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イノチミジカシ天使ハ踊ル

作者: のり

 一瞬、鼓動が止まった。

 彼だ、とシィは確信した。色素の薄い髪、まだ大人になりきっていない肩のライン。そこから覗く翳りのあるオーラ。そして――

「…見事な悪魔憑き」

 真昼の太陽の下で、シィの探し求めていた彼の肩には、おおよそ昼の世界に不釣り合いな夜が凝ったような小さな闇の塊が纏わりついていた。それは天使(今現在は仮免許中だが)であるシィとは対照的な存在だ。

「先越されてるし!」

 慌ててシィはほんの僅かだけ距離を取る。悪魔はこちらの気配に敏感だ。近づき過ぎればすぐに気付かれてしまう。

(今はまだ悪魔に気付かれるとマズイから、ちょっと離れて情報収集しよう)

 うん、とひとつ頷くと、シィは距離を保ちつつそっと気配だけを消した。

(生体通信モード、ON、と)

 照準を彼(悪魔憑き)にロックしてその画像をサーバーへ送る。その作業は特に何の操作感がある訳ではないが、強いて言えば何かを念じる作業に似ているとシィはいつも思う。

(来た来た。…ええと、オウミ・リト、十八歳。性別♂…って、そんなの見ればわかるわよ。ほんと与えられる情報、ショボっ!)

 サーバーから照会した情報が返って来る。その余りの情報量の少なさに、思わず心の中で悪態をついた。けれどそれは仕方がない。与えられる情報は皆平等で、最低限のものだけだと最初から決まっているのだから。シィもそれは承知の上の事だった。ここから先の事は、全て自分自身で調べなければならない。

(でも調べるって言っても既にターゲットには悪魔が憑いてるし。…正直やり辛いなぁ)

 気が重い。シィはため息をつく。悪魔が憑いているという事は、シィは既に出遅れているという事だ。

「でも絶対、この三界一斉交渉人試験に合格するんだから!」

 シィは決意を右手の拳に込めて、誓った。


さんかいいっせいこうしょうにんしけん【三界一斉交渉人試験】…毎年天歴の六月六日より行われる、神界、天国界、地獄界の天上三界による合同の交渉人及び輪廻魂の選抜試験。

こうしょうにん【交渉人】…天国界においては天使、地獄界においては悪魔を指す。地上において寿命のせまった人間の魂を、それぞれ天国界もしくは地獄界へと勧誘する者。交渉人は資格職であり、毎年天歴の六月六日より実施される三界一斉交渉人試験に合格しなければ、その職に就く事はできない。

  出典「界辞苑」

(おっと。脇見してる場合じゃなかった)

 シィはターゲット自動追跡モードなのをいい事に、ついつい読み耽っていた『これで合格! 三界一斉交渉人試験(改訂版)』を慌てて閉じると、顔を上げた。

 相変わらず「オウミ・リト」は悪魔を憑けたまま街を歩いている。悪魔の方も全く離れる気配はない。これはちょっとまずい、この調子だといつまで経ってもターゲットに接触できないとシィは焦りを覚え始めた。その時。

「よう、リト」

 ターゲットに男が接触した。「オウミ・リト」と同じような年恰好の若者は、彼の友人というところだろうか、二人は慣れた様子で連れだって鉄筋コンクリートの建物へと入る。

建物の入口の上部には大きな文字で施設名が掲げられていて、シィは自動翻訳機能をONにした。これで地球上のどの国の言語も理解できるのだから、実に便利なものだ。

(…スイミングクラブ?)

 シィは首を傾げた。スイミングクラブがどんな所で何をするのか知識としては知っていたが、実際に足を踏み入れるのは初めてだ。

「リト、ここ辞めたんじゃなかったっけ?」

「ん、あー。クラブは辞めた。もう受験だし、週三回通うのはさすがにしんどいし。でも受験勉強の息抜きに、ガンガン泳ぐつもり」

 スイミングクラブのロビーを歩きながら、二人は会話を始める。リトの肩に凝る悪魔は、やっぱり離れる気配は無い。

「うわ、俺も来年受験だわ! けど、リトは何となく水泳続けると思ってたけどな。泳ぐの好きだったじゃん?」

「…好きだよ、泳ぐの。でもさすがに大学受験は大事でしょ」

 そう言って「オウミ・リト」は笑うと更衣室へと入って行った。シィに覗きの趣味は無い。とりあえずふわふわと浮上した二階には、プール全体を見渡せるギャラリーがあった。

(さて。問題はいつどうやってターゲットに接触するかって事よね)

 着替えとシャワーを済ませ、ゴーグルを着けた「オウミ・リト」が悠々と広いプールで泳ぐのを眺めながら、シィは頭を悩ませる。

接触する前に悪魔に気取られるのは最悪だ。ターゲットにあらぬ事を吹き込まれたり、変な暗示を掛けられたりと、シィにとって不利な作戦に出られる可能性が高いからだ。

(理想は、悪魔が離れた隙を狙って接触する事、なんだけど)

 シィは小さく溜息をついた。

 プールがある一階のフロアは、南側が一面ガラス張りになっていて、外の日差しが水面に射し込んでいた。ゆっくりと背泳ぎで水を渡る「オウミ・リト」のゴーグルが虹色に日差しを反射して、シィの目は彼に惹きつけられる。広々としたプールには「オウミ・リト」と友人を除けばほんの数人しか利用者は居なかった。そして彼の肩にだけ、小さくて黒い闇がくっついている。けれど誰もそれを訝しく思わないのは、おおかたの人間の目にはそれが見えていないからだ。そして天使であるシィも、同じように人間からは見えない。

(悪魔、か…)

 悪魔は寿命の迫った人間の魂を、地獄界へと連れて行く交渉人だ。そして目の前の悪魔もシィと同じ受験者で、ライバルなのだ。

「あの悪魔候補に勝って、『オウミ・リト』の魂を天国界へ勧誘する」

 シィは小声で呟いた。それが天使候補であるシィに与えられたミッションなのだった。


 けれどその後もシィは上手い接触の方法を思いつけず、一日中ただ馬鹿みたいに彼と彼に憑いた悪魔の後を、ふらふらとくっついて飛んでいただけだった。すっかり夜も更け、既に「オウミ・リト」は自室のベッドの中だ。

(うーん、ますますマズイよ。こんな何の成果もないまま、また一日無駄にしたなんて)

 試験も既に二日目が終わろうとしているが、シィが成し遂げた事といえば「オウミ・リト」というターゲットを見つけた事だけだ。

(もう皆、今頃はターゲットと接触し終わってるだろうな。…ううん、もしかしたらもう仮契約済ませてたりして…!)

 考えれば考える程悪い方へと想像が膨らみ、焦りばかりを覚えて気分は落ち込んでいく。

シィは「オウミ・リト」の自室の天井裏で、膝を抱えたまま自己嫌悪に陥った。

「まあまあ、そんなに落ち込むなよ」

不意に肩を叩かれ、シィはぐすんと鼻を鳴らして「ご親切にどーも…」と顔を上げた。

「……………………え?」

 ニコニコと満面の笑みを浮かべてシィの肩を叩くのは、闇の凝った漆黒の髪と琥珀色の瞳が印象的な若い男。その見慣れない容貌と胡散臭い笑顔に、シィはぴんとくる。

「あっ『オウミ・リト』に憑いてた悪魔!」

 慌ててシィは悪魔の手から逃れて後方へ逃げた。悪魔は先程までの小さな闇の塊ではなく、本来の人型の形態を取っていた。それにしてもターゲットに接触するよりも先に、ライバルである悪魔と接触など笑えない状況だ。

「俺がオマエに気付いてないとでも思ってた? 生憎アイツは俺のターゲットでさ。オマエは他を当たれよ、フワフワ天使」

 さっきまでのにこやかな笑顔を消し去り、悪魔が凄むような顔でシィを睨む。

(ええ~っ、天使(わたし)に直接言い掛り攻撃!?)

 シィはたじろいだが、ここでびびっていてはこの受験という荒波を乗り越える事など出来ないと思い直す。ここが踏ん張りどころだ。

「た、ターゲットは誰かの所有物ではありませんっ、交渉人試験の受験者全員が平等に勧誘する事ができる、共有の…」

「交渉人試験~?」

 シィの台詞を途中でぶった切り、悪魔が胡乱な目でシィを見た。そして次の瞬間、悪魔の琥珀色の目が見開かれる。

「…オマエ、それ…」

 悪魔がシィの胸元を指差す。

「これですか? 天使の仮免許ですけど… あなただって悪魔の仮免許でしょう? 受験生は全員交渉人の仮免許の取得者だって、そんなの常識ですけど」

 からかわれているのかとシィはちょっとだけ嫌な気分になったが、悪魔はまるで鳩が豆鉄砲をくらったかのような顔をしていた。

(何なの、もう!)

 何故か黙り込んでしまった悪魔に痺れを切らし、シィはすいと悪魔から距離を取った。

「もう用が無いなら、失礼します」

 天井裏からターゲットの自室内にするりと空間転移する。今がチャンスだった。悪魔はまだ天井裏に居る。上手く「オウミ・リト」に接触できれば、一歩前進だ。シィは急いでベッドで眠るターゲットへ意識を向けた。

 ――直後、ばちっと視線がぶつかった。

(――何で?)

 部屋の照明は消えていて、室内は夜の闇に満たされている。その中で寝ているとばかり思っていた「オウミ・リト」は、何故かしっかり目を開いてシィを見ていた。

 予想外の出来事に、シィがターゲットに接近することを躊躇ったその一瞬、天井裏に居た悪魔が同じようにするりと室内へと空間転移して来ると、シィの隣に並んだ。

「なに抜け駆けしてんだよ!」

 だけどそんな脅すような低い悪魔の声も、シィの耳を通り抜けただけだった。

「天井裏が騒がしいと思ったら。白いのが増えてる。…ああ、そっちの黒いのもずっと僕にくっついてるけど。一体何か用?」

 「オウミ・リト」はシィと悪魔を見ながら、そう言った。


輪廻魂【りんねこん】…天上三界において数多く存在する魂のうち、人間界へと生まれ変わる魂の事。輪廻魂は三界一斉交渉人試験において、交渉人と共に選抜される。

選抜試験の際、輪廻魂候補は交渉人受験者との試験内容に公正を期す為、仮の肉体と記憶を与えられ、七日間人間界にて生活する。

             出典「界辞苑」

「オマエこの期に及んで参考書はねーだろ」

 琥珀色の瞳をした悪魔のレンが『これで合格! 三界一斉交渉人試験(改訂版)』をシィの手から奪うと「うわ何これ。こんな親切な参考書って天国暇なのか?」と囃し立てる。

「あ、返して!」

 慌ててシィが取り返そうと手を伸ばすのを、レンは軽々とかわして笑う。

「あはは、天使でも参考書とか買うんだ?」

 リトも笑う。楽しげなレンとリトを尻目に、シィは「これでいいのか」と密かに思う。事もあろうかリトは、突然天井裏から現れた二人の交渉人に驚く事も無く、自分の前に並ばせると自己紹介を命じたのだった。最初は気付かれていた事に動揺していたレンだったが、すぐに開き直った様子で

『俺はレン、悪魔だ。姿が視えてるなら話は早いな。俺はオマエを地獄へ勧誘しに来た』

と正々堂々と宣言してしまったものだから、シィも身分と名前を明かさなければならなくなってしまったのだ。そして渋々ながらレンに倣ったシィの後に、何故かリトも自己紹介を始めてしまい、今現在の馴れ合いタイムの幕開けとなったのだった。

(何でこんな事になってるの…)

 本来ならば交渉人は、それぞれが個別にターゲットの無意識下の自我に交渉を持ち掛けたり勧誘したりするものだ。勿論、交渉人の間での密かな取引は存在するが、こんな風に天使と悪魔の両交渉人が、ターゲットの目の前で仲良く世間話など前代未聞だ。

 いや、そもそも人間には交渉人の姿は見えないはずなのだ。勧誘の為にわざと姿を見せる「接触モード」にならない限り、人間に姿を見られる事はまずないと、どの本にも書かれていたし、試験官も言っていたではないか。

「…なのに何で見えるの。何で『まずない』はずの数少ない例外に当たるの…」

 シィは膝を抱えて丸くなった。参考書などもうどうでもよかった。こんな危機的現状に対処する方法など、どこにも載っていない。

「参考書なんかに頼って四角四面にやってたって、余計に悩むだけだぜ。もっとこう物事を柔らかく考えろよ、仮免天使」

 ムカ。何で仮免悪魔に仮免を馬鹿にされないといけないのか。

「え、なになに天使とか悪魔ってなるのに免許要るの? え、資格職? しかも国家資格! 見掛けによらず二人共デキる人?」

 リトが楽しげにシィとレンを見比べる。

「…見掛けによらずとか言うな、腹立つ」

「あはは、ごめんごめん」

(何この妙にフレンドリーな会話。何この上滑りな雰囲気!)

 こんなのは本来の交渉人試験じゃない、そうシィが考えた時だった。

「で、二人に質問。…僕は一体いつ死ぬの」

 リトが何の前触れもなく笑顔で訊いた。


 この世のあらゆる生物には寿命がある。その生涯に長短の差はあれど、久しく死を免れる事はかなわない。

「あのさ、そういう哲学じみた言葉が聞きたいんじゃなくて。僕が知りたいのは、僕がいつ死ぬかって事」

 リトの質問には、さすがにレンも神妙な顔になった。必死になって記憶の中のありとあらゆる生死観を引っ張り出して取り繕っていたシィも、答える術を失い沈黙する。

 勿論仮免とはいえ交渉人であるからには、シィもレンもリトの寿命が尽きる日も死因だって知っている。それらは情報を照会すれば氏名、年齢、性別に次いで記載されている必須事項だからだ。

(でもちょっと待ってよ。これって交渉人試験なんだよね? だからリトだって輪廻魂候補者に過ぎないんだよね?)

はっきり言ってしまえば「オウミ・リト」という人間は、本来この地上には存在しない人間であり、選抜試験の為に七日間だけの肉体と記憶を与えられた偽物でしかないという事だ。ならばその偽物の寿命に対し、妙にセンシティブになる必要はないのではないか。

(しかも輪廻魂の合格条件は、私達交渉人候補の勧誘を最後まで退け続ける事)

 試験内容の性質上、輪廻魂にその記憶があっては意味がない。その為に記憶操作が行われ、死を目前にしたリアルな人間として交渉人の勧誘を退けられるかを試される。そういう強靭な精神で生にしがみつく気概のある魂だけが、輪廻を叶えられるのだ。

「悪い、それ一応極秘事項。当人に教えられる情報じゃねーし」

 内心焦りに焦りまくっているシィとは違い、レンが慌てずにごく軽い調子で、それでも情報の開示を拒絶する。こんな時だというのに、シィは自分の余りの不甲斐なさを思い知って落ち込む。ライバルであるレンが落ち着いて適切な対処をしている事に嫉妬すら覚えた。

「えー? 天使と悪魔が目の前に現れて、僕を天国か地獄かに連れてこうっていうんだからさ、もうこれ死ぬの確実じゃん。なのに極秘事項とか言う?」

 リトの的を得た言葉に、とうとうレンも頭を抱え込んだのだった。


(ああもう、やりにくいなあ!)

 がしがしと頭を掻きむしりつつ、シィはくるくるとその辺りを転げまわる。明日の朝も学校だから、と夜中の二時を過ぎたところでようやくリトが眠りに就いた後、「ちょっと作戦を考え直す」そう言ってレンも窓の外へと消えたのが数時間前の事。シィは悶々と天井裏で答えの出ない問いに頭を悩ませていた。

(だいたいこうなる事が分かってるから、交渉や勧誘は無意識下の自我に働き掛けるんであって、意識下の自我に直接接触したらあなたは死にますって言ってるのも同じだよ!)

 考えると重い溜息が漏れる。よりにもよってリトに天使や悪魔が視えるなど最悪だった。

(これ、試験なんだよね? 試験なのにわざわざこんなイレギュラー持ってくる?)

 はあ…。シィの唇から再び溜息が漏れた。

「――あと五日」

 それがリトに残された時間。それは同時にシィに残された時間でもあった。五日後にリトは寿命を終える。それまでにシィは彼の魂を天国界へと勧誘しなければならない。

「…試験ってもっとこうスマートに接触して、天国はこんなにいい所ですよーってにこやかに勧誘して、悪魔とそれとなく駆け引きしつつサクサクっとこなすもんだと思ってたよ」

 ついつい愚痴が口をつく。

「…なのにこんな悩んだり…つまづいたり…正直しんどい……」

「おいおいもう泣き事か? 何なら試験なんてほっぽってリタイアしたら?」

 はっとして振り返った先に、いつの間にかレンが居た。腕を組んだまま、真っ直ぐで揺らぎの無い琥珀の瞳でシィを見つめている。

「…リタイアなんて絶対しないよ!」

 カッとして思わず言い返してみたけれど、

「そんな半端な覚悟でこの先の行く末を決められるなんて、アイツも気の毒だな」

見透かされたようなレンの言葉に、シィは返す言葉を失う。

「…半端じゃ、ないもん…」

 何も言い返さないのは、レンの言葉が事実だと認めてしまう事だ。だからシィは精一杯の虚勢でそう口にした。

「なら愚痴ってねーで行動で証明しろよ」

「するよっ、行動で証明すればいいんでしょ! 悪魔のくせに余計なお世話!」

 レンの言葉に腹が立って、気付けばシィは怒鳴り返していた。そして不思議な事に怒鳴った事でさっきまでの沈んだ気持ちが、少しだけ前向きになったような気がした。

「ま、せいぜい頑張ってくれよ。俺だってライバルが腰抜けじゃやる気出ねーし。それに何はともあれ、リトにとっちゃ交渉人試験なんて関係ない。魂のこれからを決める大事な分岐点って事には変わりないんだしさ」

 すごく大事な事を言われた気がして、シィは思わずマジマジとレンを見る。

「な、何だよ、急に見んなよ」

 突然見つめられて、レンは居心地悪そうにそっぽを向く。

(…レンて意外と、いい奴…なのかな)

「ガン見とか、マジ気持ち悪ぃ」

 呟くレンに、心の中で少しでもいい奴だと思った事をシィは断固撤回したのだった。


 次の日、寝不足の目を擦りながら登校するリトを、シィは距離を取りつつ追っていた。

 あれからシィは、この規格外の交渉人試験を、どうすれば乗り切れるのかを考えていた。

勿論シィにとって最良なのは交渉人試験に合格する事だが、それはレンだってリトだって同じだ。これは選抜試験であって、各々が違う最良を目指しているのだ。三人三様の最良を全員が得る事は不可能なのだ。

(だったら、もっと他のやり方を見つけるべきなんじゃないかな)

そうシィは思ったのだ。それが具体的にどんな事なのか、今のシィにはまだわからなかったけれど、でもただやみくもに焦ったり戸惑ったりするのではなく、新しい可能性に向き合う事はシィの気持ちを前向きにさせた。

「よう、早速行動開始か?」

 レンがふわふわと漂いながら、シィの隣に並ぶ。憎たらしい程余裕な態度だ。

「…ねえ、レンって余裕ぶってるけど、試験受けるの何度目? 初めてじゃないよね」

「………えーと。…強いて言えば二回目?」

 何だか妙な間の後、レンが言った。

「嘘、たった二回目でそんな余裕!?よっぽど鈍感なのか自信過剰かだよね、それ」

 呆れるシィに、レンはピクリと頬を引きつらせたが何も言い返しては来なかった。だからシィもそれ以上何を言うでもなく、ただ二人で距離を取りつつリトの後を着いて飛んだ。

(今日は、リトの事をもっとよく知ろう)

 考えてみれば、シィはまだリトの事をサーバーから送られてくる情報以上の事はほとんど知らないのだ。ターゲットの事をよく知る事も、大切なプロセスだと参考書にもあった。確かにそうだとシィは思う。ただし、それは参考書に書かれているから大切なのではなく、自分達三人のこの先の選択にとって必要不可欠だから大事なのだと気付く。

「…人間は面白いよな。俺達と似ているようで違う。何かこう色んな奴がいて、それぞれが何かに一生懸命で。見てて飽きねーよ」

 駅に向かって流れていく人の群れを眺めながら、レンの琥珀の瞳が柔らかく緩む。きっと彼は人間が好きなんだろうとシィは思う。そしてシィにもほんの少し、そんなレンの気持ちがわかった。人間は自分達にはない輝きを持っている。シィもその輝きに惹かれているのだ。だから天使を目指すのかもしれない。

「ま、お互い頑張ろうぜ」

 いつもよりちょっとだけ優しい声音でレンが言った。


 この三日間でシィがリトについて知った事はたくさんあったが、その中でも特に彼を語る上で重要な情報として、リトにとって「泳ぐ」という事が特別だ、というものがあった。

「ねえ、リトって本当に泳ぐの好きだよね」

「ここ数日は、受験勉強より熱心だぜ」

 この三日間、リトの部屋の屋根裏でシィとレンは深夜の意見交換会なるものを開いていた。どちらが言い出した訳でもないが、シィもレンも自分の得た情報をお互いに出し合い、それについて意見を言い合うのだ。

「水泳の雑誌とかもよく見てるし、テレビのスポーツニュースだってチェックしてるし」

 折しも地上では、世界的に大きな水泳の大会が開催されており、その話題は尽きない。

けれどそうしたお祭り騒ぎが盛り上がれば盛り上がる程に、シィもレンも、心の奥底の暗い影が少しづつ大きくなるのを感じていた。

「――リトのオーラ、随分暗くなったよね」

「あと二日だしな。病気も大分進行してる」

 シィの言葉にレンも溜息をこぼし頷く。人間の持つオーラは、その人間の持つ魂の性質を表すだけでなく、寿命をも読み取る事ができる。死期が近づけば輝きを失うし、影の現れ具合でおおまかな死因までも分かるのだ。

そしてリトのオーラの翳りは、病死の特徴を顕著に表していた。

「実は私、昨日リトが眠っている間に、こっそり勧誘してみたんだ」

「知ってる。…ついでに言うと、俺も何度か試してたりする」

 レンのその言葉は意外だったが、少し考えるとそれはごく当然の事だと思えた。

「リトってば全然聞く耳持たずでへこんだ」

「安心しろ。俺の方もびしっと断られてる」

 レンが苦笑いする。どうやらリトはなかなか手ごわい輪廻魂候補のようだった。

「リト、このまま輪廻魂になるのかな」

「いや、あいつは……」

 レンが何故か口ごもった時、不意に足下のリトの部屋から声がした。

「…二日後なんだ」

 一瞬シィとレンははっとして顔を見合わせる。いつもならリトは寝ている時間だ。まさか話を聞かれていたとは思いも寄らなかった。

 レンが慌ててリトの部屋へ空間転移するのを待たず、シィもそれに続いた。照明の消された暗い部屋の中で、リトはベッドに上半身を起こす格好で二人を見ていた。

「リト…! これは、その…っ」

 うまい言い訳が見つからない。

「違うの、リト。そうじゃなくて…」

「――もうよせ、シィ」

 必死に言い繕おうとするシィを、レンが遮る。シィは信じられない思いでレンを見た。

「ここまできたら、リトにも真実を聞く権利があるだろ」

 夜の闇の中で、レンの琥珀色の瞳が悲しげにシィを見る。思わず反論しようとするが、いざ口を開いてもちっともそれらしい言葉は思い浮かばなかった。長い長い逡巡の末、シィは心を決めてリトに頷いた。

「…そっか。あと二日…。少なくとも明後日までは生きられるんだ」

 リトがちょっと寂しそうに笑う。シィの胸の奥がきゅっと痛んだ。どうしてそんな風に笑う事が出来るんだろう?

「リト、怖くないの?」

「…怖いよ。生まれて初めて死ぬんだから」

 レンが背後で小さく吹き出す。こんな時でさえリトはリトなのだ。笑い事じゃなくて、とリトは少しだけ困ったような顔になる。

「だけど残り時間を知った事で、僕はその時間を精一杯生きられると思うんだ」

「――例えば?」

「うん、思いっきり泳ぐ」

 リトが輝くような笑顔でシィを見た。思わずシィがレンを振り返ると、レンもやれやれといった表情でリトを見ていた。

「どんだけ泳ぐの好きだ、オマエ」

「これでも受験生だし控えてたんだ。最後くらい好きなだけ泳ぎたいじゃん?」

 そう言うと、リトとレンは顔を見合わせたまま笑い合う。

「…他には?」

 そんな二人の笑顔が胸に痛くて、シィは口早にリトを促す。

「――後は…家族に言葉を残せる」

 その言葉にシィは胸が詰まってしまった。

「多分家族は僕が死んだら、泣くと思う。一人っ子だしね。だから父さんと母さんには、何か言葉を伝えたいって思う」

 何となく照れたようにリトが天井を見上げた。そんなリトの事を、交渉人試験のターゲットではなく、死を間近に控えた一人の人間としてしか見れなくなっている自分に、今更ながらシィは気付いたのだった。


 雲一つない真っ青な空に向け、真っ直ぐに伸びた煙突から一筋白い煙が立ち昇っていく。それをしばらく見送ってから、レンが言った。

「これで本当に、お前の試験も終わりだな」

「そうだね。やっと本当におしまい」

 少し赤い目をして、シィはレンに笑顔を向ける。今日はリトの葬儀の日だった。

二日前の夕方、増水した川に流された子供を助ける為に自らも川に入ったリトは、子供を岸に上げた直後、川に流されて溺れた。

元々泳ぎに自信があったはずのリトだったが、彼の命を奪ったのは本人すら自覚していなかった心臓の疾患によるものだった。

「ほんとアイツは最後の最後まで泳ぐ事を選びやがって。リトらしいよな」

 レンが天へと昇っていく煙を見上げて笑う。シィもつられるように見上げると、そこにリトの笑顔が見えた気がした。

「でも泳いでるリトが一番生き生きしてた」

 しばし二人でリトの思い出に浸った。

「でも結局、リトってばどっちも選ばなかったよね、天国界も地獄界も」

「まあ俺達の姿が見える位だから、普通の選択をするようなタマじゃなかったのかもな」

 レンが呆れたように笑う。

「…で、オマエはどうすんの、これから」

 尋ねられてシィは足元に広がる地上を見る。黒い喪服を着た人間達が小さく見えた。その中にはリトの両親もいる。

「うん、来年もう一度試験を受けるつもり」

 笑顔でシィは顔を上げた。

「そう言うと思った。先輩として待っててやるから、さっさと追い付いて来いよ」

 レンが笑顔で右手を差し出した。シィは思わず二日前の出来事を思い出して笑う。てっきり同じ受験者だと思っていたレンが、実は本当の交渉人であったと知ったのは、リトが死後の選択を終えた後の事だった。

 シィは最初からとんでもない間違いをしていた。リトは輪廻魂候補ではなく、正真正銘寿命を終えようとする一人の人間だったのだ。

 その事実を試験終了後に試験官から告げられたシィは、最後まで自分達の勧誘に応じなかったリトの事を心配した。輪廻魂候補ではない魂が、天国地獄の両界行きを望まないという事は、魂の消滅を意味していた。

けれど試験執行委員は、シィの試験内容について如何なる温情も猶予しない代わりに、リトの魂については温情を与えると約束してくれた。リトはそれを喜んでくれるだろうか。

差し出されたレンの右手を握り返しながら、シィはリトの最後の選択の瞬間を思い返す。

『本当はまだ死にたくなんかないんだ』そう言ったリト。『だから天国も地獄も選ばない。僕はずっと泳いでいたいんだ』

 足下に小さく見える地上で、黒い服を着た子供が、同じく喪服を着たお腹の大きな母親に抱かれている。母親のお腹の中で、胎児は泳いでいるのだという。シィは顔を上げた。

「…じゃあまたね、リト」


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― 新着の感想 ―
[良い点] 読ませていただきました! とても面白かったです。(ちらっと覗くつもりが最後まで読んでましたよ~^^) シィも可愛く、レンも私好みでした。 設定もとても面白く、綺麗にまとまっていたと思いま…
[良い点] キャラの設定はバランスがよいと思います。コミカルなかけあいが上手いと思いました。 [気になる点] 輪廻魂、試験が設定がわかりにくかったです。リトの死に対する考えもあっさりしている感じがしま…
[良い点] 参考書を読んだりと、変な人間臭さを持つシィが可愛らしい作品でした。天国は案外俗っぽいものだなと楽しく読むことが出来ました。性別の描写はないですが、頑張る女の子の空回り冒険譚という印象です。…
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