お蝶が一歩、親分に詰め寄った。
「もう十分にお前さん恐怖を味わいなすった。まだ恐怖を味わいやすかい? それとも刹那に殺して欲しいと、あたいに土下座でもしやすかね?」
お蝶はゆっくりと目を閉じた。
それがきっかけで子分たちが逃げ出した。親分も逃げ出したが、それを咎める子分は誰一人いないだろう。逃げるが勝ちというが、まさに今がそれだと子分も親分も思ったに違いない。
勝ち目のない勝負を選ぶ誉れもあるが、犬死となれば話は別だ。
お蝶は親分の背中に不吉な言葉を投げかけた。
「逃げるんですかい? 逃げられませんぜ?」
囲まれていたのはお蝶たちではなかった。本当に捕らわれ囲まれていたのは、親分たちであった。
それは死の罠だ。
ところてんを押し出すように、男たちが細切れにされた。お蝶も黒子も指一つ動かしていない。男たちは自ら死の罠に飛び込み、鋭利な『網』によって細切れにされたのだ。
目の前で細切れになった肉塊を見て、後続の男は足を止めようとしたが、その後ろから押し寄せる男によって、次々と将棋倒しになってしまった。
細切れになって事切れたものは、まだ幸運だろう。中途半端に切られ、生きながらえた者の苦しみは壮絶だ。
発狂した一人の男がお蝶に襲い掛かった。
お蝶はひらりと躱し、猪突猛進の男はそのまま黒子に飛び込んだ。
葛籠の上に座る黒子は動かない。男が自分のところまでたどり着けないと踏んだのだ。
その予想通り、男は途中で腹から地面に落ちた。
それはなぜか?
男の膝はすでに断ち切られ、男は勢いだけで黒子に飛び込んでいたのだ。
悲惨な光景に血の香りが立ち込めた。
生き残った者たちを、お蝶はゆっくりと見回した。
「そろそろご覚悟をお決めになったらどうですかい?」
この場に立っている者の中には親分もいた。
震える親分の手には短銃が握られている。
地面に向いていた銃口が、震えながら上に上げられた。
銃口の先でお蝶は堂々と立っていた。撃てと言わんばかりだ。
「アァァァァァッ!」
野獣のような雄叫びを上げて親分は引き金を引いた。
銃弾は明後日の方向に飛び、快晴の空に消えていった。
お蝶の表情はずっと変わっていない。魔性の笑みを浮かべている。
「銃なんてものはそうそう当たるもんじゃありやせんよ。そんなに震えていては余計にってもんです。あたいの業は百発百中ですがね」
刹那、お蝶は腕を振った。
あまりの恐怖に親分は震えすら止めてしまった。
しかし、なにも起こらなかったかに見えた。ただ、お蝶が腕を振っただけ。
数秒の時が流れた。
息を呑んだ親分が急に笑い出した。
「ははははっ、なにが百発百中だ。なにも起こらんじゃないか――ッ!?」
「いえ、あたいは確かに斬りやした」
それを理解した親分は、すでにこの時ずれていた。腰に乗っていた胴が、声を発し、躰を動かしたことによって、ずれた。胴はすでに輪切りにされていたのだ。
血管がずれた胴が急激に動き、悶絶しながら親分の上半身は血に落ちた。まだ意識があるが、放っておけばそのうち事切れるだろう。それまでの間、存分に土を掻き毟るといい。
生き残っていた子分たちは止めを刺されたように、次々と地面に尻を付いていった。けれど、本当の止めはこれからだった。
黒子の手が葛籠の蓋に掛かる。
そして――。