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偽りの春(九章)

 嵐の過ぎ去った翌朝は雲ひとつない快晴で、夏が戻ってきたように朝から気温が高かった。

 女郎屋ではまた女郎がひとり消えたと、噂にするまでもなく女郎の間に広まっていた。

 足抜けした女郎がいても、探す時と探さない時がある。

 天狐組み若い衆が探しに出ている様子を見ると、『本当』に逃げ出したようだ。

 いつもよりも張り詰めた空気なのは、まだ帰ってこない者がいるためだろう。唯一帰ってきた片耳の男も、一睡もせずに正気を取り戻していない。まだなにが起きたのかわからず仕舞いだった。

 女郎の世話役の弥吉はお千代の見張りを命じられていた。これ以上、印をつけられた者に逃げられるわけにはいかない。けれど、お千代に逃げる気などない。

 狭いふとん部屋で弥吉はお千代に詰め寄った。

「逃げてくれ!」

「嫌よ、わたしは逃げない」

「どうしてだよ!」

「姉さんを見つけるまで逃げない!」

 お千代の決意は固い。弥吉の想いもそれに負けないほどだった。

「お千佳はおれが見つける……おれとお千佳は恋仲だったんだ……」

 思わず目と口を丸くするお千代。

 弥吉は村を飛び出す前から、幼馴染のお千佳に惚れていた。村を飛び出し、やくざになってからも、度々村にいるお千佳へ想い耽っていた。

 そのお千佳と女郎屋で再会した弥吉は、今までの想いが爆発した。お千代のほうも、放り込まれた地獄の中で、弥吉のことを頼りにしているうちに気持ちが揺れ動き、成り行きのままに自然と二人は男女の仲となった。

 しかし、二人の仲はご法度。

 女郎の世話を任されている弥吉が、売り物に手を出したことが知れれば、どんな仕置きが待っているか、お紺の性格を考えるだけで恐ろしい。

 そのため二人の恋は密やかに育まれた。

 弥吉はやくざから足を洗い、お千佳も足抜けをしようと、そう考えていた矢先だった。

 お千佳の首筋に青い痣が付いた。

 まるで死刑宣告でもされたようにお千佳は狂い、弥吉も頭を抱えて悩みに悩んだ。

 その頃、弥吉はお紺に目を付けられていることに気付いていた。だから迂闊な行動に出れず、二人で逃げる勇気が雲ってしまった。

 そして、弥吉がおずおずしている間に、お千佳は姿を消した。

 お千佳を失った弥吉は人が変わったように、冷淡な性格で女郎たちに接するようになった。それを見ていたお紺は、弥吉から疑念を徐々に消していった。弥吉にとって長い冬の日々がはじまったのだ。

 心を閉ざしてしまった弥吉。

 その心が再び開かれたのは、あの日だった。そう、お千佳の妹のお千代が女郎屋に売られてきた日。

「おれは……おれは……おれのせいなんだ」

 弥吉は拳を震わせ、零れそうになる涙を目を閉じて抑えた。

「おれはお千佳を連れて逃げる勇気がなかった。親分やお紺姐さんが怖かった。お代官様に悪い噂があると知っていても、おれにはなにもできなかったんだ」

 それゆえに弥吉のお千代を助けたいという気持ち強い。

 しかし、お千代はその気持ちを振り払った。

「わたしに構わないで、わたしは逃げない、絶対に姉さんを村に連れて帰るんだ」

「おまえがなんと言おうとおれはおまえを連れ出す」

 逃がさまいと弥吉はお千代の腕を掴み、強引に部屋の外に連れ出した。

 店の表は昼間だというのに客が出入りをしており、裏手は裏手で見張りが立っている。縁側の横にある渡り廊下は天狐組の家に繋がり、縁側のわき道を通ると組の真横に出る。逃げ場はどこにもないように思えた。

 だが、弥吉は迷わずに二階に行こうとしていた。逃げるとしたら、あの場所しかないと目を付けていた場所があるのだ。

 弥吉に引きずられるお千代は必死の抵抗をした。腕を上下に振りながら、廊下に足を踏ん張る。けれど、声をあげるわけにはいかない。声をあげれば騒ぎが大きくなり、弥吉や自分の身が危ない。

 辺りに気を配りながら弥吉は頭を左右に動かした。客の出入りが多い夜だったら、二階に上がる前に誰かと鉢合わせだ。

 誰もいないことを確かめ、弥吉は階段を上がろうとした。だが、嫌がる相手に階段を上らせるのは容易ではない。廊下を引きずるようにうまくはいかなかった。

 それまで気配などしなかったのに、急に背筋を凍らせるぞっとする気配がした。

「どこに行く気だい?」

 弥吉は驚いて階段を見上げ、弥吉から顔を背けて逃げようとしていたお千代も、弥吉の先にいる紺色の着物の裾を見た。

 目尻が切れ長に上がったお紺がゆっくりと階段を下りてくる。

「どこに行くのかと、あたしは尋ねてるんだ!」

 お紺の激昂に弥吉は躰の芯が震えた。

「へ、へい……」

 一階の離れにある厠に行くという嘘は、二階に上がろうとしているので使えない。

「そ、それが……客が二階で……」

 待っていると続けたかったが、お紺は鼻の先で嘲笑う。

「その子には客を取らせるなと言ったはずだけどねえ?」

 弥吉は観念した。

 そして、お千代の躰を突き放した。

「逃げろお千代!」

 突き放されたお千代は逃げなかった。

 その場に正座をしてお紺に深く頭を下げた。

「わたしは逃げも隠れもいたしません」

 その言葉に弥吉は落胆した。足から崩れるようにして、力なく階段に座り込んでしまった。

 お紺が辺りを見回しながら人を呼ぶ。

「誰か、誰か早く来て頂戴!」

 すぐに数人の若い衆が駆けつけてきた。

 お紺はまだ頭を下げたままのお千代を見下した。

「その子をふとん部屋に押し込めておきな!」

 それから弥吉に目をやる。

「こいつにはどんな仕置きをしようかね?」

 舌なめずりをしたお紺の眼は妖しく輝いていた。

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