①章[眠れる魔神の絶望から見つけた希望! 僕の新たなベストマッチ美容スータビリティ!]
時蔵叡智――齢二十一歳、現在無職。そして今日が愛する若葉寮を後にする退寮日である。
若葉寮には沢山の思い出がある。同い年の子はいなかったけど、この施設には僕が幼いころから数えると沢山の先輩達がいて遊んでもらったり、勉強を教えて貰ったりと、随分可愛がってもらった思い出がある。
僕が年を取るごとに、施設には新しく子供達が入ってくる。そしたら今度は年長者の僕が新しく入って来た子達の面倒をみたり、昔先輩達にして貰った様に勉強を教えたり、と言う日々を過ごしてきた。だから僕は皆が本当の弟や妹の様に大好きで愛しかった! 『ランプ』で働いて三年が過ぎた辺りから徐々に僕は他の技術と並行して、店長にカットを鍛えられていた――まだ、スタイリスト昇格試験を受けられていなかったから、お客様の前に店の名前を背負ってカットするには至っていなかったが、練習がてら若葉寮の子供達の髪をカットしたり時には染めたりパーマをかけたりと、僕のできる事を後輩達にしてあげていた。「ありがとう」と、僕にお礼を言ってくれた皆の笑顔が僕の一番の宝だった。
そして何と言っても、若葉寮の先生方、我らの若葉寮長には感謝の言葉が尽きる事はない。朝から晩までお世話になったこの二十一年間を僕は一生忘れないし、これから沢山の恩返しをさせて頂きたいと思っている。
僕にはそんな思いがあるから、本来ならめでたい門出の筈の退寮日でいきなり路頭に迷っている暇はないのである! 予想外な事態に襲われようと、いじけていられる時間は僕には無さそうだ……。
時蔵叡智――齢二十一歳、現在無職。そして今日が愛する若葉寮を後にする退寮日である。
路頭に迷っているとは大袈裟な言い方で、正確には今日から住む家は前々から決まっているし、引っ越しもすでに完了している。若葉寮と『ランプ』に近い中目黒でアパートを借りたのだ。だから住む所の問題ではないのだ――『ランプ』という僕の職場がなくなってしまったと言う事が問題なのである。
ⅠFの話しになるが、僕に普通の親がいて、ちゃんと大学を卒業した後に高学歴ニートとして君臨し、そこで誰かに「働かないでどうやって生活するの?」と尋ねられて、きょとんと、した顔をしながら「君達には親はいないのかなぁ?」と、答えて周りを見事にドン引きさせるだろう愚かな牙を得ていたかもしれない。これは例え話である、勿論であるがそんな世界線はないし、あったとしても僕が寄生虫パラサイトニートという愚かな牙を研ぎ澄ましている未来は想像もしたくない。
なぜなら僕はそれと非なる牙を研ぎ澄ませてきたつもりだからだ――『ランプ』で過ごした六年間そして、生まれてこの方、僕は施設を出た暁には死に物狂いで働いて、社会の歯車として色んな活動に参加し大好きな若葉寮を、そして僕を応援してくれていた若葉寮長を、今度は僕が恩返しをして、支えて応援していきたいと思っていたのであった……。そんな風な夢を描いていたのである。
そういう牙を研ぎ澄ませてこれまで生きてきたのだ……。だから、今の『ランプ』がなくなったと言う状況に僕はそうとう喰らっていた。否、そういう生き方をしていなくても、そんな牙がなくても……恐らく僕は痛いほどのダメージを喰らっていただろう。
それだけ僕にとって『ランプ』と花形頭さんは掛け替えのない特別な存在であった。ベストマッチする居場所であり、ベストマッチする師匠であり、最高の店長であった。だからどの道この場合、僕は絶望したのだろう。
こんな状況下から、僕は絶賛ネガティブキャンペーン中である。こんな気持ちで僕とベストマッチしていた最愛の若葉寮を後にすることが辛い……。とても。
店長に教わったカット理念において、いつも頭の中に置いていないといけないカット原理に『スータビリティ』と言う言葉がある――このスータビリティと言う言葉の意味は『その人の個性に合ったスタイルを考える』要は、モデルやお客様の個性を捉えた上でその人にベストマッチングするスタイルを作ることである。
僕には『ランプ』が仕事場として、そして掛け替えのない学び場として、僕の個性にベストマッチしていたと思っている。それ故、『ランプ』を失ってしまった今の僕の現状は痛い! いや、それだけならまだしも、なんなのだ! なんで、こんな理不尽な事が起こったんだ……。そう嘆かないではいられない現状に陥っている……――目の前で巻き起こっている現実は悪夢そのものであり、全ての物事がどうでもよくなってきてしまう様な、悲しみが僕を襲い続ける。
病院のベッドで沢山の管を巻かれ、目を覚まさないまま横たわる店長の姿を僕は毎日見に来ていた。その店長に向って、事故があった僕のスタイリスト昇格試験前日のあの日から、僕は目を覚まさない店長に語りかけている……。だけど店長からの返事はない、何処か深い所で眠る魔神の様に静けさだけがこの場を支配した。
その姿はまるで昔、若葉寮長が僕によく読んでくれていた『あの絵本』の魔神の様である。いつ目覚めるか誰にも分からい、見当もつかないらしい、暗闇の絶望が病室を舞っていた。
「店長……返事してくださいよぉ……。僕、滅茶苦茶寂しいよ……。これからどうしましょう、怖いです……。もし店長がもう目覚めないと思うと不安だよぉ……。起きてください……」
六年間毎日の様に一緒にいて、僕は接客、技術、そして心構え、それら全てを店長から教わった。何も知らない僕を、店長は自分の限界を超えて、100%しか持ってないものを120%、150%と、自分の限界を超えて僕に伝えてくれた――もうすぐ還暦の体にムチを打って毎日練習に付き合ってくれた。店長の体はとても疲れきっていたのだろう……だけど、店長は僕の前で疲れた様子を見せた事は万に一つもなかった……。だから、毎日ハツラツとしていた店長が青信号であろうと、突っ込んできたトラックを避けきれず衝突してしまったなんて、今も信じられない……。魔神の様な店長が、トラックごときにこんなにされてしまうなんて信じられない……現実を受け入れられない。
お医者さん曰く、店長の容態が良くなるのか全く分からないと言う事であった。もしかしたら、明日目覚めるし、一年後かもしれないし、十年後かもしれない、そしてもしかしたらこのまま死ぬまで目を覚まさないかもしれないと言う――そんなのって……ありだろうか? あんまりだ……。
現実は残酷だ、それに僕と店長を待ってくれない。営業ができなくなった店はすぐ畳まなくてはいけなくなった。でも店長は美容師だ、それも魔神の美容を使いこなす最高のアーティストだ! だからもし目覚めたら、また鋏一本でいくらでもやり直せる。手に染み付いた職でいつものように最高の美容を提供する美容室を築けるはずだ……。だから、またいつか僕らの『ランプ』を取り返しましょう……店長の店を。
店の外は春のお花見シーズンだった。目黒川沿いに満開のピンク色をした桜のカーテンが掛かる季節――『ランプ』は閉店して、あの隠れ家美容室は……なくなった。
「ごめんなさい……うっ……店長、僕じゃ……ランプを守りきれませんでした。うぅ……」
自分の力のなさを怨みボロボロと涙を零しながら、店長に報告した。返事はなかった――悲しみの中、昔寮長が若葉寮で読んでくれていた『あの絵本』を思い出した。僕は立ち上がる心を持たないといけない、この絶望から希望を見つけなければならないのである。『あの絵本』の青年の様に……。
幼い頃に寮長が読んでくれた大好きな絵本がある。そのタイトルは『魔神の絵本』という。
ある日、ストリートチルドレンの少年が洞窟でとても頭がよく優しい魔神とであった。
「君は人間だね! ここは私の家なんだ、ここで私は沢山の勉強しているんだ。この世界を幸せに満ちたものにするのが私の夢なんだ、君もしよければ私を手伝ってくれないかい?」
魔神は優しく少年に声をかけた――すると、少年は魔神の顔を不思議そうな顔で覗いた。
「魔神さんは……僕を差別しないの? 僕を汚いと思わないの? 町の人は僕に近寄るなというよ……そんな僕に勉強を教えてくれるの? どうして?」
すると、魔神はニコニコと、彼の質問に答えた。
「差別? そんなものは無駄だよ、私は勉強したから分かるんだ! 人間は平等だからね、差別なんて無駄、無駄、無駄! 君が望むなら勉強を教えるよ、魔法も教える! なんならここに住んでくれてもいいよ! 私に協力してくれ、この世界を優しい世界にしよう!」
そして、少年は魔神が差し出した手を取った――彼らの成長の日々が始まった。
少年は魔神と沢山の事を勉強し学んだ。魔神は少年に魔法を授けた。少年はその魔法を使って困っている人を助けて周った。その行いが仕事となり、少年は仕事に着くと言う夢を叶えた。少年の周りにはやがて沢山の仲間ができて、充実した日々過ごし、時日が経ち青年となった。青年になった少年は魔神にとても感謝して、恩返しの機会を常々狙っていた。
ある日、青年が洞窟に戻ると魔神が疲れ切った様子でぐったりと、横たわっていた――何日もそうして横たわっている事に少年は不安を抱き、旅をして魔神の事を勉強した。すると、衝撃な事実が分かったのである……。それは青年に知恵や魔法を授ける毎に、魔神の魔力が無くなり弱ってきてしまうという事であった。青年はそんな事は知らなかった……だって、魔神は一度も青年に弱音を吐いたりとか、疲れたと言ったりした事がないからだ。勿論、魔力が無くなってくるとなんて言われた事もなかった。
洞窟に急いで戻ると、魔神はもう深い眠りについてしまっていた……。魔力が回復するまで、もういつ目覚めるか分からない。一年後か、十年後か、百年後か……。少年は魔神と過ごした日々が幸せだった。
だけど、この世界は魔神が目指していた様な優しさにはまだ満ちてはいない……。もう魔神はいない、魔神はこの夢を叶える事ができない……だけど! 青年の頭の中には優しさで世界を溢れさせる事のできる魔神がくれた知恵があった――そうだ! ここで魔神と勉強した知識を使って、それを題材にした絵本を作ってこの世界の子供達全員が目にできるよう旅をして配って回ろう! そうすれば魔神が目を覚ます時には、もうその子供達は大人になるはずだ! そしたら……魔神が目指した優しい世界に近づいている筈だ。
「広めるんだ! この素晴らしい知識を! 僕なら……やれるんだ! やれるんだ! やらせてくれ……僕はまだ、魔神になんの恩返しもしていない! 見せたいんだ、魔神が驚くような素晴らしい世界を!」
魔神が青年に与えたものを、青年は皆に広めるための旅に出た――魔神の目覚めを待ちながら青年は魔神に恩を返していった。そして青年は、大人になり旅先で出会った女性と結婚をして家族を作った。子供もできて、その子供が大人になるまでしっかり見守った。
長い旅が終わり――昔、全てを学んだ魔神のいた洞窟に大人になった青年は向った。
洞窟の中には魔神の姿はもうなかった――魔神が眠っている筈のベッドには魔神の姿はなく、起きた形跡だけが残されていた。
大人になった青年は涙をボロボロと流しながら、少年時代に見たニコニコと自分に笑って声を掛けてくれたあの日の優しい魔神を思い出し、それを真似る様に泣きながら笑った。
「良かった……。やったよ……僕はやったんだ! 良かった……魔神元気になったんだね、僕が広めた魔神の優しさが溢れた世界をみてくれ! ありがとう……本当に、ありがとう」
魔力が回復して目を覚ました魔神は自分が育てたあの日の少年が、自分の意思を継いで創り上げてくれた新しい優しい世界を旅して見て、あの少年がしてくれた恩返しに感謝した……。魔神の目の前にはとびっきりな世界が広がっていた! おしまい。
そんな、絵本の内容を僕は思い出していた。そして、目が覚めた! 僕がこんな所で泣いていて誰が喜ぶんだ……僕はまだ頭さんになんの恩返しもしていない! 僕も青年の様に立ち上がるんだ、新たな希望を手にし、覚悟を決めろ――魔神が目を覚ます時に魔神の美容が美容業界に広まっているそんな素敵な世界を夢みよう。それが僕の『希望』だ!
「この希望で明日からも僕は生きられる……。そして、頭さんが目を覚ます時に素晴らしく成長した美容業界をみせてあげよう! 魔神の美容を広めるんだ! 見違えるように僕が成長して勉強し、吸収して……目を覚ました頭さんを驚かせよう! やれるんだ! やれるんだ!」
それが僕の店長への恩返し、そして若葉寮の皆への恩返し、僕のやりたい事――挑戦、未来に繋がる、最高の選択な筈だ! 僕は無謀なニートなんかじゃない、魔神の美の実践者だ。
この『希望』を手にするには、背水の陣の覚悟を持って臨まなければならない――どんな仕事でもだいたいそうなのだろうけれども、この美容師と言う職業は手に職の仕事である為、仮に転職をして美容師以外の他の仕事に就く場合、鋏をおいて他の仕事に就く場合は今まで練習してきた美容の技術が無駄になってしまう事が殆どであり、そうした事から他者から、そして自分の心の奥底の声で「せっかく美容師免許も取って、技術も覚えたのにもったいない!」と、いう言葉が、頭の中でグワングワンと木霊する。その言葉が重くのしかかってくるのである。
あたりまえだ、社会とはそういうものである! 僕はもう学生でも、子供でもない、そう! もう立派な大人なの社会人なのだ! この意見はとても全うな意見であり、正論なのである。そう言えば店長が前に「美容師は一見、華やかそうで人気な仕事に見えるが、就いて見ると意外にも離職率が高い職業なのだよ」と、僕に教えてくれた事がある。店長は十八歳の時からこの美容業界にいたのだから、そのキャリアは四十年以上になる。これだけ長く美容業界で美容師として、働いてきた人が言うのだからまず間違いだろう――でも、そんな離職率が高くても辞めた人間に残酷な正論が飛ぶのが美容師だ。
「やめるなんてもったいない!」
と、その言葉を皆が投げ掛けてくる。高いお金を出して美容学校を卒業して美容免許を取ってサロンに就職する。こんな過程を経てから美容師のスタートラインであるアシスタントを始める人が殆どだ――「俺はカリスマ美容師になり皆を見返す!」と、言う動機。「私は渋谷で一番の美容師になって、沢山有名モデルの髪を手掛けて雑誌で紹介してもらうんだ!」と、言う気持ち。「美容師になった理由? ああ、ないな、強いて言うならカッコイイからかな?」と、流れでなった感じ。皆が皆違う十人十色の美容師になった理由を持ってアシスタントとして美容人生をスタートさせる。そんな中、美容室で働くのが嫌になってやめていく人がだんだんと、でてくるという。やめていく理由は人それぞれだけど、この仕事を長くやっている人達は口を揃えてこう言う「この仕事は美容が本当に好きじゃないと絶対に勤まらない、体にくる仕事だからね、楽じゃないよ」と、美容室が街に出来過ぎて、飽和状態のこの美容戦国時代で戦う歴戦の猛者の美容師達は言う。
ちなみに現在、美容室の数は全国のコンビニエンスストアーの数より多い。そんな中で皆仕事をしているのだ。店を生き残す為に、必死で技術とおもてなしの心を磨いて朝早くから、深夜まで働く世界なのである。だから、好きじゃなければ何処かで手を抜いたり、疲れて嫌な顔をしたりしてしまう、そして体もその激務に耐えきれない。そうなるともう、弱肉強食のこの世界に喰われて、辞めてしまうのである。
話を元に戻そう! こんなそんなで、美容師をやめてしまうと……「もったいない!」と、言う言葉がついてまわるのである。特に家族や恋人なんかは、そう言う筈である――なぜなら、他大多数が大学や、資格を取りに専門学校に言っている時、美容師だった人達は美容の専門学校に通っていたからだ! 美容の専門学校を卒業して国家試験に受かると、『美容師免許』が取得できる。この資格は美容師以外の職業において、殆ど役に立たない資格である! いや、この資格を目指して取る本人達は美容師を目指しているのでそんな事は百も承知であるのだけれど、美容師をやめるとなると話は変ってくる! 特にその人と親しい人達は心配するであろう。そうなのである! 大学や、他の専門学校などと違い、美容の専門学校は全くもって潰しが効かないのである! 美容師以外に道が無い、それが美容専門学校だ。
潰しが効かないと言うと少し語弊があるかもしれない――女性の場合『美容師免許』を持っていると、美容師を辞めても『まつ毛エクステ』の店や『美容部員』の仕事に就職しやすいし、資格も活用できる!
ただ男性となると話は別だ! それらの職業は殆ど女性限定の為、男性はこの資格を活かせる職業がないのである! 企業を相手に就職活動をするにせよ書類の段階で中々、美容専門学校卒だけだと、大学などと違って、受験勉強の競走を勝ち取ったという証が無い分、学歴で戦うには弱すぎる。だから、新たな資格を取ったり、勉強をしたりと、熱を入れて努力して、死に物狂いで就職活動をしなければならない――これらの理由が他人から、そして自分の心の奥底から聞こえる「もったいない!」と言う言葉の意味である。
だけど、僕はもう見つけてしまったのだ! 自分の『希望』を、夢を見つけてしまった。店長が眠るこの絶望の闇が舞う世界を、僕は変える。こんな素晴らしい美容技術を持っている人の未来はもっと、明るいものでないといけない! こんな暗い運命であってはいけないのだ!
だから、僕は店長に恩返しをする! 店長が目覚めた時、魔神の美容が広がったとびっきりな世界を見せて、そして目の前にいる僕がとびっきりに進化している世界。弟子の僕がカッコ悪ければ、それは店長がカッコ悪いのと一緒になってしまう。だけど、弟子の僕が立派に成長していれば、それは店長がカッコイイと言う事になり胸を張れるはずだ! 店長の魔神の美容が広まった世界をつくるのは勿論、その中で僕もこの広い美容業界を学んで成長していかなければならない! それが僕から店長への恩返しだ。
この考えにベストマッチする仕事を見つけた! 後は覚悟を決め、美容学校卒の僕が挑み、そこにダイブするだけだ――大丈夫、僕は魔神の下で魔神の魔法の美容を六年学んだ『魔神のアシスタント』なのだから、魔神の美の実践者として僕は近代の叡智を築くんだ!
退寮日の今日、僕の新たに芽生えた『希望』を抱え、若葉寮長にそれを伝えるべく、病院を後にして若葉寮に向った。若葉寮長以外の寮の皆には挨拶はもう済ませてあった。僕は寮に残っていたあと少しの自分の荷物をリュックに入れて、それを背負い若葉寮長のもとへと向った。
寮長を見つけ、僕が今後の夢を語ると、家族同然である寮長は僕を心配し、常套句を飛ばしてきた。つまり、「もったいない!」とか、お馴染みのそう言う類の正論だ。
「叡智、無謀なニートになっているじゃない? 先生の事故がすごくショックなのは分かるけど……。なによ、出版社って!? あんた出版社なんて学歴が重要なのよ……舐めているの? そんな無謀な事はやめて、何処かでまた美容師やりなさいよ……。潰しがきかないでしょ、あんたが卒業した学校は! 大学とかじゃないのよ? 美容師をやりなさい! もったいない!」
出版社――僕が再就職に希望する企業そして、僕が見つけた『希望』を叶える事ができるステージである。美容業界専門誌を扱う出版社に入社したいとの考えを若葉さんに申し出たのであった。
「出版社って言っても、美容業界専門誌の出版社ですよ! そこなら僕が六年間培ってきた事も無と言う訳にはならない筈です。挑戦したいのです寮長! 僕の新しい夢を、希望を叶える為にも、僕は出版社に入らなくてはならないんです!」
僕の『希望』――それは今まで頭さんと学んできた僕が信じられる武器『魔神の美容』を美容業界全体に吹きこんでその技術を広めようと言う事だ。
それには美容業界に革命を起こす必要がある! そこで僕が考えたのが、美容業界専門誌のみを扱う出版社への就職だった。所謂、業界誌と言うモノを編集、取材、撮影、制作、営業する会社だ――そこで編集職として僕は働きたいと思っているのである。
革命を起こすには――毛沢東の革命の三原則は曰く、①若い事②貧しい事③無名である事、という教えがある。
素晴らしい事に、革命を起こす為に武器になる三原則を全て、僕は現段階で持っているのである! 素晴らしい事である! 誰でも持っているものではない。
だから僕はその三つの武器に、僕の最大の矛である『魔神の美容』を加えて、美容界に革命を起こして、僕が店長にできる最高の恩返しとして、この『希望』に臨む決心をしたのである!
これは戦いなのだ……『ランプ』で店長に初めて会ったあの日と同じだ。僕は覚悟を決めてその武器だけを持ち、出版社という僕が何も知らない世界に、ジャンプしていかなければならない! 逃げ場はいらない。ここぞと言う時は全面戦争になろうと、命を賭けて最悪死んでも構わない覚悟が僕にはあった――そういう転職を僕は今からするのである。
そして、重要な事は何で出版社の仕事でないといけないのかと言う事だ――それは美容業界のナンバー1媒体は、『美容業界専門誌』だと僕は自論ではあるが、思っているからである。美容雑誌でもなく、ファッション誌でもなく、勿論テレビでも、ホームページでも、SNSでもない! 『美容業界専門誌』こそ、僕がこの『希望』を叶えるために理想とした媒体であった。
紙で髪の記録を残す事が重要なのである――ダジャレみたいになってしまったが、僕は昨今SNSやブログが大ブームするこのインターネットの時代だからこそ、むしろ『紙』に価値があると思っている。媒体としての弱いと言う人がいると思うが、それは違うと僕は考えた――その理由はとても単純明確で簡潔である! それは美容の練習に紙のテキストが最適であるからだ! ウィッグを切るにしても、カラーを染めるにしても要点をテキストで確認して練習するのが一番やり易いし、良いと思うスタイルを一々ネットからコピーするのも面倒である。
雑誌をテキスト代わりに使えばそのまま見ながらやる事が可、ノートに貼るなら切り取るだけで済むので、美容の練習の御供としてとても需要があると考える。
こういったスタイルを集めたモノをスタイルブックと言い、美容師の宝となる。練習内容や自分が重要だと思ったポイントなどをまとめたものも、殆どの美容師はノートに記入し、自分のお手製の技術ノートを作っているものだ。
スタイルブックや技術ノートのこれらを、パソコンなどで整理している美容師は殆どいない――だいたいの美容師がノートにカラフルペンなどを駆使して、まとめあげている。これにおいてテキスト代わりに使える『美容業界専門誌』の役割はすごく大きい! 良いと思ったページは切り取ってすぐに貼り付けられる。雑誌の紙上に書かれた文のスペース配分なども勉強になるので、綺麗なノートを作成する参考になる。そうして、作りあげた技術ノートとスタイルブックはその美容師の一番の思い出と、自分の努力の結晶として形に残り一生の宝になる!
そんな素晴らしい宝物作りの手伝いができる素晴らしい媒体、それが美容師の№1媒体は、『美容業界専門誌』だと僕が挙げた理由だ!
だからこそ言おう! 世の中の美容師を志す人、美容師達だけが目を通す最大の媒体――それが『美容業界専門誌』である! そこにはカリスマ美容師のコラムやストーリーテリング、技術紹介、そして美容に関する薬剤知識や道具の知識、市場の流れ、トレンドカラー紹介や、ブームと傾向などを掲載している! 毎月刊行される『美容業界専門誌』の他に自己啓発本、技術総合ノートなども取り扱っている『美容業界専門誌』専門の出版社は現時点で四社ある。その出版社とは、『BIYOUABABA社』『櫛友出版』『神髪カワワ』それとその中に今、新規参入した出版社! 『美容スータビリティ』である。他の歴史のある3社より、僕が『希望』を叶える為、働きたい出版社はこの『美容スータビリティ』である。正直この出版社1社に絞っていると言っても、過言ではなかった。
話しは変るが、僕は店長の悲しい不幸な事故があって、こんな『希望』を抱いたのであったものの……この『希望』を叶えるならば、逆に今のタイミングがベストだと思っている――それは今の状態が、一番武器を多く持つ命知らずの若者だからである。経験とやりがいを得られるなら、いくらでもがむしゃらに熱狂する事ができる。円熟みなんかはいらない! 若いフレッシュな爆発力に期待できる今だからこそ、僕はこの挑戦に今が一番向いていると思う。
なぜなら、僕は今が一番、フレッシュな魔神のアシスタントだからである。まだスタイリストになっていない。それが故に僕は今、魔神のアシスタントの最高傑作なのである。アシスタントの業務や気持ちを120%理解した、限界のアシスタントなのである!
言わば切りたての髪である――切りたての髪はブラントカットで直角切りに切られている為、切り終わってからセットすると、まだ髪に角があり重さがでている為、セットし易さで言えば二番目ぐらいにし易い感じである。それが今の僕だ!
髪を切った状態――切ったばかりのフレッシュな状態、美容師の完成形であるスタイリストが始まる前のギリギリの状態。それは完成した知識が詰まった頭の柔らかい状態である。髪で言うとカットが終わって完成した二番目にセットし易い状態! そして、一番セットがし易い状態とは何か? それは切ってから十日ほど経った状態である。
十万~十一万本ある人間の髪の毛は切ってから十日程経つと、シャンプーやブローの摩擦などで毛先の角が丸くなり、この時が一番セットし易い状態となる――これがブラントカットの命だ! 僕はこのカット方法で切られた髪の様に今、熱い風で摩擦を起こし、荒波に揉まれて丸く進化できる人間なのだ。出版社で、死ぬ気で経験と実績を積んで、そこで揉みに揉まれた僕が一番の状態になった時……僕の『希望』が、必ず叶うと僕は確信している! それが始めるなら今が、一番良い武器のある恵まれた状態だと言う理由なのだ。
もしもスタイリストに昇格していたら、そうはいかないだろうと思う。なぜならスタイリストであるとそれが、髪で言う一番セットし易い状態になってしまうからだ――一番セットし易い状態には『希望』を叶える為に、出版社で揉まれて修業し、吸収してなるべきなのだ! もうなっていてはいけないのである! でなければこの『希望』は叶わない……。
とまぁ、そんな理由で転職するなら今が一番ベストタイミングだと言う事をふまえて、何で僕が『美容スータビリティ』を志望するのかと言う話しに戻そう。志望するには歴とした理由がある――勿論であるが僕にはこの会社に特別なコネがあるとか、尊敬している人が働いているからだとか、そう言う類の理由では一切ない。何の所縁も愛着もない会社なのである。それでも今の僕は『美容スータビリティ』にとても魅力を感じている! なぜならこの会社は八月から新しく月刊誌を創刊するらしく、今その編集部で働く編集者を募集しているからだ! 新しい雑誌が作れる環境、イノベーションを起こし『希望』を叶えるならここしかない! 美容師目線で分かり易く良い技術を勉強できる雑誌を作りたいのである!
この人の技術は最高のものだ! と、美容師が思う様な人の技術を読者に分かり易く広めて伝えていきたい――そういった人達の技術を分かり易く伝えるサポートに力を使いたい。美容師の学び方とポイントを抑えて、読者が開いたページで手が止まるような、魅力的で見惚れてしまう魔法の様なページを作りたいのだ! 分かり易く、読み易い、美容師が自分の力を本当につけられる、勉強がしやすい雑誌を僕はここで築きたい。 そして僕が間違いないと、思う頭さんの魔神の美容の技術を広めたい! 何もないまっさらなこの雑誌で、革命を起こすような、洗練された最高の技術を分かり易くまとめて、広めたいから……だから、僕はこの月刊誌の編集部に是が非でも入りたいのである!
僕のこの気持は紛れもなくホンモノだ。だから、僕は滾る目で寮長をひたすら見つめて、説得した。きっと寮長なら僕の想いを分かってくれるだろうと、期待を込めていると――寮長が優しく、それでいて強い目をして、息子を戦場に送りだす強い母の様に、寮長は僕に言った。
「本気なのね……叡智。いいわ、なら強く飢えなさい! 私は叡智にはそういう教育をしてきたつもりよ、あなたは優しいから……強く飢えて、そしてその飢えた目で本当の真心を持って欲しい! そしてその希望を叶えてね。あなたの夢は今も昔も、私の夢よ。だからどんなに追い込まれても、苦しい場面でも、あなたのしてきた六年間をよく思い出し抗うのよ。大丈夫、あなたならどんな困難にも打ち勝てるは……先生が見守ってくれているわ、きっと」
「寮長……ありがとうございます。必ず良い報告が皆にできるよう頑張ります!」
僕は新たな『希望』をこれで寮長に伝える事ができた、一安心だ……。
もう一つ僕には今日、寮長に伝えなければならない事がある――この二十一年間のお礼を言葉にしなければならない。否、この感謝の気持ちは言葉なんかで伝えられるほど簡単なものではない、それでも僕は感謝の気持ちを伝えるべきなのである。ちゃんと声に出して言うべきなのだ。自分が声を発する前に、ポタポタと涙が流れてきている事に気づいた……僕はこの二十一年間過ごした若葉寮を今日あとにするだ……。
楽しい事だらけだったここでの生活を終える最終日……無職になってしまっていた僕に新しい『希望』ができて本当に良かったと、心から思った。
希望に満ちた幸せな顔でここを後にするのと、絶望に満ちた不安な顔でここを後にするのでは、全く後味が違ってくる――だから、店長、そして僕に昔絵本を読んでくれてこの『希望』に気づかせてくれた若葉寮長には本当に感謝している。恩返しをさせて頂けるチャンスを見出せてくれて、本当にありがとう……。寮長への感謝の気持ちを全部はぶつけられなくとも、涙が発声を邪魔する中、言葉にして寮長に伝えた。
「若葉寮寮長こと、若葉涼子さん! 今までお世話になりましたあぁっ! ぐわっ……ヒック! これからも……僕の尊敬する唯一の母親でいてください! 僕はこの若葉寮で育った事を誇りに思います! 必ず……希望を叶えてきます! 本当に、ありがとうございました」
天才でもない限り、どんなクリエイティブなアーティストだろうとこんな時、中々考えてきた言葉では人に伝えたい気持ちが響かない気がする――だから、あえてその時に自然に出てきた言葉と、涙で僕は寮長に感謝の気持ちを伝えた。そうか、僕はやっぱり、若葉寮長をお母さんだと思って生きていたのだ……。
この時、初めて僕自身もその事に気づいた。こんな時に自分の真実の気持に気づく不器用な僕に若葉寮長は笑顔で、涙を流しながら僕を優しく抱きしめてくれた。
「ありがとう……うっぐ……叡智。あなたは私の自慢の孝行息子だわ……これからも、私の誇りでいてちょうだいね、愛しているわ。あなたは一人じゃない、この寮の皆が家族よ! 皆あなたに期待しているのよ、だから新しくできた『希望』を必ず叶えてね! 母さん応援するから! で? 叡智。まずは面接だわよね? あなた出版社に受かる為の作戦みたいな考えはあるの? 面接の日取りは? まずは就職できないと話しにならないもんね!」
感動の余韻も束の間に、突然の余韻デストロイヤーによって、いきなりリアルな話題を振られた。若葉寮長は元々現実志向な考えの持ち主だ、当然の質問だと言えるだろう。そして僕もその質問に対するカウンターをしっかり準備していた。だから、僕は涙を拭きキメ顔でこう言った。
「当然秘策があります! ここに来る途中で考えたタウリン1000㎎の法則って言うのが! これでまずは先制して上から殴って、ガツンとアピールします! まずはそれでアピールしてその後に今日帰ったら作成予定の秘密兵器を使って、見事採用して貰ってくる構えです! 面接は二日後です! 採用枠は一人ですが、必ず僕が合格してものにします! まあ、ちなみに僕……知っての通り、人生で初の面接なのですけどね……これが」
「私は高校一年生から数えて休みを除いて、1760日間美容室で働いていました! この年齢でこれだけの日々を現場で働いていた人間はそう多くない筈です! 美容室の美容師として、現場の仕事を熟知している所存です! この1760日間は私が必死に美容と向き合ってきた日です! よろしくお願いします」
よく栄養ドリンクなどに使われるタウリン1000mgの売り文句がある。それは1gをより多く見える様に工夫した広告宣伝であり、mg単位まで細かく記入した分かり易い素晴らしく精密な製品だと謳える武器である――僕はそれに習って自分の美容室で働いていた期間六年間を分かり易く、それでいて多く感じ、インパクトに残る様に日数で答える事にした。1万円よりも10000円の方が多く感じる人間心理を武器とした。
1gより、人間は1000gmの方の桁数が多く記載されたパッケージに目がいく様に、これで面接官に対し先制して他の応募者より目をひかす事ができると、僕の考えた秘策だったが……。先制とはいかず、髭面の面接官から返って来たレスポンスは僕が想像していたものとはあまりにも違う厳しいものだった。
「は、はぁ? で、君……なにかここで役に立つスキルは具体的に何がある? 写真は撮れる? 車は運転できる? 漢字は得意かな? パソコンは勿論一通り扱えるよね? 企画練れる? 取材は得意? リサーチしたり、原稿仕上げたり、校正できる文章力は自信ある? ライティングできるのかね? ボキャもアピールして欲しいね……君」
自己紹介が終わり、向えた自己PRタイムで僕はこの秘策を叩きこんだが、蓋を開けてみればなんとまぁ、このザマである……。口頭ではこの作戦は厳しかったか……字にしないと数字にインパクトが欠けてしまってこの作戦は失敗するのか!?
先日、若葉寮長に秘策があるとか、あんな大口を叩いておきながら、僕は今その秘策を華麗にスルーされ、逆におもいっきりカウンターを叩き返され、ノックダウン寸前の大ピンチに追い込まれた……。
やはり、元々就活の準備などしていなかった為、二日間で準備した付け焼刃では少々無理があったようにここにきて感じて来た――秘策は見事粉砕された。この自己PRタイムに用意していた秘密兵器を出すタイミングも掴めない状況に陥っている。どこかでジャブからでいいから反撃をしなければ、時間切れで自己PR時間が終わってしまう! TKO負けになってしまう。
用意している秘密兵器とか、随分大層な言い方をしているモノの正体とは、向こう側から要求されていない企画書を五本作って持って来ていただけだ――こんなものはきっと、後の黒歴史にしかならないであろう事を……僕はこの面接の土壇場で理解した。
髭面の面接官が僕をじっーと、見ている――あー、怖い……怖いけど、僕の覚悟はこんなものだったのか? どんなにここで恥をかいて死にそうになろうとも……ここで諦める方が怖いに決まっている! びびってんじゃねーぞ! 時蔵叡智! 思い出せ……。
今ここで僕が取り戻さないといけないのは……速攻で砕け散ったプライドでも、秘策でもない――魔神の美容で授かった日々の経験と、『希望』を叶える為の覚悟から生まれた勇気だ!
スマイル、スマイル。過去、美容室の営業中に僕はこんなに震えた顔をした事があったか? いや、答えはNOだ……パッと! サイデリア的な笑顔で臨んでいた筈だ――だから、恐れるな! 笑おう、逃げ場はいらない。
「今から三年前の高校を卒業した頃から、仕事終わりに毎日書いていた小説で新人賞の佳作を受賞した事があります! 美容師を題材にした小説です。題名は『鋏で天国に行ける方法』と言います! これがこの面接の評価対象になるかは分かりませんが、この小説の執筆作業の為にパソコンを購入し、それをきっかけに私はパソコンを勉強したので文章作成アプリ、グラフ作成アプリ、プレゼンテーションアプリなどは勿論、扱えます! 漢字は履歴書の通り漢検2級です! プロとして写真を撮った事はありませんが、美容師をしていた頃に作品撮りなどでカメラを使用していました! なので、撮影には興味があり、今後意欲的に挑戦していきたいです。車は履歴書の通り免許が無いので運転できません! 必要なら取得します。編集の仕事経験は皆無ですが、やる気と叶えたい『希望』は持っています! この仕事なら自分は無我夢中で熱狂して働く事ができると思って志望致しました! まだ実力がないので、これから骨を削って実力を早くつけます! どんな仕事だろうと、今すぐいけます! と、いう気合と覚悟でここに来ました! 企画が練れる人間か、ライティングができているかを見て貰えるように企画書を勝手ながら五本自作してきました! よろしくお願いします!」
僕はパッと! サイデリア的な笑顔でそう言いながら、企画書を取り出して、髭面の面接官に渡した。もう僕は何も恐れない! 手持ちに武器がないならば、面接官の言葉から武器を探し、その武器を僕の思考から探し、見つけて拾いながら、この面接を走る事に決めた! 選り好みせず、その武器を拾う努力をしよう――大丈夫だ、僕には魔神の美容を学んできた六年間がついている。その経歴に恥ずかしくない様に恐れる心を恐れて前に走ろう! そしていつも笑顔を絶やさず、爽やかな風を起こす! その風に乗るのだ!
「ふむ。こんなの持って来てくれたんだ~、どれどれ。えっ~となになに、まずこれはヘアカラーの特集の企画書か、アニメや漫画のキャラクターのカラーレシピを真剣に考えるか。若者向けの遊び心がある企画ではあるね、君は流石に美容師だったからカラーレシピをよく研究して書いてあるみたいだけど、肝心なアニメと漫画キャラクターの版権とかの著作権法の許可をどう取って行くかが書いてないね、少し甘いかな」
「はい、そこら辺の知識はまだ乏しいので、お任せしようと考えておりました。甘い考えをしてしまい大変失礼致しました!」
「まぁ、いいんだよ。次の企画書見ようか、うん? 『美容師カウンセラー』って、ぷ……ハハハハ! なんだ、これは! ハハハハ、『美容師カウンセラー』なんて言葉始めて聞いたよ! これは君が考えたの?」
一つ目のカラーの企画書は全然駄目だったみたいだ、二つ目の企画書には少し喰いついてくれているのかな? でも、笑われて馬鹿にされている様にも思えるのだが。
「はい、私が考えました。『美容師カウンセラー』という連載企画です! 美容師の方々が抱える悩みや問題を、私達が徹底的に調査し、その答えを見つけ助言していくと言う企画です。その企画書で例に挙げている問題は私が美容師時代に悩んだりして気づいた事や、美容師の知人が抱える悩みと私が出したアンサーです。ぜひ、御社に入社した際には幅広く美容師達の悩みを受け付け解決する為、取材や調査に精を出し、良い回答ができるよう全力を尽くしたいです!」
「おっ、ガチのやつだったか……笑ってすまなかったね。ふ~ん、先輩に指示されなくても完璧に動ける様な、愛されアシスタントになるにはどうすればいでしょうかねぇ~。まあ、先輩にモテる事はアシスタントで成功する条件みたいなオメルタがある業界だからねぇ~。師弟関係が強い業界だから、こういう悩みはあるだろうね。よく仕事は体で覚えろとは言うけど、こうやって要点とコツをまとめて文にして丁寧に答えてあげるのもいいかもね。他にも個人サロンと、大手サロンの違いと、自分にはならどっちが合っているか一緒に考えて欲しいとか、美容師の離職率についての不安とか、色々まとめられているなぁ~。この企画書は後でじっくり目を通しておくよ」
ガチじゃないやつってどういうものだろうか!? 僕は真剣にその企画書を提出しているのに! 冗談でそんなモノ提出する奴はいない。そもそも、面接の場では志望者は皆スーパーマンの筈、やはり僕はここまで相当舐められていたんじゃないか……。まぁ、いいとしよう。謝っていたし、なによりこの企画書は少し気になってくれたみたいだ。
「ありがとうございます! ぜひ、目を通していただければ幸いです!」
その後、面接官は僕が持ってきた評価シート付きフォトコンテストの企画書と、美容師が欲しがる付録の企画書を二十秒ほど見つめて目を通ると、すぐに机に重ねて置いた。そして、最後の企画書の目を通すと、また口を開いてくれた。
「これで最後か、うん? なんだ……これ、『魔神の美容』って……。完全魔神の美容技術マニュアルの企画? なんか、私にはよくわからない技術が細かくまとめられて、解説されているけど……総合技術ノートの出版の企画かな? ムムッ……すごい量の技術だ! これは君が全部施術可能な技術なの?」
「はい! これが私のやりたい夢であり、御社でぜひ叶えたい『希望』です! 私が美容室で働いていた1760日間の結晶です! ぜひ、ご覧になってください!」
『魔神の美容』は僕の待ってきた企画書の中で一番の自信作であり――誇りであった。
その誇りに少しでも目を止めてくれている今が、この面接最大のチャンスだ――絶対にこのチャンスを無駄にしちゃ駄目だ! 熱意をぶつけてアピールして、面接官の心に届けよう! もうすぐ僕の面接時間は終わってしまって、次の応募者との面接になるだろう、だからここで僕の印象を深く、面接官に植え付けておく必要がある。『魔神の美容』が……いや、店長がきっと見守っていてくれている! 巡ってきたこのチャンスをものにしろ、時蔵叡智!
「私みたいな半端物を雇うのは、美容スータビリティさんにかなりのリスクがあると言う事を分かった上で私からお願い致します! 私をここで働かせて下さい! 私に賭けてみてください! 後悔はさせません! 必ず力になります! お願いします! いい雑誌を作らせてください! 死ぬ気で駆け巡ります! 僕にはこの『魔神の美容』が備わっています、それにどうか賭けてみてください!」
優れたとか、技術が高いとか、そんな漠然とした言葉だけをライティングして美容師に作ってもらったスタイルを載せるんじゃなくって、そこにちゃんと技術的な解説がなされている事が大切だと、僕は『魔神の美容』の企画書を通して面接官に伝えたかった――美容師に向けた雑誌なのだから、せっかく依頼し作ってもらったスタイルをただ撮影して、それを載せて「すごいね!」ってなるのではなく。そのスタイルを読者の美容師がちゃんと作れるように僕はしてあげたい! それには、分かり易い解説とチェックポインとをいくつも入れて、作品の写真もしっかり分析して計算する必要がある! そういう記事が出来れば読んだ美容師が必ずその技術を手に入れられる素晴らしく価値がある雑誌ができる。その編集は僕がこなしたい! と言わんばかりの、意気込みと希望がたっぷりと、詰まった企画書になっている。
「私の理想とする美容業界誌とは、美容学校の教科書とは違った第一線で戦うプロの美容師として働く人の生涯使える教科書です。美容師は一生勉強です! だから、業界の知識や技術などを分かり易く読者がスキルアップできる雑誌を私は作りたいのです!」
途中苦戦はしたものの、最後まで何とか面接を戦う事ができた。
「わかりました。では、合否の方は後ほどご連絡いたします。この企画書も後でよく見させてもらいますね、お疲れ様でした。これで面接は終わりです」
髭面の面接官にそう説明され、礼儀正しく挨拶をして面接を行った部屋を後にした――伝えたい事は伝えられたが、部屋から出た僕は合格の自信に充ち溢れていると、自信満々に言える状態ではなく、少し気持ちが不安になっていた。
なぜ今頃になって不安になったかと言うと、今日この面接に来ている応募者の人数は僕の前に九人そして、僕の後にまだ十人の計二十人で採用枠一つを奪いあう厳しい戦いだからだ! 負ける気は毛頭ないが、けれど最後の最後に不安が湧きでてきてしまった。
僕の面接はもう終わった。後は神様に祈る事ぐらいしか、やれる事は無い……――しかし、いくら負ける気が無いと自分が意気込んでいても、それだけでは学歴、職歴、スーパーマンPRに感動の志望動機が荒れ狂うであろうキャリア採用と呼ばれる即戦力重視の中途採用をものにするには僕では少し弱く、厳しそうだ。運でも味方してくれない限り、やはり客観的にみて即戦力か実に怪しい僕が選ばれる確率は会社のリスクを考えると、低いのかもしれないと、今頃不安になった。
「こんちっ~す! 君もう面接終わった系の人だよね? だよねぇ~? 大学どこ? いやぁ~なんだ、あの髭デブ面接官のオヤジ! 怖すぎだよね! ところで君の面接はヤバ系だった? 俺はやべーべよ、マジっべーーー! って感じ系だわ」
面接会場を後にして帰ろうと歩いていた矢先に、僕の前に面接を終えたのであろう知らないギャル男が、ジュースを飲みながらラフに話しかけて来た。
「どうも、お疲れ様です。こんにちは、えっ~と、僕大学は出てないんですよ、美容師として働いていたんで、まぁ僕も最初は厳しく色々つっこまれましたが、なんとか終えられたって感じ系ですよ、ハハハ……」
「び、美容師!? ひゃははは! なんでぃ! 美容師とか、この会社の客やん! それちょっと厳しくない? ひゃははは! ネタで言っているなら面白いけど! で? 雑談でも面接でしてきたの?」
「雑談ですか? いえ、僕は普通に面接を受けてきましたけど……」
「真面目か! っべーー! 雑談はお前らの仕事だろ? 『今日はいい天気ですね』とか『何のお仕事しているんですか?』とか、美容師のテンプレ雑談のアレ! ひゃははは! うけぴ~やな、君! 美容師ってくだらない雑談よく仕事中にお客としているけど、お前ら美容師って雑談が自分達の専売特許とでも思っていそうでマジ怖いわぁ~てか、ひくわぁ~、図星でしょ? ひゃははは! あの程度の雑談はやろうと思えば、いつでもできるつっ~の!」
この人は突然なんなのだ……。面接が上手くいかなかった腹いせに僕は喧嘩を売られているのだろうか? それになんだか美容師を馬鹿にしていないか……この人。
この手のタイプの人間はきっと僕の事をこんな風に舐めている――「あ~、こいつ美容室で働いていて、どうせ大した仕事もできず、サロン内の君主覇権争いに簡単に破れて、逃げる様に立ち去った根性無しのヘタレファッション美容師なんだろうなぁ~」とでも思っているに違いない、そんな風に思っている感じの見下した顔で僕を見ている。
まあ、これはあくまで僕の考えなので、本当に僕の事をこの初対面のギャル男がそう思っているかは定かではないけど、僕がそう思ってしまったのには関係ない話しになるのだが一応理由があった。
『美容師のマキャベリズム』と言う小説を、僕は未完ながら店長がこんな事になる前まで執筆していた。そこに出てくる主人公の美容師が、美容室を辞めて行った無職になったファッション美容師達を、そんな舐めた風に思っている設定だったのを思い出したからだ。そして、このギャル男が僕の頭の中にあった後に主人公に統べられる事になるやる気のないファッション美容師のギャル男のイメージにベストマッチしていたからだ!
そりゃ出演料を払ってもいいぐらい僕の小説のイメージ通りのギャル男であったがゆえに、僕の頭の中にあるその小説で描いた辞めた美容師に対する強烈なディスが浮かび上がったのだ。
勿論、僕はそんな気持ちで美容師を離れている訳ではないし、創作以外で辞めた美容師をそんな風に思った事はない! そもそも僕はランプ以外のサロンで働いた事がないので、美容師を辞めた人で知っている人もいやしない。ましてや、ランプみたいな二人しか従業員がいない小さな個人サロン出の僕だ、君主論なんて全く関係ないし、覇権争いなどありえない――この小説は僕の完全な中二妄想なのだ!
小説のあらすじは昨今、熾烈極まりなく美容業界の中でおこなわれている美容室の生存戦争に勝ちぬく為、立ち上がり戦う一人の美容師の話しである。沢山の人が働く大手サロンで、主人公のとある美容師が君主論を武器に、ファッション美容師達を従えて、覇道を唱え君主としてサロンを制圧し、君臨して美容業界を牛耳れるほどの力のある美容室創り上げる過程までを描いた僕の頭の中の妄想だけで作りあげた物語だった――今は全く関係のないこの僕の頭の中だけの小説から、相手が持つ僕の印象を汲み取ってしまったのだった。
そんな事が頭の中で飛び交った僕は、目の前のギャル男に爽やかできっぱりとした声でカウンターを返した。
「そんな事は少なくとも僕は思っていませんでしたし、雑談はコミュニケーションの一つで、美容師の仕事はあくまで美容です。それに傲慢は美容師の敵です! 雑談にせよ、技術にせよ専売特許なんて驕った考えはしませんよ。それにあなた、分かっている様ですけどこの会社は美容師の人達をお客様として扱う会社ですよ? 少しでも尊敬の心を持たないと、すぐに皆にあなたが美容師を馬鹿にしている事を悟られて、それは絶対に仕事の妨げになりますよ? それじゃあ、僕はこれで失礼したします。さようなら」
不愉快なのでこの場を立ち去ろうとすると、ギャル男が僕の腕を掴んで引き止めた。
「ちょいちょいちょいちょい! おい、なにイキッてんの? ファー! この会社はマツエクの店とかじゃないんだぞ? しっかり大学を出ている俺に舐めた口聞くなよ! お前の様な半端で美容師を挫折した様な奴が面接に来る場所じゃねぇ~んだよ! ガキが粋がりやがって! 笑わせるぜ! まずはどっかの職業訓練所でも行ってパソコンの資格でも取ってから出直してこいや! ヒャハハハ! ここは……出版社だ! お前の様な奴を誰が採用するんだよ!」
僕を罵倒し下品に笑うそのギャル男は、まさに予想通り僕を見下していた――僕はギャル男のことを睨んで、腕を掴むその手を退けさせた。
「放せ、腕は美容師の命だ、軽々しく掴むな。僕はあなたになんて思われようが構わないが、人の事を見下すあなたが僕から見ればここに来るべきじゃない!」
ギャル男にそう言いながら睨む時蔵叡智の顔が、あまりにも鋭く冷たいものだった為、恐怖し、尻もちをその場でついた。
「うっ、うるせえやい! お前なんてどうせ根性無しで美容師やめたんだろ! 偉そうに言うな! そうだ、どうせ美容も下手くそなくせに! よし、悔しかったら俺の襟足の髪の毛編みこんでみろよ! さあ、早く! どうせ今はできないとか言うんだろ……って……え?」
ギャル男がそう言うと、時蔵叡智はすでにギャル男の後ろに立っていた。手にはコームを持っていて襟足を梳かし施術を始めていた。その姿からは「今はできない」と言う逃げの常套句を吐きそうにはなかった――そして、魔神の美容の施術に入った。
「この長く伸びた襟足を綺麗に編み込めばいいんですね? ならフィッシュボーンが可愛いかな。一分あれば十分です! コームはいつも持ち歩いているんで、出来あがりを見て驚いたら、今後一切美容師を舐めないで下さいね! それに美容師はいつの時代もあなたの様なギャル男の味方です。結構多いんですよ? ギャル男がカリスマ美容師目指す事! まぁ僕は見た事ないんですけどねぇ~。フィッシュボーンって言うのは、森ガールに大人気な編み込みなんですよ、魚の骨の様に編み込むんです。これだけでも可愛いんですが、少し編み込んだところを引っ張ってゆる~い、感じにアレンジすると……ほら! こんな風にゆるふわ系のデザインになるんですよ! はい、雑談している合間に完成です! 写メを撮りますんで見てください!」
ジャスト一分ではないだろうか? 僕の全身全霊を込めて、ギャル男の襟足を編み込んだ――僕はいくら馬鹿にされても構わなかった……だけど僕の技術である『魔神の美容』だけは馬鹿にされる訳にはいかなかった、これが僕の『希望』であり、全てだ。これだけは初対面のこの人にも堂々と僕は伝えられ、表現ができる武器である。
「な、なんだ! はやっ! どうせ雑で大した事ないんだ……えっ? 嫌だっ!? なにこれ……可愛い! 俺の襟足、可愛過ぎ! すげえ……なんだ、この編み込み、まるで生きているみたいだ! それに言っていた通りだわ! ツヤツヤで魚の骨の様な編み込みを程よくほどいたシュルエットが絶妙ゆるふわ……。これが君の技術なのね、まるで――魔法の手ね」
魔法の手――なぜか若干おねえ系口調になったゆるふわギャル男が、僕にくれた最高の褒め言葉が体に響き沁みわたる。
ああ、幸せだ。また魔神の美容が僕を幸せにしてくれた……この初対面ギャル男との殺伐としたやりとりに和解と調和をくれた。
ギャル男は「いきなり悪かったわね……お前はすごいわ、そんなすごいお前がこの会社受けに来ているって事は、っべーーー覚悟と理由があるんでしょうね、まあ、野暮な事は聞かないわ、さぁ~て俺も次はなんだか面接頑張れそうな気がしてきた! 本当にごめん! 俺八つ当たりみたいな事して、最低だったわ。人を見下す態度がきっと面接とかでも出ていたんだ……薄々わかっていたんだが、認めるのが怖かったんだ! 今、自分の間違いに気づけてよかったよ、ありがとう」とギャル男は言い残すと、手を振り夕暮れの薄暗闇の中へとそのまま去って行った。
美容師に重要なのは一期一会の心である――初対面でも、何回も合っている人でも、この人と関われるのは今回が最後かも知れないと考え、全力を尽くして満足して帰ってもらい、その出会いの大切さを感じる心だ。それが今でき、ギャル男が何かに気づけて満足して去って行った事に僕は最高に嬉しくなり、魔神の美容に感謝した。
「今の若人の襟足、綺麗じゃったのぅ~、お主腕がいいのぅ~」
僕とギャル男の先程のやり取りを恐らく見ていたのであろう一人の老人が、杖をつきながらトコトコトコと、歩いてやってきて、感極まり立ち尽くす僕に声をかけてきた。
「見ていたのですか? いやぁ~、ありがとうございます」
「綺麗じゃったよぉ~、わしにも何かしてくれんかのぅ~?」
「え? えっーと、そ、そうですねぇ~。あ! 眉カットなら今できますね! 丁度、身嗜みとしてアイブローキット持ち歩いているんで! いかがでしょう?」
短髪白髪頭の随分とお年を召した人に見えるので、いきなり言われても中々できそうな施術はなかったのだが、たまたまその老人の眉がボサボサだったので、僕は眉カットを提案した。
「おお~、やってくれるのかい? ありがとう! よろしく頼むわい」
老人は嬉しそうに、人懐っこく笑い僕にぺこりと頭を下げた。そして僕はアイブローキットを鞄から取り出して早速――魔神の美容の施術に入った。
「は~い、じゃあ細かい毛が目に入るといけないので少しの間目を瞑っていてくださいね。眉を整えますね! カッコよくしちゃいますよ~」
なぜ僕はこの時こうもノリノリで施術していたのか、見ず知らずの老人に道を聞かれるならまだしも、僕は眉カットを道端で始めたのだ。ただ一つ分かる事はこの時、僕は嬉しかったのだった――現時点で、僕の最大の武器である『魔神の美容』を評価された事が、単純に無邪気なまでに僕を上機嫌にさせたのだ。
老人の眉を綺麗に整え終わると老人は笑顔で、それも僕が心がけていたパッと! サイデリア的な笑顔で微笑みながら、「ありがとう! また、頼むよ!」と、さっきまでのぼんやりとした喋り方とは違う、ハッキリとしたバリトンボイスでそう言い、去って行った。
不思議な人だ――あの老人は何者だったのだろうか? ひょんな事から関わりをもってしまった。一見可愛いおじいちゃんと、いう感じだったけれど、最後の去り際は妙な威厳を感じた。まあ、僕は結果的に親切にしたという訳なのだから、老人目線に立てばしっかりお礼を言いたかったのかなと考えれば、それでなんとなく辻褄は合う。だから、あまり深く考えず僕も家に帰る事にした。
色々あった大変な一日だった――だけど後悔がなく僕はやれる事、だせる力を示せた一日にできて良かったと思った。さぁ、泣いても笑っても、面接の合否が出るのは明日だ。もう覚悟を決めて今日は休む事にしよう、ごたごた考えるのは明日の連絡が来てからにするべきだ、不安ではあるが、今考えても埒があかない。良い結果だと祈ろう……続きは明日だ。
朝の十時に今か今かと待ちわびていた携帯電話の着信音が部屋に鳴り響いた――勿論、このスマホ画面に表示された電話番号の相手は、美容スータビリティ本社の電話番号だ!
僕は期待と不安に胸が張り裂けそうになりながら、電話にでて「おはようございます! 時蔵叡智です。昨日は面接をして頂きありがとうございました」と、元気良く挨拶をした。すると、そのレスポンスとして返って来た電話先の相手の声を聞き僕は驚いた。
「時蔵叡智! 合格! さぁ、今日から早速来てくれたまえ! 面接官から君はすぐ行けると言っていたと聞いているよ! 今日から忙しくなるよ、覚える仕事が沢山だ!」
電話の相手が言っている内容に僕は驚いたのではない! いや、それは嬉しくて跳ね上がりたい内容であったけれども……それより驚いたのは、そのスマホから聞こえた電話先の相手の声である――聞き覚えのあるバリトンボイス、これは昨日聞いた面接官の声でも、勿論昨日出会ったギャル男の声でもない。それでいて昨日聞いている印象深い声、知っている声だった! 間違いないあの時、眉カットをしてあげた老人の去り際に放たれたバリトンボイスそのものであった。それに僕は、目が飛び出るほど驚いたのである。
「え……あ、ありがとうございます! し、失礼ですが……お尋ね致します、間違えておりましたら申し訳ありません! もしかしたら昨日の眉カットの?」
と、僕が言いかけたところで、電話の主は笑ってネタバレを始めた。
「フォッフォフォ! よくぞ声だけで分かったのう! 大した若人じゃい! いやぁ~、そうじゃよ! 会って驚かせ様と思ったんじゃが、声で分かるとは……流石電話応対になれている美容師さんと言ったところか! まあええわい、昨日はありがとう、時蔵君! ワシも君の様な者が、まさか面接に来ているとは思わんかったわい! 面接官を務めていた我が社の磯貝君と話し合ったところ、今回編集者として君を雇う事にしたんじゃ! これからよろしく頼むよ、時蔵叡智君! 私はこの会社美容スータビリティの社長である星 鋏助じゃ! では、早速出勤してきてくれ! 細かい話はその時に、何時にこれそうかね?」
やはり、僕の予想は的中していた……。電話の主はあの時の老人であった。あの関わりが僕の合否に関わったのかは分からないが、兎に角チャンスをものにしたんだ! 編集者になれたという喜びが、湧きあがった。僕は早く仕事場に行きたいこの気持ちを伝えようと、はりきって社長の星さんに答えた。
「昨日はこちらこそ褒めて頂き、どうもありがとうございました! 今からすぐ向いますので11時前には会社に到着できると思います! よろしくお願いします!」
「了解じゃ! では、オフィスで待っておるわい! 今日から頑張っとくれ、そして君には叶えたい『希望』が、我が社で扱う美容業界誌であるみたいじゃな! それに向って結果をだしてくれ、会社とは売り上げが全てじゃ! 結果が出れば時蔵君の希望は我が社皆の希望になるだろう! それまで、厳しい道のりをどうか戦って勝ってくれ、期待しておるぞ、では」
「ありがとうございます! 必ず期待に答えてみせます! では後ほど」
電話が切れると同時に僕は会社に向った――会社に向う道中で若葉寮長に電話を入れてこの嬉しいニュースを伝えた。あった事をありのままに話すと、若葉寮長は喜んでくれて、僕に一つ含蓄のある話をしてくれた。
「本当にすごいわねぇ~、なんか和光同塵みたいな経験をしたわね!」
「うん? 若葉寮長、和光同塵ってなんですか? 初めて聞く言葉なのですけど……」
「ああ、そうね。禅語の一つよ、意味はそうね……今回の叡智でたとえると、見知らぬ怪しい得体の知れないおじいちゃんに親切にしたら、次の日その人が実は社長で内定くれてやったぜ。って、感じの事を言うのよ。まぁ、この含蓄のある言葉の重要な部分は自分の立派な身分をかくしているのにも関わらず、その人に対し親切に接した欲がなく見返りを要求しない人の親切が生み出した奇跡の事を言うのよ! 人を見かけで判断する人はダメなのよ。詳しくはあなたの得意なインターネットを使って自分で調べなさい、良い言葉だからね」
「はい、まぁ……でもなんとなく分かりました! ありがとうございます。あ、もうすぐ会社につきますのでこのへんで! 仕事入り始めも入り始めなので、暫く僕は忙しいと思うので、一息つけるようになったら遊びに行きますね! それじゃあ、取り急ぎ報告までに失礼しました! 時蔵叡智、頑張って来ます!」
「うん、いってらっしゃい! これから頑張るのよ。あなたなら必ず期待に答えられるわ、いつでも遊びに来てね! いい報告待っているわ」
そんな幸せな会話を交わし、僕は電話を切った。今日はなんて爽やかな朝なのだろう! 絶対今日は良い事がある気がする――そんな期待を胸に僕は美容スータビリティの中へと入って行った。
ビルの中に入り、オフィスにつくと、電話で話した社長と、昨日の面接官である磯貝さん、そして……綺麗な顔立ちをした巨乳のお姉さんが待っていた。
「フォッフォフォ! 叡智君、美容業界誌の社長はちょっと尖った感じのちょい悪ダンディオヤジだとでも思ったかな? ざんね~ん! 星おじいちゃんでしたぁ~、パァ!」
「ちょっと、社長。時蔵君そんな事言っていませんし、たぶん思ってもないですよ、すいません、社長……すべっています!」
「フォッフォフォ! 磯貝君は相変わらず髭面デブの癖に厳しい事いうなぁ~、軽い冗談じゃないか! まあ、改めて、時蔵叡智君! これからよろしく頼むよ! 我が社の命運は君にかかっておるのじゃい!」
「社長、すべっていますよ、それに我が社の命運は社長にかかっていますよ……。髭面デブってセクハラですよ? 髭面デブの私へ対するセクハラですよ? まぁ、いいです。そんな事より、時蔵君。昨日は面接お疲れ様! 企画書面白かったよ、それに君の希望にも興味がある。改めまして、昨日面接官を勤めました磯貝 竜彦です。これからよろしく!」
社長と昨日の面接官の磯貝さんが、僕を陽気に招き入れてくれた。一応歓迎されている様なやり取りだったので、僕の緊張も和らいできた。
「おはようございます! 今日から宜しくお願い致します。頑張ります!」
「フォッフォフォ! 元気でよろしいな、叡智君! 美容師とは繊細で真心のこもった仕事ができ、マメでいて尚且つ優しい人が理想じゃ! そういう立派な美容師達と我が社は人付き合いを通して、仕事をするからのぅ~。だから、内の編集者の諸君にもそういう美容師のような心で仕事をして欲しいんじゃ! それを一番感じられたのが君だから、ワシは君を採用したのじゃ」
社長は僕の目を見ながら、今度はふざけずに真面目にそう話してくれた。
「ありがとうございます! 必ず期待に答えます! 気持ちよく相手に仕事をして頂けるよう全力を尽くし、素晴らしい記事を作って会社の売り上げに貢献してみせます!」
僕が社長に答えると、磯貝さんが頷きながら僕に色々説明を始めた。
「ではこのへんにしといて、時蔵君に使って貰うデスクに案内するね。あ、その前に……紹介しないといけない人がいるねっ! こちらの綺麗な女性が時蔵君の配属される『月刊スータビリティ』の銀山 茜君だ! 君の直属の上司だよ。分からない事があれば銀山君、通称『山さん』になんでも聞いてくれたまえ、山さん! 悪いが自己紹介してあげてくれないかい?」
ようやく磯貝さんが、ずっと僕の事を見ていた巨乳でいて綺麗な女性を紹介してくれた。
その綺麗な顔立ちの上に、メガネをかけていて、おまけに黒髪ロングきたものだからなのか、とても彼女は知的に見えた。そして僕の前まで移動してきた彼女が、顔を見ながら「ほう……」と、ほくそ笑んだ。
「君が時蔵君か……まあ、宜しく頼む。足だけは引っ張るなよ、あと編集の仕事はなるべく私の仕事をみて技術を盗んで覚えろ! 美容師と一緒だろ? できるな!」
「え……あ、はいっ! 見て勉強させて頂きます! 宜しくお願いします。足手まといには絶対にならないよう、頑張らせていただきます!」
なんか、外見とは裏腹に銀山さんは少し怖い感じの上司みたいだ……。
僕はこういう体育会系の人には、元気で大きな声が一番だと考えて答えた。
だが、それは裏目に出てしまったみたいで……銀山さんは「ほう、ほう、元気でいいが、声がでかくてうるせぇぞ?」と言いながら、またほくそ笑んだ後に、僕を睨みつけた――怖い! いちいちほくそ笑まないでくれ!
「まぁいいや、おい! うるせぇ新人。早くデスクに座れ! 早速、仕事を与えてやる!」
「はい、分かりました。え? ぐっは! イテテ……」
僕がデスクに着くと何故か、銀山さんが僕を殴った! そして、そんな暴力事実はなかったかの如く、スルーして僕に原稿校正の仕事を説明してきた……。
また一瞬、「フッ……挨拶だ」と言って、ほくそ笑んだ気がした……。
説明は雑であったが、何とか理解し、僕はほっと一安心した。このぐらいの校正作業なら僕は自分の小説でやっていたし、準備出来ている! 仕上げるとしよう。
早速仕事に取りかかり、パソコンのキーボードを慣れた手つきでカタカタと叩いた。僕が作業に没頭する姿を見て、銀山さんは目を丸くして驚いた様子で声を漏らしていた。
「な、なんだ……こいつ!? 仕事に入った途端に顔つきが変わったぞ! プロの目だ……。こいつ、使えるかもしれない! おいおい、こいつは……なんなのだ!」
「原稿上がりましたら持っていきます! 他に仕事があれば教えてください」
僕がキーボードを弾きながらそう銀山さんに言うと、銀山さんは嬉しそうに僕を見て答えた。
「ああ、まずはそれを早く片付けてくれ、そしたら後で画像編集ソフトの使い方を教えてやる! それを覚えたらまた別の作業だ!」
「分かりました! 終わったら直ぐに報告します」
「うむ。創刊号まで時間があまり無い! 忙しくなるから覚悟してくれ」
そう言い残すと銀山さんは自分のデスクに向い仕事を始めた。
校正が終わり銀山さんに原稿のデーターを送ると、「速いな」と彼女は驚き、次の仕事を教えてくれた。
デザインの仕事もなるべくデザイナーには投げないで、自分達で画像修正など、編集ソフトなどを駆使して作業をするらしく、僕はその仕事を教わった。
今日は取材や取りに行く原稿もないみたいで、一日社内で原稿の編集作業に皆没頭していた――僕も今日一日で少しでも多くの事を覚えて帰ろうと、他の人がやっている仕事をよく観察してノートにとった。
終業時間の五分間前に銀山さんが僕のデスクに現れた。今度はほくそ笑まずに話しかけてきた。
「今日はご苦労だったな、職歴の割に意外に仕事ができるんだな、びっくりした。まぁ、即戦力になってもらわないと困るんだから、当たり前だけどね!」
「銀山さんお疲れ様です。へへへ、そんなことないですよ。今日は色々教えて頂きありがとうございました。即戦力として早く仕事に慣れるよう頑張ります!」
「うむ、そうか。そうだ一つ決めた事がある! 早速になるが時蔵、来週私と京都に出張取材だ! 目玉の連載企画を用意する為、今まで雑誌の取材を全て断っていたグラデーションカラーの権化と言われる美容師に会いに行く! なんとかアポが取れたんだ、店に出向いて交渉する許可を得た! そこで、元美容師の時蔵を私は連れていく事に決めた!」
「グ、グラデーションカラーの権化ですか!? グラデーションカラーって言えば、若い女の子達に一番人気なカラーデザインですよ! 僕も美容師の時、得意でよくお客様にススメました。とても面白くて奥が深いんですよ、グラデーションカラー! その権化の様な人がいるなんて知らなかったです! ぜひ、会ってみたいです! すごい人なのですか?」
僕は銀山さんからでたその『グラデーションカラーの権化』という言葉に、ものすごく興奮し、早くも、こんな仕事にありつく事が出来る事に胸が高まった。
「凄いさ! 京街さんと言うのだけれども、彼は雑誌の取材は今まで一切受けていない数少ないカリスマ美容師だ。そんな彼がなぜ『グラデーションカラーの権化』と呼ばれているかというとだ――京街さんがカラーコンテストに出場すれば、その大会全てが歴代1位の伝説の大会になるといわれるほどの伝説級の人物だ! 勿論、出場した大会はグラデーションカラーを駆使し全て優勝している!」
「出場したカラーコンテストに全て優勝ですか……只者じゃないですね、大会にはどの程度、近年参加しているんですか?」
「ここ三年で行われた国内のカラーコンテストの約半分に出場して全てグラデーションカラーを施術し、ぶっちぎりの点数評価で優勝している。ここ三年のカラー大会の覇者、半分が京街さんだ! 凄すぎる……私はぜひ、京街さんに月刊美容スータビリティでグラデーションカラー技術の連載をして頂きたいんだ!」
熱く語る銀山さんに僕は心を撃たれた。この人は本気で仕事をしようとしている。僕はこの人の力になりたい。そして、そんなに凄い人の技術を目にしたい!
「素晴らしいです、絶対連載して貰いましょう! 銀山さん、僕もお手伝いします! グラデーションカラーの権化か。あー、どんな作品を作る人なのだろう! 早く会ってみたいです!」
「ああ頼んだぞ、時蔵。美容師をやっていたお前の経験がもしかしたら京街さんを口説き落とすのに役に立つかもしれない。京街さんは素晴らしい作品を作る人だぞ、楽しみにしていてくれ。そうだ、今日はこれからお前の歓迎会だ! さぁ出るぞ、支度しろ! 皆もう待っているかもしれない、少し長話をしすぎた! あ、あと私の事は……今後、皆みたいに『山さん』とお前も呼んでくれ」
銀山さんは頬を赤らめてそう言った――可愛過ぎて抱きしめたくなったが、そんな事をしたら怒りの鉄拳を炸裂させてしまうのは一目瞭然だった。僕はこんな所で倒れる訳にはいかないのである……体が大事だ。だから、その欲求は眠らせた。
「ありがとうございます。えっ、え~と、それじゃあ……山さん! 行きますか!」
「お、おう! 今日は社長の奢りだからな! 私もじゃんじゃん飲むとしようじゃないか、行くぞ、時蔵! お前に会社の飲み会と言うものを教えてしんぜよう!」
「ハハハ、お手柔らかにお願いします。僕、お酒弱いんで」
飲み会を行う居酒屋はなんと、僕の地元である目黒の権之助坂にある居酒屋だった。
新人社員には居心地が悪いと有名な会社の飲み会だけれども、僕の場合、居心地は悪いなんてことはなく、むしろ色んな社員の人が僕の美容師時代の話を聞かせて欲しいと言いながら寄って来てくれた。
話しをするとどの人もとても接し易く、社員の人達とすぐに仲良く打ち解けられた――元々社員数は僕を含めて十八人の少数精鋭型会社なので、この飲み会で社員全員と話す事が出来た。
まぁ、名目が僕の歓迎会なので、皆気を使って僕に興味を持った感じで接してくれているのかもしれない。皆大人である、この人達が僕の新しい仕事仲間なのだ、素晴らしい!
「フォッフォフォ! 叡智君、楽しんでおるかい? 今日は無礼講じゃ! じゃんじゃん飲みなさい! 君の面接の時の企画書見せて貰ったんじゃが、あの『魔神の美容』っていうのは誰か、教わった師匠的な美容師がおるのかいのう?」
星社長がほろ酔いの僕に喋りかけてきて、横に腰を下ろした。社長は酒に強く全然酔っていない様子だった――僕の企画書を見てくれたらしく、『魔神の美容』に対し質問をしてきたのであった。
「社長! 今日はありがとうございます。僕みたいなどこぞの馬の骨に、こんな場所を用意して頂いて! 今日は飲みます! 僕の美容技術は全て花形頭さんと言う美容師に教えて頂きました! 頭さんは本当に凄いんですよ。僕の『希望』は頭さんの技術を頭さんが目を覚ました時、美容業界中に広がっている世界を作る事なのです! 僕は店長の事を一番尊敬しているのに、何も恩返しができてないから、か、頭さんは今……びょ……う……むにゃ……むにゃ……あ……ご、めんなさぃ……睡魔が……かぁーー」
「フォッフォフォ! 酔いつぶれて寝てしまったのかいな? お~い、叡智君! あれ、起きんのう……なんと、叡智の師匠は頭君じゃったのか……あの伝説の美容師と呼ばれた頭君だったとは、世の中は狭いのぅ……」
最後は寝落ちしてしまったが、微かにそんな社長からそんな声が聞こえた気がした。
この飲み会の記憶は酔いつぶれてしまった為、あまりないのだが……こうして僕の美容スータビリティに入社しての初めの一日が終わった――ランプや若葉寮の他にもう一つ、今日僕にベストマッチする場所ができたのだ。
『希望』に向って突き進める最高のステージと、新たな仲間が僕にできたのだ。