優しい死
びしゃり、と。熱を持った液体が頬に降りかかった。濃い錆の匂い。つまり血だ。人の。人間の。
寄りかかってくるもう生きてはいない『ソレ』を横に除ける。本当ならもっと丁寧に下ろしてあげたかったけれど、その余裕がない。ごめんなさい、と心の中だけで呟いて、ステッキを前方に突き出す。
短い悲鳴と共に、小柄な影が一つ消し飛んだ。影。階異。階異『ゴブリン・シャドー』。飛びかかってきたそれを一秒だけかけて、高純度光石の光で焼いた。
周りを軽く見渡しただけでも、数十体の『ゴブリン・シャドー』が暴れているのが分かった。
なぜ、という疑問が持ち上がってくる。この辺り、居住区とされている場所は光石灯の数が多い為、階異は殆ど近寄りはしないのに。たまに迷い出てくるとしても、そういう輩は自分のような戦える人間が追い払うか、焼き滅ぼすわけで。こんなにも大量に、一斉に襲ってくるなんてことは普通無い。
――つまり普通じゃないことが起こったってこと。
原因を探るのも大切だけれど、その前にまずは目の前の惨劇を止めなければならない。手当たり次第、近くにいる階異から焼き滅ぼしていく。ディンも飛び出して、片端から階異に襲い掛かった。
助けるのが間に合った人もいるし、間に合わなかった人もいる。とにかく我武者羅に戦い続ける。でも、ほんの十数メートル先。『ゴブリン・シャドー』に追いかけられている小さな女の子がいて。間に合わない。そう思う。走っているけれど、近づいてはいるけれど、このままなら多分、階異の爪が少女の背中を切り裂く方が早い。
だから、未だ間に合ってはいないけれど、トリガーを引いた。滅ぼすには足りないけれど、『ゴブリン・シャドー』程度なら怯ませるには十分な光量を浴びせられる。
怯んだ隙に距離を詰めて、改めてトリガーを。今度こそ確実に殺す。
少女は、まともに高純度光石の光を見てしまったのだろう。目を抑えてうずくまっている。ごめんよ、と声をかけてから小さな体を持ち上げて、安全な場所に移動させようとして。
安全な場所――そんなものがどこにあるのか。今や光石灯の灯り程度ではなんの保障にもならないというのに。とは言っても、放置は出来ない。
背中におぶさるように言って、ぐずる少女を背負い立つ。動きは制限されるけれど、俺の武器なら片手で扱えるから何とかなる。
とはいえ飛んだり跳ねたりは無理だ。えっちらおっちら走りながら、時々トリガーを引いて階異を怯ませていく。
「僕が代わります」
ディンがそう言ってくるけれど、断った。それじゃ駄目だ。ディンは身軽で素早く動けるのが強みだし、それに武装がグローブだ。人を背負いながらでは戦えない。
「ディンはなるべく多くの敵を倒してくれ。お前の方が適任だ、頼む」
そう頼んで、俺は少女を背負って走りだした。せめて、他の誰か預けられる人が居ないか。視線を巡らしながら走っていると、一際明るく輝いている場所が目についた。
室内から漏れ出す眩い光。光石灯のそれよりも数段強い光だ。その光を俺はどこかで見たことがある気がした。
――ああ、そうだ。劇場の光だ。
「アリリ!」
彼女の名前を呼ぶ。明るく輝く部屋の前に立つ彼女が軽く手を上げて見せた。
「はぁい。避難所はぁ、こっちですよ~」
背負っていた少女を輝く部屋に避難していた人たちに預けると同時に、輝きの元を確認した。やはり、劇場に撒かれていたものと同じ。砂のような光石の粒。それが部屋の一面に撒かれていた。
「こんなに大量の光石、どこに持ってたんだ」
「企業秘密です~」
そんな風にはぐらかす彼女を半眼で睨んだけれど、どこ吹く風やら飄々と受け流されてしまって。全く、謎の多い子だ。でも助かったのは事実で、助けられた人が多くいるのも事実だ。
改めて、室内を眺める。やはり、怪我人も多い。それも命に関わるような大怪我をしている人も、いる。
「死ぬのか……俺は、死ぬのか……」
死の恐怖に表情を歪ませて、うわごとのように呟く壮年の男。医者は居るのか。いや、居たとしてもどうしようもないだろう。それほどの怪我。
そんな男にアリリは近づき、座り込んで。自分の膝に男の頭を乗せて、優しく頭を撫でる。そして微笑みながら語りかけた。
「貴方は死にます」
はっきり言いすぎだろ。
「でも、この薬を飲めば苦しまずに逝くこともできます」
――――。
「……どっちがいいですかぁ?」
男は、僅かな逡巡を見せはしたものの、結局彼女の持った薬を呷った。すると、次第に呼吸がゆっくり落ち着いてきて。
アリリはその間も優しく男の頭を撫で続けている。
「大丈夫ですよぉ。なぁんにも怖くないですからね……。ほら、あったかくて、気持ちいい、でしょう……?」
優しく、甘い声に安心したのか。男はゆっくりと目を閉じて。
二度と目を覚ますことはなかった。
◇
「酷い顔してますね~」
いつも通りの笑みでからかうように言われて、思わず頬を指で撫でる。勿論そんなことで自分の顔がどうなっているのかなんて、分かるわけもない。
「そんなにか?」
「ええ。『笑顔で人の命を奪いやがって、この悪魔め!』みたいな顔してました~」
「それは嘘だろ!?」
反射的に突っ込むと、くすくすと笑われてしまった。バツが悪くなって顔を逸らす。
「……でも、そう思う人も居るんですよね~」
ちらり、と覗く彼女の表情は少しだけ憂いを帯びているようにも見えた。
「言われたこと、あるのか」
「はい~。まぁ、そういうお仕事してますからぁ、ある程度は仕方ありませんねぇ」
――仕事。花売りの少女。吸うと気持ちよくなる薬、死に瀕する者に安らぎを与える薬を売る。いや、売るというよりは使う、のか。
「……無責任に売るだけ売って儲けてるのかと思ってた」
「え~、酷いですぅ。私のこと、そんな風に見てたなんて~」
「わざわざ誤解を招くような言い方してたからだろ……」
呆れて言っても、彼女はただ薄く微笑んでいるだけで。
これ以上言ってもしょうがないので、ふと思い出したことを聞いてみた。
「今日土産に持って来たあれは?」
「ああ、あれですかぁ。あれは殆ど香り成分だけで固めたパウダーですよ~。まあ、多少の高揚効果もありますけどぉ。あくまで香りづけとしてお楽しみください~」
「ホントに紛らわしい!」
そんな言い合いをしている間にも、階異を狩ることは忘れない。大分数も減って疎らに見つけられるだけの『ゴブリン・シャドー』共を焼き殺していく。
そしてそれは彼女、アリリも。
渇いた破裂音と共に、遠く離れた場所に居たはずの『ゴブリン・シャドー』が頭部を吹き飛ばされて倒れた。
その射線を辿れば、『拳銃』を構えるアリリの姿。
「……そういうのアリだったのかよ」
思わずぼやかずにはいられない。前世から含めても殆ど縁のない、しかし知識としては知っている強力な人類の武器、銃。
飛ばす弾はその先端に光石を埋め込んであるという。それもそれなりの純度のものが。
「真似しても良いんですよぉ? 何なら私がお世話になってるガンスミスも紹介しますしぃ?」
「分かってて言ってるだろちくしょう――!」
銃は比類なき強力な武装だ。俺のステッキや、ディンのグローブなどとは一線を画す。ただ、まず間違いなく俺如きでは扱えない代物だろう。それは技術面という意味ではなく、単純に、『金がかかる』という意味で。
一つきりの高純度光石を大事に大事に使っているような俺が、そんな光石を湯水の如く消費する武装を扱えるわけがないのだ。
「ブルジョアめ」
「貧乏人の僻みはみっともないですよ~」
やっぱりこいつあくどい商売もやってるんじゃないのか。そう思わずにはいられない。
と。
――遠くで、空気が震えるほどの猛り声が聞こえて。
「……大型?」
「今回『ゴブリン・シャドー』を扇動した奴かもしれませんね~」
そう聞いては、無視も出来ない。元より居住区内に階異が居るならすべて排除するまで安心は出来ないこともある。
俺達はお互いに視線を交わし、頷き合って同時に走り出した。