6 ご隠居さんの正体
縮緬問屋の‘越後屋’。それがじいさんの店だった。越後の縮緬問屋じゃない。
「危ねえ所だったんだぜ。この旦那が割って入ってくださらなきゃ、このじいさん、お犬様を殺める所だったんだ」
半次は偉そうに腰掛けて言った。さっきは青くなって怯えていたくせに。
越後屋の主人は床に額を擦り付けて感謝している。
じいさんは、おかみさんに泣きながら小言を言われているのに、素知らぬ顔でお茶をすすっている。
「助さん、晩飯はまだかのぅ」
「おとっつあん、この人はあなたのせがれの格太郎ではありませんか。手代の助造はまだ外回りから戻ってきておりません」
おかみさんは、また涙を拭った。
「本当にありがとうございました」
主人は小さな包みを半次の袖に入れながら言った。
「もうじいさんから目を離すんじゃねえぜ。旦那、帰りやしょう」
「旦那、どうなすったんで、ため息なんか付いて」
「いや、何でこんなに大騒ぎをするんだろうと思って。呆けたじいさんが、犬を叩いた所でどうって事はないと思うが」
言葉にした事もそうだが、俺は、もう一つ違う理由でため息を付いたのだ。あのじいさん、水戸黄門なんじゃないかと思ったのだ。江戸時代なんだし、ウロウロしていないとは限らない。初めて会う有名人かと思ったのに。
「死罪。御店も開けていられなくなるでしょうね。そうしたら、一家全員で首くくりだ」
「死罪!?犬を殺すと?」
どっかで聞いた事がある。
「さいですが。まさか旦那、知らなかったなんて言いやせんよね?」
「……生類哀れみの令?」
俺は自信がないのに手を挙げて、指されてしまった生徒みたいに言った。
勉強嫌いの俺が覚えているはずがない。元禄15年は、天下の悪法‘生類哀れみの令’発令真っ只中の時代だったのだ。
「公方様にご意見してくださる方が、亡くなっちまいやしたから。ますます住みにくい世の中になりやした」
「誰?」
「旦那、ほんとに大丈夫ですかい?っていうより、本当にこの国のお人で?やっぱり異人か天狗なんじゃ?水戸のご老公様ですぜ。一昨年お亡くなりになった時は、このあっしでさえ悲しかったんで」
「会った事があるのか?」
「んなわけねえでしょう。ほとんどお国から出なかったんだから」
「諸国漫遊は?」
「旦那、いい加減にしておくんなせえよ」
もう徳川光圀はこの世に存在していないのだ。さっきの期待は外れるわけだ。300年前に死んだじいさんより2年前に死んだじいさんの方がより身近に感じた。
どうせ夢なら、どうして本物を出してくれないんだ。俺は凄腕でモテモテの侍という設定がよかった。
「帰りたくなった……」
「旦那、そんなに落ち込まねえでくだせえ。さっきもらった小遣いで、一杯引っかけていきやしょう!上等な酒と綺麗なおネエちゃんがいる店に。……異国でも、山ん中でも、帰る手だては、あっしが一緒に考えやすから」