秘すれば花
「君はこれが欲しかったのだろう?」
そう言って小野寺が差し出したのは、英国の洋書だった。
なめし革の表紙の装丁がいいのだと、宗一郎が嬉しそうに話していたお気に入りの作家の本。
それが、今、目の前の、水仕事などしたことも無い様な、綺麗な指が握っている。
「…どうしてそれを?」
友希は、警戒心を緩めずに、小野寺の顔を見返した。
「その勝気そうな目つき堪らないね」
冗談ぽくそう言って笑う小野寺の、真意が、まだ友希には分からなかった。
「この本は、確か君の幼馴染の津田くんが好んで読んでいるのだったね」
宗一郎の名前を出され、ハッと友希は小野寺の顔を見た。
(小野寺さんは僕の気持ちを知っている)
「この本を、君に進呈しよう」
「…何が、目的ですか?」
微笑んでいた小野寺の表情に、冷たいモノが浮かんだ。
だが、それも一瞬で、いつもの穏やかな笑顔に消される。
「そうだね、君が対価が必要だと言うなら…」
小野寺が友希にスッと屈み込み、耳元に囁いた。
「今夜僕の部屋に忍んでおいで
誰にも知られずに」
小野寺の寮の部屋は個室だ。
下級候補生の何人かは、小野寺の個室へと忍んで行っていると言う噂もある。
宗一郎が、喉から手が出るほど欲しがっている洋書。
高くて自分のこずかいでは、買えないと、明るく言ってはいたが、やはり残念そうだった。
友希は、図書室で、この作家の書籍を何冊も読んでいる、宗一郎の姿を見てきた。
それを、宗一郎に手渡す事が出来たなら。
喜ぶ顔が見られるなら、どんな事でもするのに。
そう、思い詰めていた友希の心に小野寺に知られていたのだ。
友希は長いまつ毛を伏せ、下唇をきゅ、と噛んだ。
「君が嫌ならそれもいいさ」
小野寺はなめし革の洋書を片手に、肩を竦め、立ち去ろうと踵を返し、友希に背を向ける。
「今夜!…今夜、消灯後に」
痛ましい、とでも言いたげな表情で、小野寺が振り向く。
この海軍士官学校の中でも、一際、裕福で、それ故にエキピュリアンであるこの男は、人の気持ちの機微に敏感だった。
いつも、背筋を正し、宗一郎の横にいる友希の百合の花にも似た凛とした美しさと、誰にも祝福されない恋情を幼馴染である宗一郎に秘めているいじらしさが、とても好きだった。
だから、悪戯心で、情事の匂いを含ませた物の言い方をして、勝気な瞳を堪能してから、書籍を友希に手渡すつもりだったのだ。
だが、誤算だったのは、小野寺が思う以上に、友希が思い詰めていたと言う事だったのだろう。
「君はそれ程までに…」
「それを聞くのは野暮ですよ、小野寺さん」
『津田が好きか』と、問いかけた小野寺の言葉を、自嘲を含めて友希が遮った。
「言わぬが花、です」
そう言って、微笑んでみせた友希はもう、いつも通りで、凛として、しかも艶やかだった。
深く愛した者がいる人間だけが持つ、色香が爽やかな香りを放つ百合と、やはり似ている。
小野寺はそう思った。