父母との別れ
一度目にしたら、一生忘れられない光景。辺一面の雪の上に、所々に散る紅血。枯木や瓦屋根の陰には、まだ見つけてもらえない死体が横たわっていた。
だが、生き残った者も少なからずいる。
この村の外れのほうに、大層金持ちの父母と娘の親子が住んでいた。
縁側で、図体のでかい若旦那が座ってその前にネズミのようなひょろひょろ男が片膝を立て何やら話していた。
「これで、23人目。行方知らずが無数」
鼠男が嘆き聲で、死人と行方不明者の数を地面に掘っている。
この村は、前年から今年にかけて二度も海に一つ浮かぶ鬼ヶ島からやって来た鬼に、襲われている。何ゆえ、そう遠くの方からやって来るのか、それは誰人にもわかりはしなかった。
「…わかった。
残りの者はわしも探す。片っ端から探していくぞ」
それを聞き終わると、鼠男は頭を下げて走り去って行った。それを見兼ねてか、襖の奥から目麗しい娘が顔を出した。
「ととさま、今年で二度目でしょうか。
鬼がこの村へやって来たのは」
娘の名は「桃」と言った。
桃はそのまま若旦那の隣へ座った。
「ああ、あちらも生きていかなきゃならねえし、それになにより、家族がいる。
しょうがないことなのだが、やはり悲惨だ」
若旦那は桃が持ってきた湯呑みを取ると、静かにお茶をすする。
「確かに、そうですね。
鬼にも家族がいる…」
桃はお茶を少し口に入れると、しばらくぼうっと遠くを見て黙り込んでしまった。
鬼ヶ島の鬼にも家族が、守らねばならない者がいるのか。もし大切な家族が亡き者になったら、鬼も涙を流すのだろうか。
まもなくそのことで頭を覆い尽くす直前、桃の思考の対象が違うほうへ向けられた。トタットタットタッ。小刻みに弾む足音、どうやら犬のようだ。桃はすぐさま若旦那を呼んだ。
「なんだ、敵か?」
若旦那が片手で日光を遮り遠くを見つめるが
、その目には森や林しか映らない。
「いえ、犬一匹が我が家に近づいて来ます。
かなり切羽詰まった顔で、健気なこと」
桃の聴力と視力は、並大抵のものではなかった。いや、それだけじゃない。走る速さも跳ぶ高さも、力の強さも、人間の度を遥かに超えているのだった。桃の耳に入ってくる足音は次第に大きくなり、視界に入る小さな姿もはっきりとしたものになっていた。
「土佐犬(現在の四国犬)ですね、黒胡麻毛の」
さすが犬と言ったところか、土佐犬は一時間とかからない内に息も切らさず森を抜け、若旦那の目の前に腰を下ろした。
若旦那と土佐犬はそこで何も言わずにお互いを見つめた。
「桃、この犬は他に仲間は居らぬのか」
「はい、他の者の気配はしません」
ならばと、若旦那は左に一つずれて桃はそれに応じてそこに座った。
桃は満面の笑みで小さな赤い口を開いた。
「どちらさまでしょうか、何用でこちらに」
大きな犬の瞳が小さく揺らいで瞬きをした。
「吾輩の、育ての親を両方殺された。
貴方方の話を森の鴉に聞いた。
あなたが、桃さんでありますか」
森が少しざわめいて、辺が静まった。
『あいつ、桃様を鬼ヶ島に行かせる気か?』
『けしからん、そんな危ない真似…』
鴉が、桃を鬼ヶ島には行かせられないと話をしているのだ。だが、直ぐにそのざわめきが賑やかなものにかわった。
『あはは、でも桃様ならあの鬼でも頭があがらないんじゃないか?」
『ははは、確かに。あの桃様だもんなあ。
あの強い姿を見せられたら、鬼もない尻尾巻いて逃げちゃうんじゃないかぁ?」
動物の間では桃は大変人気者で愛され、慕われていた。そんな中で、若旦那の様子だけピリピリとしている。どうやら話の内容を感じ取ったらしい、それと同時にイライラと不安が積もり積もっていた。
「もしや、鬼退治を私にと言うのですか」
若旦那は、頭をがくっと下げてしまった。
ほら、見事予感が的当たりだ。若旦那は、娘がもはや自分以上に強いことを大分前から悟っていたが、それとこれとは話が別で、親なら当たり前の反応である。
「その通り。
桃さん、いや桃様。貴方ならきっと鬼を退治して下さる。
お願いだ、鬼ヶ島の鬼を退治してくれ」
土佐犬は、必死に頭を下げた。桃の瞳は動揺を見せた。鬼が怖いのではない、鬼を退治することが正しいことなのか、人間の都合だけで退治することに疑問を抱えていたのだった。でも土佐犬の行動は至って切で、それを見て頷かないわけには行かなかった。
「わかりました、私が鬼ヶ島の鬼を退治してみせましょう。
ととさま、どうか私の行動をお許しください」
桃は若旦那に向かって手をつき犬と同じように頭を下げた。若旦那は、眉を下げてしばらく考え込んだ。親としては、娘を決して行かせたくはない。だが、人としてはこの犬のためにも、村人のためにも、是非とも鬼ヶ島に行って鬼を退治して欲しかった。何より、確かに若旦那は村一強いと言われているが、自分では鬼を刺すことはできない。しかし自分より何倍も強い娘なら、鬼を退治することもできるかもしれない。若旦那は拳を力一杯握り締めた。これが、最後に親として人として娘に言ってやれる一言だ。
「桃よ、覚悟を固めるんだ。
中途半端な心では鬼には勝てまい。
人として、勇者として、お前にできる限りを尽せ」
若旦那は、桃を力強く抱き締めた。
「はい!」
桃は、父を安心させるように精一杯に心から決意を固めた。若旦那はしばらくそうしたあと、土佐犬を呼んだ。
「お前は、桃のお供をしてくれ。
娘を、頼んだ」
「はい、必ず娘さんを生きて帰します」
低く頼もしい鳴き声を聞いて、若旦那は、上を向いて目に浮かぶ涙を密かに乾かした。
「ではととさま、かかさま、
必ずや、鬼退治をしてみせます。
心配はご無用、日本一強い女になって見せます。
…ここまで、私を育ててくれてありがとうございました」
桃は深く頭を下げたあと、もう母と父の顔は見ずに鬼ヶ島に向かい一歩ずつ一歩ずつ歩み始めた。両親はまだ娘を心配そうに見つめている。
「気をつけて行くんだよ」
母親は、声を枯らせて叫んだ。泣きじゃくる妻の肩を若旦那はただ黙って抱く。桃はそんな母の泣き声に振り向きたくなったが、ただ片手を挙げて勝利の誓いを立てるだけだった。白い頬に、涙は伝う。それを応援するように、空が健闘を指差した。
「見上げてください、空が青いです」
桃に言われて土佐犬は顔を上げた。
「そうであるな」
二人はただ笑って、次の言葉を飲み込んだ。これから先の恐怖や不安は、分かり切っているのだった。穏やかな日差しに照らされて、「打倒鬼」の旗が揺れる。