序章〔隠れ家美容室の魔神に魅了させて――始まる魔神のアシスタント!〕
まだまだ春風が心地いい今日この頃、僕は若葉寮をエスケープしてきた。理由は単純だ! いや……と言うか、強いて言うような特別な理由がある訳ではないのだが、天気も良かった事だし、この春から高校生になった僕はアルバイトを探していた事もあって、外に飛び出たのであった。だからこのエスケープの理由は差し詰めそのアルバイトを探す為と言ったところだ。
今日は同じ寮に暮らす下級生達の宿題を見てやらなければいけない為、本来なら若葉寮にこの時間、僕はいなければいけないのだが、僕が目を掛けている下級生達は僕の教えで、学校の宿題は学校の休み時間中に全部終わらせるエリートタイプの人間に育て上げている。なのでこのエスケープの時間を確保するタイムマネジメントは完璧なのである!
もう若葉寮から三十分程歩いただろうか――代官山と中目黒の間ぐらいの静かな場所に来た。人気エリアの外れだから人けがない。なので僕はすぐに気づいたのであろう、目の前に知っている人が歩いている事に。
「うん? あ、あれは――若葉寮長だ!」
目黒の閑静な高級住宅街の少し外れにポツンとある施設――僕が赤ん坊の時からお世話になっているその児童養護施設『若葉寮』の若葉寮長が今、僕の目の前を横切り路地に入って行くのが見えた。
僕――時蔵 叡智の両親は僕を産んで間もなく、アパートに赤ん坊の僕を残して蒸発した。ボロアパートだったようで大声で泣き叫んでいた赤ん坊の僕はすぐに発見され、若葉寮長の営む若葉寮で保護され育てられた。若葉寮長は若葉寮の子供達一人一人にお母さんの様に接して、とても愛をもって育ててくれている。だから施設の皆はそんな若葉寮長を尊敬していて、そして大事な家族だと思っている。
路地に入った若葉寮長の後をこっそりとつける事にした――すると、若葉寮長はとあるマンションの二階の一室へと入って行った。若葉寮長はこんな場所に何の用があるのだろうか……そう疑問に思った僕であったが、そのマンションの入り口に置かれた小さな看板に気がつくと、その疑問はすぐに解消された。
美容室『ランプ』2Fと、看板には刻まれていた。そうか、若葉寮長はどうやらこのマンションの二階にある美容室に髪を切りに来たと言う訳だ!
若葉寮長はいつも左サイドの髪だけが胸の辺りまで長い艶々のアシンメトリースタイルをしていて、とてもカッコよかった――あの素敵な髪型はこの一見、美容室だと分からない隠れ家の様な場所で切ってもらっていたのか……見たい! 僕は若葉寮長の髪型が出来るまでの過程をぜひ見て見たい! この美容室の中を覗いてみたい……よし! 行こう。
「こっそりと中を覗いてみよう……。よいしょっと、え……え!?」
エレベーターで二階に上がり、美容室のガラスドアの入り口から中を覗いた僕は、言葉を失った。魔神がいる――僕が知らない世界がそこにはあった。その美しい世界に見惚れて、僕は声も出なかった。
「ん、おやおや? これは、これは、随分若いお客さんだね。覗いてないで入っておいでよ!」
若葉寮長の髪を美しい鋏捌きでカットする大人の色気があるオジサンが、ドアのガラスにはりつく僕に気づき、声をかけてきた。そのオジサンが放つ独特の雰囲気が、まるで魔神の様に神秘的だと僕は感じ、『魔神』と咄嗟に形容してしまった。
「あら、お客さん? って……叡智じゃないの! どうしてあなたこんな所にいるのよ!」
若葉寮長も僕の存在に気づき、そう声を上げると、それを聞いたオジサンが笑いながら若葉寮長の揚げ足をとるように言った。
「ハハハ、こんな所とはひどいなぁ……若葉さん! ここは小さくって、場所も分かりづらい所にあるけれども私の大事な、大事なサロンだよ! それにここはとても落ち着くじゃないか、日当たりはいいし、私の集めたアンティークな家具達はまた煌びやかでいて、木の温もりが感じられて! 癒されはしないかい?」
「先生……。そう言う意味で言ったんじゃないですよ。この子は私の寮の子供でして、今はてっきり寮に居るものだと思っていたんで……ここに居る事に驚いたのです! それにこのサロンは素晴らしいですよ! 癒されるし、先生の腕は一流です! ん、叡智! おーい、叡智!どうしたの? あなた固まっちゃって、折角だから中に入って来なさいよ! 先生にちゃんと挨拶しないとね」
オジサンの美しい手捌きに魅了された僕は、暫くその場に立ち尽くし固まってしまっていた。それだけ――この日、僕が目にした器用な手捌きは、まるで魔神の魔法そのモノの様で僕を魅了した。
これが『ランプ』で一人働く美容師――僕が初見で感じた魔神の様な魅力を美容に込めるスタイリスト、花形 頭との出会いであり、僕のこれからの生き方を変える運命の出会いであった。
その時、小さなこの美容室の中にある大きな窓から入る風はとても爽やかで、心地よく、まるで僕を迎え入れてくれているようで、とても清々しい気持ちになった。
「こんにちは、初めまして! 僕は若葉寮長にお世話になっている時蔵叡智と申します! って……え? 寮長……あ……そ、その耳……嘘……どうしたのですか!?」
店の中に入ると僕はすぐに挨拶をした。それを見た二人は微笑んでいた――すると、中に入った僕はすぐに今まで知らなかった衝撃な事実に気づき、驚き、目を疑った。
若葉寮長の左耳がない……。
セット面に座る若葉寮長はカットクロスを掛け、頭は綺麗にブロッキングがとられていて髪を留めるダッカールクリップでブロッキングごとに髪の毛は上に纏められていた。いつも左サイドには長い髪の毛がかぶさっていて見えなかった左耳が、髪を上げられていて顕になっていた……。否、本来そこにある筈の左耳はなく……その耳は潰れていた。
物心が付いたころから、若葉寮長にお世話になっているし毎日接していたが、こんな事実を僕は今まで知らなかった……。いや、気づかなかったと言うべきなのだろう。そのいつもキマっている自然でかつ、奇抜な美しい完全無欠なアシンメトリーな髪型が、完璧に……いや、完璧どころじゃない! まるで魔法がかかっているみたいに、潰れた耳など誰にも気づかせない最高なバランスを保ち、その髪型が全てをカバーしていたのだ。
「ああ……これか、びっくりさせちゃったかな? 別に隠していた訳じゃなかったんだけど、先生のカットが素晴らしいから誰にもバレないんだよね! だからわざわざ自分から言うような事でもないと思って誰にも言ってはいないんだ。叡智には言ってなかったけど、実は私こう見えても、昔柔道をやっていてまぁまぁ強かったのよ! この耳はその時、柔道の試合で潰れてしまったんだ……。まぁ、今となったら良い思い出だ! こんなものは勲章だね、別に気にしていないよ! それにこんな素敵な髪型をおかげで提案して貰えたんだ! カッコイイだろ? 私の髪型」
若葉寮長はそう言いながら、驚く僕の顔を見てニッーと、笑って尋ねた。
「はい! 若葉寮長の髪型が世界で一番好きです! そして、その髪型は世界で一番、若葉寮長が似合います。最高にマッチしたスタイルですよ……。こんな髪型を作れるここの美容師さんを僕は尊敬します! 正直、痺れました……。まるで魔神の魔法の様です! えーっと……」
「うん? 私かい? ハハハ、ありがとう。そんなに褒めて頂いて光栄だよ! 私の名前は花形頭と言います。よろしく頼むね、叡智君! うん! さすが若葉さんの育てた子だ! 良い子だね! それにとても優しい目をしているね、綺麗な主人公の目だ」
鋏を握る魔神の様な美容師である頭さんに尊敬の眼差しを送ると、頭さんは鋏を置き、小さな髪の毛が付着した手をタオルで拭くと、自己紹介をしてくれて、僕の頭を撫でた。
頭さんと初めて喋ったこの時、ここが僕の人生で最初のターニングポイントなのだと悟った。自分で行動しなければ、声に出して今、自分の胸に沸々と湧いてきたこの気持ちを、想いを、ときめきを、熱意を、伝えなければ、声に出してアピールしなければ! ――僕は一生後悔するだろう。
頭さんはまた鋏を握り、若葉寮長のカットの続きへと戻った――その美しい技術を僕は美容室の中にあったアンティークなソファーに座り眺めた。コームを髪に通すコーミング一つとってもその技術は素晴らしく、髪が素直になりツルンと、纏まり揃っていくのが分かる。その髪に入る鋏はとても細心に彫刻するような造形アーティストの技そのものであり、何度も何度もチェックする拘りのある作品を手掛ける職人の仕事だった。
見たところ頭さんは一つのスタイルを作るのに全体を三度はカットしている様であった――まずは髪を濡らして全体をカット、ボリューム調整で梳いていった後、髪を乾かして乾かしっぱなしで形になるようにドライカットをしている。カットが終わると細かい毛を落とす為、そしてお客様に癒されてもらう為、皆大好きな気持ちが良いシャンプーをしてから又、乾かして今度はブローをして髪を艶々にし、セットして仕上げで細かく鋏を入れていた。
そうした過程を終え出来あがった若葉寮長の髪型は美しく、魔法を駆使して作り上げた様な輝きを放つ素晴らしいスタイルとなった。寮長も大満足な様子だ。
この魔法のような――魔神の美容を見て僕は覚悟を決めた。
「頭さん! 僕をここで働かせてください! 頭さんの傍において貰えませんでしょうか? 丁稚奉公でやらせてください! 僕は今とても感動しています。人の髪を切ると言う行為を見て自分がここまで感動する人間だったなんて自分でも驚いています。ですが、本当に素晴らしかった、そして今まで僕が目にしたなによりも美しかったんです! 頭さんの美容が、美しすぎて……僕は魅了されました! 僕には美容師の知識が今は殆んどありません。ですが、ここで頭さんの下で弟子として勉強させてもらいたいと言う強い思いが、電流の様になって体中に駆け巡り僕を刺激しました! 今、声に出してこの気持ちを言わなければ一生後悔すると思いお願いしました! どうか、お願いします! 僕にここで修業させてください!」
僕が突然放ったその発言に、会計をしようと財布を出していた寮長が驚き慌てふためいた。
「あわわ! え? 叡智! 突然なにを言っているのよ! あなた……丁稚奉公って! つい最近高校に入学したばかりじゃないの!? 学校はどうするのよ! 美容師さんって朝は早いし、夜は凄く遅くまで仕事と練習があるのよ? それに休みは火曜日だけで大変な仕事なんだから、思いつきで変な事を言っちゃ駄目よ! ほら、先生に謝りなさい!」
若葉寮長の言っている事は物凄く正論であり、その位は僕も分かっていた――だから、これはそれを踏まえての申し出であり、僕の覚悟だった。
「若葉寮長! 僕は頭さんが僕を受け入れてくれるなら高校をやめてでも、何も知らないこの世界に……僕を魅了した頭さんの美容室に飛び込んで行きたいと思っています! これは大人達からしたらとても愚かで安易な若い考えだと言うのでしょうが、だけど、これは僕の物語です。僕は……頭さんが魅せる魔神の様な美容を手にする為なら、何も知らなくても暗闇に向ってジャンプして挑戦したいんです! 頭さん……どうでしょうか?」
全ての想いを頭さんにぶつけると、頭さんは僕に近づき目をじっと見てから答えた。
「ふむ、良い目だね。若葉さん……よろしければこの子を最後の私の弟子として育てますよ! ただし叡智君! 私は厳しいよ、君の為、そして何よりもお客様の為に、私は厳しく君を育てなければいけない、何があっても怒らないでやっていける覚悟はあるかい? ここはサロンだ! お客様は人間だ、どんなお客様がきても、理不尽な事を言われても、仕事をしっかりしてお客様に満足して貰い帰す、そういうメンタルが君にはあるかい? 泣きごとは一切きかないよ? 私の店の名を背負ってお客様の前に立つ覚悟が本当にあるのかい?」
僕は即断即決で答えた――そして美容の世界に思い切ってダイブした。
「ハイ! あります! これからよろしくお願いします! 頭さん、ありがとうございます!」
僕が大きな声でそう返答すると、頭さんは微笑みながら手を差し伸べてくれた。
「グレートだよ、君をここで雇ってあげよう叡智君! 私の事は『店長』とでも呼んでくれたまえ! ふん、君は高校一年生の様だね、高校は出るといい。ここが休みの火曜日以外の平日は学校が終わったら直ぐに来てくれ、休日は朝から夜まで頼むよ!」
「分かりました! 学校には行かせて頂きます。助かります」
「うむ、忙しい毎日になるけど大丈夫かい? 君のやる気を僕は信用するよ、私に食らいついてきてくれ! 一緒に寝食を忘れて美容に熱中する青春を送ろう! 君の情熱があれば必ずやり遂げる事ができるよ」
こうして、僕の美容人生がスタートした――若葉寮長をなんとか納得させ、僕は『ランプ』で働ける事になったのであった。そして店長は僕の長く伸びた髪を見て、お店で働く前に髪をカットしてくれた。
後ろをスッキリさせて右サイドの襟足を少しだけ触角の様に外ハネで残し、サイドはそれに合わせてアシメにして、前髪の長さを活かして耳にかけ、短くしたトップから前髪をもってくる技ありスタイルだ。こんな画期的で計算され尽くした幾何学的なスタイルを作れる店長はまさに魔神の美容と評していいであろう。この人の下でこれから勉強できる僕は幸せなのだと、心から思った。
「お電話ありがとうございます! ランプでございます。こんにちは、高橋様。ハイ! ご予約ですね、ありがとうございます。お日にちはお決まりでしょうか? 明日ですね、お時間はお決まりでしょうか? ハイ、朝一番の十時ですね、かしこまりました! その日はいかがなさいますか? カットとカラーですね、ありがとうございます! 5月17日の日曜日十時にカット、カラーでお待ちしております! ありがとうございます。失礼致します」
僕が『ランプ』で働き始めて一ヶ月が過ぎたこの日、店の近くを通りかかった若葉寮長が店まで上がって来て、今の電話応対を見て、感心した様な顔をして店長に僕の様子を聞いていた。
「へぇ~、今日もちゃんと仕事しているみたいね叡智! あの子はマメだし、意外に接客業に向いているのかもね。先生、あの子お店に迷惑掛けていませんか?」
寮長は妙に過保護な所があり、僕が心配でしょうがないのか、たまに様子を見に来る。まったく! 勘弁して欲しい事案である。そしていつも店長が得意げな顔で寮長に僕の評判を話していた。
「叡智はお客様に随分可愛がって貰っていますよ。評判も凄くいいですし、練習も熱心にこなしていますよ、成長が楽しみです。叡智には私の全てを伝えたいですね! 彼の未来が若葉さんも楽しみでしょうね、見守ってあげてください。それに――私は彼の眼が気にいっています」
「目ですか? ああ、確かにキリッとしていますよね。美容師さんは見た目も大事ですもんね!」
「いやいや、若葉さん。私はそう言う意味で言ったのではないのですよ。彼の目は自分に自信のある職人の様な眼なのですよ。とてもこの世界に飛び込んできて1ヶ月しか経ってない者の眼じゃない……。いつ自分にお客さんから指名が入ってきてもいい様なそんな面構えを……彼はしている。叡智がここに初めて訪れたあの日、私は彼のその眼に魅了されてしまった……。私の手で育ててみたいと夢を持ってしまったのですよ! それに彼の纏うオーラはなんとも優しい! 叡智なら私の美容を継げる……真心を持って人に接してくれると、直感したのです」
そう優しく話す店長の声は、真心を感じさせる癒しの魔法の様に周りを温かい気持ちで包んだ。寮長は幸せそうな笑みを浮かべていた。
「ありがとうございます……先生。私は叡智を本当の子の様に育てて来ました。だから自分の息子がこんなに期待されている事が嬉しいです。ありがとう叡智……頑張れ、叡智。先生! 叡智の事これからよろしくお願いします! きっと、彼は誰の期待も裏切りません」
「そうですね。私も彼と接してみて、そう思いますよ」
僕はあの日、運命的な縁で『ランプ』で働く事ができた。毎日が美しく、爽快な日々を送れていた。
感謝が尽きない美容に熱狂する日々はあっ! と、言う間に過ぎていき、三年の月日が経ち僕は高校を卒業した――美容の技術も段々レベルが上がり、色々な仕事を任される様になってきた。それも園長と店長そして、僕を支えてくれている人達のおかげだ。
高校を卒業した僕は『ランプ』での修業と仕事に専念するために、美容学校は通信科に通う事にした――美容師免許を取得する為、通信科の学校に入学したが、三年間毎月一度だけのスクーリングだけなので、十分『ランプ』に専念することができる。
高校の時と違い時間にも余裕ができ、毎日の練習量は増やせるし、これからは趣味にも時間を費やせる。 火曜日は丸々休みになったし、スクーリングのある第三月曜日は店長がお店を休みにしてくれた。高校時代の三年間で仕事もなれてきて、体力的にも余裕ができてきたし、夜も少し行動できるまでになった。通信を卒業するまでは若葉寮に居られるし、お金も貯金できそうだ!
昔から寮をエスケープしてまで本を買いに行くほど、本が好きな僕にはやりたい事があった。それはオリジナルの小説を書いて、何処かの出版社の新人賞に応募する事だ! 小説の作業や、寮を出たらする一人暮らしに向けて、高校生の時に貯めたお金を全部叩いて、ノートパソコンを買った。
操作方法などは、若葉寮の職員にパソコンに滅法強い人がいて、その先生に毎週火曜日にパソコン教室を開催して貰い勉強をした。
そして、その技術はすぐに役にたった――美容学校に貼り出されていたポスターに『小論文奨学金』と言うものがあり、小論文のテーマは『美容の奇跡』であった。
優秀賞に選ばれた一名は30万の奨学金が貰えると言うものである。美容学校の先生には通信の生徒は中々優秀賞に選ばれないと言われた。僕は初めて行った『ランプ』で見た寮長の左耳の衝撃と感動を、寮長の許可を得て、皆に店長が施した美容の美しさと真心を伝えたくて、それを題材にノートパソコンで小論文を手掛けて、見事優秀者に選ばれ奨学金を貰った。
奨学金もありがたかったが、少しでも皆に店長の魔神の美容を伝えられた事が嬉しくて堪らなかった。これをきっかけにライティングが楽しくてしょうがなくなった僕は休みの日や、夜の自由時間に文章を書く事に明け暮れた。
美容学校に行きながら『ランプ』で働く三年間の内に店のブログを作ったり、名刺とかも作ってみたりもしながら、小説も何本か完成させた。
小説は念願の新人賞に応募した。最初の作品は一次落ち、その後は何度か二次落ちを繰り返したのち、二年生の後半で僕は『鋏で天国に行ける方法』で新人賞の佳作を受賞した――美容師の男がお客様の頭に明るい言葉を投げかけ、不思議な気を送りスタイルに落とし込み、お客様を幸せに導く話だ。客の目線で物語が始まり髪に憑いた気で勇気を出して奮闘する物語。主人公の美容師はお客様に沢山の不思議な気を送って、それが1000人を超えると、自分は天国に行けると信じている。と、言うのが簡単なあらすじだ。
この小説には僕が五年間、お客様とした雑談を落とし込んだ。自信作でもあったので賞が受賞できて本当に嬉しかった。その賞金で僕は自分の鋏三丁と、シザーケースを買った。
その後、編集の人と何回も火曜日に打ち合わせして、本に仕上げて貰った――あまり売れなかったけど、貯金に励んでいた僕には嬉しいご褒美となった。おかげで力が湧きより美容の練習もメリハリがつき捗った。
『ランプ』でアシスシタントを始めて五年半以上が経ち、美容学校をもう少しで卒業する僕は――『ランプ』でカット以外の業務は全て完璧にこなせるように店長に毎日鍛えられて育っていた。言わば『魔神のアシスタント』である。
そして暫くすると、カットの方もそうとう腕が上がって切れるようになり、僕はいよいよスタイリスト昇格試験を受けさせて貰える事になった。その日程はもう決まっている――僕の待ち焦がれたその勝負の日は、美容学校卒業式の前日であった。
このスタイリスト昇格試験の前日に丁度、僕が通う美容学校の一大行事で唯一、通信科の学生も参加する学校行事の大会――卒業カットコンテストがあった。
事前にカラーを済ましているウィッグを用意し、カットブローを一時間で行いその作品で順位を付け優勝を争う大会である――僕のスタイリスト昇格試験前の腕試しと、肩慣らしにもってこいな、内容だ! この大会に優勝し、スタイリスト試験も合格して、学校を卒業したら……ようやく僕のスタイリストとしての人生が始まる。自分が成功する良いイメージを強く抱き、覚悟を決めてどちらにも臨む事にした。けっして驕りなく、いつも通りに楽しみながら、僕は六年間やってきた自分の美容を信じた。
「え~、卒業コンテスト結果発表! 今年のコンテスト優勝者は……な、なんと審査員満場一致で……選ばれたのは……通信科の生徒です! 時蔵叡智君の『スマッシング・ダイヤモンド』です! おめでとうございます! では、時蔵叡智君。壇上へお上がりください!」
とてもクレバーな精神状態でカットにあたる事ができた。そのおかげで良い結果が出て、ホッとしながら壇上に向うと、普通科の生徒達がざわめき始めた。
「馬鹿な! 通信の生徒はこのコンテスト過去一度も入賞すらしていないはずなのに!」
「そうよ、普通科の生徒と違ってこのコンテストの作品作りに使える時間と、先生達のアドバイスの量が圧倒的に違うから通信科の生徒が優勝できるはずないのに……なのに! 今年は何故……こんな事になっているのよ! 納得いかないわ!」
そんな風に生徒たちはざわめいていた。だが、そのざわめきはすぐにおさまった――壇上に上がった僕が作品を全生徒に見せると――生徒達は納得をしてくれたのか、静まり返った。
そして審査員の先生も壇上に上がり僕の作品の評価を述べた。
学生の作品と言える『それ』とは……僕の作品は明らかにレベルの違うモノであると、審査員に評価された。
その美しさと奇抜さに溢れたショートスタイルに皆が見惚れたと、審査員の先生が言ってくれると――会場の生徒達皆が僕に拍手を送り、こんな美しい造形をしたゴージャスで儚く砕け散ったダイヤモンドを表現したショートヘアーは見たことないと、会場が揺れた。
僕の作品は、破壊されたダイヤモンドが砕け散り、その破片の跳ねた様子を毛先の動きと、カラーリングで作りあげている。そんな輝きを放つ僕の作品を見て会場の皆がその毛先の様に、舞い上がった。
本校始まって以来の作品だと、審査員長だった美容学校の校長に壇上で激励されて、トロフィを受け取り、それを高々に掲げて観客席で僕を応援しに来てくれていた若葉寮の皆に手を振った。だが、そこには先程までいた筈の若葉寮長の姿はなかった。
それに……おかしい、今日見にくる筈の店長の姿もない……。
まぁ、どこかにいるのだろう……。店長は今日見かけていないが、若葉さんとは大会前に会ったし、僕はそう思うと、この時、この事を深くは考えなかった。
それよりカットを評価して貰えて嬉しかったが、僕にはこの大会は通過点にしか過ぎない。僕の本当の戦いは明日である!
これはただ僕が美容環境に恵まれていて、まだ美容室のアシスタントにも入っていない学生に勝っただけだ! だが、明日はそうはいかない! 今日みたいにお人形さんを使って美容施術をするのではなく、いつもの練習の様に人間のモデルを使っての美容施術だ! 本物の美容のフィールドでの試験である。そして、合否は僕が一番尊敬する店長が決める。国家試験や今日の大会の100倍の緊張モノだ! 明日は今日より必ずいいショートスタイルを作り試験に受かる! 僕はそんな事を考え、壇上を降り、若葉寮の皆の所に向かおうとした。
すると、壇上を降りてすぐに若葉寮長が猛スピードで僕に駆け寄り、すごい顔をして僕の手を引き――会場を飛び出し、後にした。
「え!? ど、どうしたんですか? 若葉さん! そんな顔して! 会場出ちゃいましたが、僕、皆に挨拶と応援のお礼を言いたいんですが……」
いきなりの事に驚いた僕がそう言うと、若葉さんは目に沢山の涙を浮かべ――僕に言った。
「叡智! 大変よ……せ、先生が……事故に遭ったの! 今、病院から電話が……行くわよ!」
なんだ、その笑えない冗談は……と、思ったが――若葉寮長が僕にそんなくだらない冗談を言った事は過去に一度もないし、そして冗談を言っている様な顔には、とてもじゃないが見えなかった。