10 前夜
「お艶様!お艶様はいらっしゃいますか!!」
「うるさいねぇ、坊や。様付けなんてしないでおくれ、くすぐったくてしょうがない」
「堀部様から、至急伺うように申し付けられました」
「2階にお上がり」
「いいえ。こちらにて、失礼いたします」
「取って食いやしないよ。坊やのお守りには飽き飽きしているんだ。来なきゃ話にならないんだよ」
「これは!?」
「あれ以来あんたがよそよそしいのが寂しいんだってサ。こいつを見せれば、あんたが許してくれるから、来たら見せろと言われたんだ。……安さんたら、美形なら男でも女でもお構いなしなんだから。お気を付け」
「それは、違うと思います」
そう、違う。事を成就させるためには、信頼関係は少しでも深い方がいい。不信感は、拭える物ならば拭っておいた方がいいのだ。
偉そうに安兵衛と右衛門七の心理を解説している俺は、あの時より更に自由を奪われて、柱に括り付けられていた。
「生きていたのか」
「――」半分死んでます。
お艶姉さんにオモチャにされたのは、あの日と次の日だけだが、仕打ちが恐くてずっとハンストを決め込んでいるのだ。4,5日、もう1日ぐらい経っているかも知れない。体内時計はすっかり壊れ、時間の感覚が無くなっている。
「そうだ!あんたからだったら、食べるかも知れないねぇ。あたしが食べさせようとしても口を開けないんだよ。本当に強情なんだから。……惚れ薬なんて入れてないのにねぇ、ふふふ。お粥を作ってくるから、見張っていてくれるかい?」
恐すぎる。あと1日か2日の辛抱だ。絶対に食わない。
「私のせいで命を落としたものとばかり思っていた。……許せ、あと1日の辛抱だ」
あと1日。決行は今夜。
「――」
俺は身振りで猿ぐつわを外してくれるように訴えた。どうにも出来ないことかも知れないけれど、言っておきたいことがある。
「大声で騒がぬか?」
俺は何度も頷く。
「――どうしても今夜討ち入るのか?」
「堀部様は、そのようなことまであなたにうち明けているのですか?そこまで信頼されていながら、なぜそのような仕打ちを受けているのです」
「あの人からは何も聞いていない。俺も話していない。話せるものなら話したかった。あの日以来会ってねぇんだ。……あんた、内匠頭に会ったことがねぇんだろう?仕えていたのは親父なんだろう?なんの義理があって一味に加わんなきゃなんねぇんだ?」
「あなたは、私を知っているのですか?」
「矢頭右衛門七。47人の中で大石主税の次に年が若い」
「お主、何者だ!」
右衛門七は刀の柄に手を掛けた。
「切りたきゃ切れ、どうせ切られるはずだったんだ。全てを知っての上であんたに話している。俺は300年後の世から、間違ってここに来ちまったんだよ」
「信じられぬ!」
「信じたくなきゃ、好きにしろ」
「……本当に?」
「そうだ、俺たちだって、会社という藩みたいな所で働いて金をもらっている。藩主や家老みたいな奴だっているけれど、奴らに命までは賭ねぇ。藩が潰れちまったら他の藩に雇ってもらうまでだ。そういう風に考えられねぇか?」
「そういう人もいました」
「なんで一番若いお前が、もっと柔軟に考えられねぇんだ」
「私は一人前の武士として認められたかった。大石様だって最初は私の参加を認めてくださらなかった。腹を切ると、私の方が脅したのです。そろそろ行きます」
「まて、考え直せ」
「直せません。その答えはあなたが教えてくださった」
「?」
「300年後の世の、あなたのような人までが、私の名を覚えている。それが答えです」
「名前なんて残ったって、死んじまったらなんにもなんねぇじゃねえか!」
「私は、あなたのおかげで安心してお勤めに励むことが出来ます。心残りは、もう少しあなたの時代のお話を聞いていたかったことです。お艶様!」
「あいよ」
お艶が階段を上がってきた。
「堀部様からの伝言です。お艶様のおかげで良い思いが出来ました。身体と火の元に気を付けて元気でいてください――」
「嫌だねえ、あの人ったら、どっか遠くにいっちまうみたいだ」
「はい、しばらく京に上るそうです。それから、このお方、明日の朝に放してやってください。とのことです」
「よっぽど同じ所に同じ顔がいるのが鬱陶しいと見えるねぇ」
「右衛門七、行くな!」
「あなたには、今しばらく眠っていただきましょう。――あなたに会えてよかった」
と、言うと右衛門七は、俺の空きっ腹に拳をたたき込んだ。
暗転。