4 初めての散歩
江戸の町はごみごみしているが、高層ビルがないし排気ガスもない。風も日の光も気持ちがいい。
半次とお春に、初めて町を案内してもらっている。
「美味かったなぁ」
時代劇のセットで出てくるような蕎麦屋‘田毎庵’を後にした俺は言った。
「何がです?」
「酒と蕎麦」
「皮肉ですかい?旦那。水で薄めたような安酒と、ほとんどつなぎの白っちゃけた蕎麦だったじゃねえですか」
それだって、水は天然水、蕎麦にしても、つゆにしても、科学的に作られた物は一切入っていないのだ。全てが自然の恵み、人の手作業で作られている。床屋で読んだ‘美味☆んぼ’の主人公が、本物本物と言っている意味がわかったような気がした。俺は今まで本物なんて口にしたことがなかったのだ。
醸造用アルコールで度数だけ上げてあるカップ酒や、アミノ酸のうまみ調味料たっぷりのカップ蕎麦。食費まで手が回らなかった俺はそういう食い物で過ごすことが多かった。
「祭りみたいだな」
半次は真っ直ぐ歩かず、あっちに行っては娘をからかい、こっちに行っては店の者に怒鳴られている。落ち着きがない男だ。
「お春ちゃん!」
お春ちゃんの肩を叩いて振り向かせた半次は、被っていたひょっとこの面を外しても、ひょっとこ顔だ。目を寄せ口をとがらせている。
「いやだぁ、半次さん」
お春ちゃんは笑い転げた。
「ところで、聞いてなかったんですが、旦那お幾つで?」
今度は風車を吹いて回しながら言った。彼こそ年齢不詳だ。言動は小学生並み。
「19だ」
「うっそー!あたしより年下なのかい?」
すかさず反応したのはお春ちゃん。
「お春ちゃん、いき遅れだもんな。……それにしても旦那、何を食うとそんなにでかくなるんで?」
彼女をいき遅れにしている責任を、微塵も感じていないらしい。
「半次さんは?」
「26でさぁ。……旦那、どうも男にさん付けされるのはしっくりいかねぇ。半次と呼び捨ててやっておくんなせぇ」
大人に旦那と言われるのも、呼び捨てるのも、どうかと思うが口に出さない事にした。
「キャーッ!」
茶店の前にさしかかると、あちらこちらから悲鳴が聞こえた。
縁台でひとり、団子を食べていたじいさんが、大きな犬に吠えかかられていた。上等な着物を着て、上品な白い顎髭を蓄えたご隠居さんだ。杖で犬を叩こうとしている。
人々は彼を遠巻きにして見ているだけで、誰も助けようとしない。
「旦那、かかわっちゃいけやせん!!」
俺は、犬とじいさんの間に割って入ってしゃがみ込んだ。利口そうな秋田犬だ。
「何が気にいらねぇんだ?」
「ガウーッ!」
「じいさん団子をもらうぜ。……ほら、食いな」
団子を一つ外して犬の前に投げると、ぱくりと食べた。
もう一つ投げる。
最後の一つは手のひらに置く。
犬は団子を食べた後、手のひらまでなめた。腹が減っていただけだ。
団子屋の婆さんが震えながら、まだ串に刺していない団子を皿の上に盛ってきた。犬はおとなしく食べ始め、観衆の緊張は一気にほぐれた。
それにしても過剰な反応。江戸の人はそんなに犬が嫌いなのか。
「旦那〜っ!!」
喜んでひっくり返っている犬の腹を撫でていると、お春ちゃんが泣きながら寄ってきた。
「だからあんたを一人には出来ねぇんだ」
おちゃらけ者の半次は顔面蒼白だ。今なら女にもてそうだ。原宿を歩いているとスカウトされるかも知れない。
「?」
「わしが、叩き殺してやったものを」
縁台に座っていたじいさんが落ち着き払った声で言った。
「じいさん、滅多な事を言うもんじゃねえ」
周りを気にしている半次は、やはりテレビに出てくる小者の遊び人なのだ。まだ顔色が悪い。
「そうだぜ、生き物を殺すと極楽にいけねえよ、じいさん。こんなに可愛いのに」
起き上がった犬は、俺の顔をペロペロなめ回している。
「旦那、死にてぇんですかい?」
「犬になめられると死ぬのか?この犬、なんかの病原菌に感染しているのか?」
「何を言って居る」
「すいませんご隠居さん、この旦那おつむのネジが2,3本弛んでますんで。あっしは1本だけなんですが」
じいさんは、「かっかっかっかっ」と笑った。どっかで聞いた事があるような笑い声だ。「面白い奴じゃのぉ。田舎から上ってきたばかりと見える」