きみのこえ
この町に引越してきたのは、おじいさんがいる本屋さんがあるから。
あとは別になんでもよかったから、簡単なアパートに越してきた。
306号室は角部屋で、他より窓が一つ多いらしいけれど、多分使わない。
デスクトップと本棚があればいいんじゃないかな。なんて言うと編集の杉山が色々用意してくれた。
若い作家さんに御奉仕しにゃならんらしいからな、と言って。
ソファに座って真っ白な天井を見上げた。
若い作家は杉山に追い込まれて頭パンパンですよ。杉山さん。締め切り伸ばしてくれたっていいじゃない。
ひとつ瞬くと、脳裏に先日聞こえた歌が過った。
305号室、お隣さんは親子二人暮らしなんだそうだ。愛沢さん。挨拶に行ったときは若いお母さんが優しくよろしくねと言ってくれた。
お子さんはその時学校だったみたいで、今もまだ顔を合わせたことはなかった。
だけど、せっかくだからとあの窓を開けた時、歌が聞こえた。愛沢さんの家からだとはすぐにわかったけれど疑問に思った。誰?お母さんはこんなに可愛らしい声じゃなかった。
お子さんはてっきり小学生の男の子だと思い込んでいた。
存外違うらしい。
女の子なんだ。別にそんなのはどうでも良かったんだけど、知ってる歌だったし、綺麗な声だったからいつのまにか聞き入っていた。
それを思い出して、窓を開けてみる。
杉山にばれませんようにと願いながら。