コーヒーと踏切
他の参加者の方々に「謎」と言われまくった作品です。「???」となる可能性大ですので、できることなら根気よくお読みください。
「――ってな感じなんだけど、どう?」
早織さんが原稿をテーブルに置くや否や、僕は詰め寄るように問いかけた。
東京は世田谷区、山手線の某駅から私鉄で十分弱に位置するその町は、雨に濡れてやさしく冷えていた。石畳の道路に車が立ち入ることはなく、かといって歩行者も天気のせいで少ない。ぶらぶらと街歩きをするのが定番のこの町は、今日みたいな日はたいてい閑散としている。ましてここは東口側、緑道の整備されたいわば『裏側』だ。緩やかなジャズのメロディが心地いい。
「離れなさいよ」という不機嫌そうな声は、これから話されるものが好意的なものでないことを暗に示していた。
「まずどうしても言いたいことが、重い」
「しょうがないじゃん、いじめをネタにした小説なんだから」
「別にそんなことは構わないのよ。というかどうでもいい。でも」
「でも?」
少し、言いづらい何かを腹に抱え込むような表情を浮かべてからすぐにそれを打ち消して、全力の笑顔を見せながら早織さんは答える。
「最近、ちょっとこの手の小説増えてきたよね。軽さというか、余裕というか、そういうものがない感じ」
思わず僕の肩が強張った。それでも、努めて明るく返答する。
「そう? 最近勉強が大変だからね」
タブーをあからさまに避けるような、摩擦係数の低い会話。でも、腹に抱えた吐き気をまき散らすことはできない。大抵の人間は嫌いだけれど、大好きな早織さんに迷惑をかけるわけにはいかないのだ。
「そんなことよりさ、もっと詳しく感想聞かせてよ」
「そうね」
それから少し手元の原稿用紙に目を落とす。
「文章は悪くないんじゃないかしら? 二年前のネットスラング連発時代よりはよほど読めるわ」
「蒸し返さないでよ」
膨れてみせると、「あんまり可愛くない」と一蹴された。
「まあそれは冗談としても、だいぶ読みやすくなったのは事実よね。無駄な改行とか助詞が減って、すっきりしてるわ」
「ネットじゃボロクソに叩かれたんだけどね……」
「そうでしょうねぇ、まず読むスタンスが違うし、距離感も変わってくるもの。別の世界で戦ってると思ったほうがいいわ」
「やっぱりネットの評価なんか気にするべきじゃないよね!」
「そんなことはないわ。評価されてなんぼの世界よ、小説なんて」
流石に純文学で異例の大ヒットを飛ばした実力派プロ作家の言葉には含蓄があった。でもネット小説なんかやったことないだろうに、という反感も無いわけではないけれど。
「とりあえず誤字脱字には赤入れしたわ。それと、改行なんかの過不足も書き込んである。でも、口頭じゃなくちゃ伝わらないこともあるし、ちょっとこっちまで回ってもらえる?」
そういって早織さんは、隣の席に置かれた自分の荷物をこちらに受け渡してきた。受け取って、自分の体と入れ替わりに座面に乗せ、僕は早織さんの隣に座る。
「まずこの言い回しなんだけど……」
ペン先で示した部分に目を向ける。
「ここと、ここと、それからここ。似たような言い回しが三つも同じパラグラフで使われてるでしょ? 意図したものだとしてもやりすぎ。正直、読んでて野暮ったいし邪魔」
「どうやって解決しようか?」
「一つ案を出すなら、まずこの三つ目を削って、次のパラグラフの……ここ。ここにその内容を埋め込んでみる、とかね」
「じゃあ、『だから、どうしても俺はクラスメイトを好きになれなかった。』って感じかな」
「いいんじゃないかしら。シンプルだし。……いや、『俺は』はいらないかな」
「はーい」
赤ペンを受け取り、二重線で元の部分を削除してからサラサラと余白に新たなセンテンスを書き入れていく。確かに、先ほどまで拭えなかった腑に落ちない感じが消えた気がする。上手な文章を書けると、こういうところで尊敬されるのだなぁとしみじみ思った。
簡単に内容を説明するなら、『いじめられっ子が自殺した直後の教室の雰囲気』だ。掌編で、最後には僕の得意な、後味の悪いオチがつけてある。まるで人の失敗をあげつらう様な、汚い部分を暴いて笑いものにする様な、そういうオチ。どうすればすっきり完結するか、うまい掌編小説のひな形を一年以上考え抜いたのちに行き着いた今の答えがこれなのだった。
散々いじめっ子のクラスメートたちを内心でコケにしていた主人公が、バカにしていた相手に指名されると腑抜けた笑顔で迎合する。僕の嫌いな、僕自身がモデルだ。
「翼の小説って、読んでるうちは『こういうことが言いたいに違いない』って思ってたのに、冷静になると真意がつかめないところがあるわよね」と早織さんが評価したのはいつ頃だったか。「それが余計に後味の悪さを演出してるっていうのか」とも言っていた。
「――だからね、この一文は削除できるわけよ」
早織さんの講評は続く。
「んー、納得できるようなできないような」
「ここに遊びを持たせるにはこっちを削る必要があるでしょう?」
「そこまで断固として削らなくても、無いなら無いでいいでしょ、ここも?」
「空気感としてはこっちに厚みがあるほうが自然なんだけどなぁ……」
唇を尖らせて原稿と睨めっこしていた早織さんは、少しして唐突に
「――やっぱり翼、腹割って話しましょ」
パチンと音を立ててペンを置いた。
「話すって、何を?」
「あなたの学校の話に決まってるじゃない。まさか、気づいてないだなんて思ってたわけじゃないでしょう?」
「……絶対に触れる気が無いんだと思ってた」
「触れずにこれ以上話をしても無駄よ」
僕は床の上にある自分のスニーカーを見つめた。少しだけ右に傾けたのは、ほんの小さな、拒絶の意志表示。僕の横顔を睥睨と注視の中間で見つめる早織さんは、案の定、それに気づいた様子もない。でも、見透かしたようにぽつりと零した。
「誰もね、同情しようなんて思ってないの。ただ、あなたの苦しみを知りたいの。体験してない事を完璧に、正確に理解することは誰にもできないわ。でも、知識として知っておきたいのよ」
少し間を置いて。
「あなたを慰められるような知識も、私にはないのよ」
僕は少し驚いて、小さく早織さんを見上げた。瞳の中で、虚無に包まれて、か細く悲しみが煌めいていた。綺麗だけれど――違う気がした。その美しさが本物で、何よりも尊いのなら、僕には生きるだけの動機が無くなる。悲哀の煌めきは、絶望の輝きは、人を命の熱に導いてはくれない。それだったらよほど、白熱球のほうが暖を取るのに向いている。
「……大した話じゃないよ。でも、あまり人がいない方がいいな」
「わかったわ。後で私の部屋に行きましょ」
早織さんはアイスティーを、僕はアイスコーヒーをそれぞれ飲み干してから、歩いて早織さんの家があるマンションへ向かった。喫茶店からは普段なら十分とかからないけれど、雨のせいで二十分近くかかった。
「はいはい、お客さんはリビングで偉大な私の著作でも読んでなさい」
そういって早織さんが笑いながらカウンターキッチンに入っていった。
「文体を真似られるほど熟読した僕に何言ってるの」
言いつつ積み上げられたハードカバーの洋書を一冊手に取ってぱらぱらめくる。『When I was young,』まで読んで閉じた。パタリ。いかにも閉じた感じの音がした。
「あらあら、ファンの方? サインをご所望?」
「全部奥付についてるよ」
コポコポ、と音がする。どうやらコーヒーを入れているらしい。以前バリスタを購入したと自慢してきたのを思い出す。
思っていた以上の気温の低さの中冷たい物を飲んだせいで体が冷えていたが、それは早織さんも同じだったようだ。ダイニング一体型のリビングに歩いてきて、トレイをテーブルに置く。二つあるカップのうちの一方を、僕の目の前に置いた。
しばらく無言でコーヒーを啜った。熱いままがよかったので、苦くてもミルクは我慢した。三口も飲むと、その苦味が不快でなくなってくる。カチ、カチ……秒針の音だけが部屋を満たしていく。
ふと。
「……ありがちなやつだよ」
何がきっかけかは自分でもわからない。自然と口が開いたのに任せて、僕は言葉を紡ぐ。ゆっくり、ゆっくり。
「女なのに自分のことを『僕』って言ってるのが変、なんだって」
頑張ったけれど、どうしても深刻な響きを拭い去ることができなかった。自分の不器用さが嫌になる。
「そんなのはどうせこじ付けだろうけど……笑っちゃうよね。もうちょっとまともな理由を言えないのか、って」
思い詰めたような、フフッ、という笑い声が僕の口から這い出してきて、静寂に溶け消える。そんな感情は、僕が早織さんに伝えたいものとは真逆なのに。
「なんでだろうね。どこでミスったのかわかんないんだよ、思い出そうとしても」
「あなたのミスじゃないわよ」
早織さんが突然、割り込むように、口を出した。面喰って反応できない。
「翼は、何にも失敗してないわよ。……あなたの小説は人の失敗をバカにしてあげつらったりもするけど、そうやってあげつらわれる人はみんな、失敗してない人をあげつらおうと躍起になってるの」
慈しみ、も無いわけじゃないけれど、何よりも楽しそうに早織さんが微笑んだ。
「あなた、やっかみもしないし嫉妬もしないでしょ? 誰も、最初からあなたが嫌いなわけじゃないわ」
その言葉は、もしかしたら親切心から出た方便だったのかもしれないけれど、僕には確かに赦しになった。苦い、けれど暖かなコーヒーを啜る。体だけじゃない。早織さんは僕の心までも温めてくれた。心を開くと決めたから、早織さんは僕を温かいもので、心で、包んでくれた。頼ることを赦してくれた。
「……ま、事情は何となく分かったわ。これ以上は聞いてもどうしようもないし、誰かを傷つけるかもしれないことを率先してやろうという気もない。ありがとう」
「そんな、感謝なんてしないでよ。むしろ僕がしなきゃ」
「ううん。あなたからすれば本意ではなかったのだし」
柔らかく否定して、早織さんは口をカップに寄せ、それから少し離して中を覗き込んだ。
「あら、私意外とハイペースで飲んでたのね。翼は? おかわりいる?」
「んー、いいや、遠慮する。そろそろ帰るよ」
「まだ三時過ぎよ? 赤入れも完了してないし」
「ちょっと、今すぐに原稿の話に没入できるコンディションではないかなー」
「そっか」
「あ、お手洗いだけ貸してもらえるかな?」
「いいよ」
早織さんはテレビをつけた。NHKの五分のニュースが映る。僕は最後の一口を大きく呷ってから「じゃあ失礼して」と腰を持ち上げた。
『今日十時ごろ、――線――駅近くの踏切で歩行者が電車に撥ねられる事故が発生し、会社員の芦北美佐子さん二十八歳と、無職の磯口直美さん二十三歳が亡くなりました』
立ったのと同時に眉を顰めた。やはり人が死んだという話は聞きたくないものだ。
『被害者の芦北さんは、電車が近づいているのに気付かず渡っていた磯口さんを助けようと踏切に立ち入ったものと思われます。また事故当時、遮断機が上がっていたとする証言も上がっており、――県警は踏切が故障していた可能性も視野に入れ捜査を進めています』
不意に体中を悪寒が撫ぜて、僕はトイレに駆け込み、思い切り胃の中の物を吐き出した。
次にあなたは「えっ?」と言う!