『 王太子は影を選んだ』――姉の光と妹の影
夜明け前のアルディオン侯爵家は、屋敷の外から見れば静かなものだった。石造りの外壁はまだ薄青い闇をまとい、庭木の梢には昨夜の湿り気が残っている。東の空が白み始める前、灯りがともっている窓は多くない。その少ない窓のひとつが、いつも決まって北棟の端にあった。
そこがリシェル・アルディオンの部屋であり、執務室だった。
寝台はあっても飾り気はなく、壁紙も上等ではあるが淡く落ち着いた色で、若い令嬢の私室らしい柔らかさとは縁遠い。代わりに場所を占めているのは、書架と帳簿棚、鍵のついた文箱、領地図を広げるための卓、大小の印章、乾きかけのインク壺だった。窓際には昨夜のうちにまとめた報告書の束が積まれ、その横に今日中に確認しなければならない支出一覧が控えている。
リシェルはまだ朝の鐘も鳴らないうちから机に向かっていた。薄い灰色の、胸元にゆとりのあるドレスを着ている。貴族令嬢の普段着としては随分と地味だが、袖を引っかけず、前にかがんで書き物をしやすい形だった。何度も洗われた布は柔らかくなっていて、袖口には落ちきらなかった黒い染みが薄く残っている。最初は気になった。けれど、誰も見ないのなら構わないと思うようになったのは、いつからだったか。
彼女は目の前の帳簿に視線を落とした。アルディオン侯爵領南部の麦倉庫。先月の搬入量と今月の搬出量。帳尻は合っている。けれど、その下に控えた町役人の報告では、北の市場に出した麦の値が予定より少し良い。ならば次の出荷は一部を南街道ではなく北街道に回した方が良い。運賃は上がるが、差し引いても利益は出る。
計算し、欄外に短く記す。北街道経由、三割。倉庫長へ通達。価格推移次第で来月さらに増。
それから別の束を開く。徴税時期の調整に関する嘆願。去年までは一律だった納期を、収穫の時期に合わせて半月ずらしただけで滞納率は明確に下がった。父は最初、そんな細かいことを変えて何になると笑ったが、結果が出るともう何も言わなかった。むしろその後は、変更が必要な項目があれば彼女の机に積まれるようになった。
半月後に回すべき村名を書き込みながら、リシェルは小さく息を吐いた。窓の外が少しだけ明るくなっている。今日も長くなる。
扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様、朝食をお持ちしました」
老女の声に、リシェルは顔を上げた。乳母上がりの女中が一人だけ、彼女の世話をしてくれている。専属の侍女というほどではないが、それでもこの屋敷で彼女を気にかけてくれる数少ない人間だった。
「ありがとう、マーナ。そこに置いて」
盆に載っていたのは薄いスープと固いパン、少しの果物だった。侯爵家の次女の食事としては質素だが、執務をしながら口にするにはちょうど良い。マーナは帳簿の山を見て眉をひそめる。
「また夜明け前からですか」
「昨日のうちに終わらなかっただけよ」
「昨日のうちに終わらなかったものを、今日の朝までに終わらせなければいけないのがおかしいんです」
こういうことを言うのはマーナくらいだった。リシェルは苦く笑う。
「お父様がお忙しいのは本当だもの」
「旦那様がお忙しいのと、お嬢様が酷使されるのは別の話です」
いつも通りの返しに、少しだけ肩の力が抜ける。だがそれも束の間、別の扉が勢いよく開いた。
「リシェル、起きてる?」
エリシアだった。姉は朝からもう薄紅のネグリジェの上に羽織をかけ、髪を半分だけ結い上げている。寝起きのはずなのに頬色は良く、乱れたはずの髪さえ何故か華やかに見える。こういうところが不思議だと、リシェルは昔から思っていた。
「起きてるわ」
「良かった。今日の午後、お母様と仕立て屋が来るの。新しい舞踏会用ドレスの仮縫い。色見本が何枚か届いてるから見てくれる?」
エリシアは軽やかに言いながら机の上を覗き込んだ。税表、倉庫一覧、交易契約書。ほんの一瞬目を走らせただけで興味を失う。
「今じゃなくてもいい?」
リシェルが問うと、エリシアは少し唇を尖らせた。
「だめ。お母様が午前のうちに決めるって。わたくし、薄い藤色と深い青で迷っているの。リシェルの方が色を見る目はあるでしょう?」
姉はよくこう言う。あなたの方が目がいい、あなたの方が字が綺麗、あなたの方が整理が上手。だがそれは褒めているのではなく、だからやって、という意味だと知ったのは随分前だ。
「……朝食のあとで見るわ」
「助かるわ。あ、あと慈善会の名簿も出来てる? 今日中に確認したいの」
「机の右端にまとめてある」
「やっぱり頼りになるのは貴女ね」
そう言って笑うエリシアの声に悪意はない。ないからこそ、リシェルは何も言えない。姉は本当に、彼女に任せればうまくいくと思っているだけなのだ。役割が違うのだと、そう信じている。
エリシアが去ると、部屋はまた静かになった。マーナがわずかに首を振る。
「頼りになるのなら、少しは楽をさせればいいのに」
「お姉様は社交が仕事だもの」
「お嬢様の仕事は、誰が決めたんですか」
リシェルは答えなかった。問いが鋭すぎて、答えが見つからなかったからだ。
朝の鐘が鳴る頃には、彼女は三つの帳簿と二本の書簡を終えていた。食堂へ顔を出す時間は過ぎていたので、もう誰も彼女を待ってはいない。代わりにグレイヴ侯爵付きの執事が、昼前までに確認が必要な書類を持ってきた。領地東部の橋梁補修費について。先代からの付き合いがある石工組合との価格調整。ついでのように父の言葉を伝える。
「旦那様より。昼には王都の客があるので、収支の要点を一枚にまとめておけとのことです」
「王都の客?」
「詳しくは伺っておりません」
執事は本当に知らないのか、知っていて口を閉ざしているのか分からない。だがどちらでも同じだった。リシェルは頷き、書類を受け取る。昼までに一枚。出来る。いつも通りだ。
午前の後半はそれに消えた。領地全体の税収推移、主要産物の昨年比、北街道交易の伸び、南部の補修費負担、滞納率の改善。読み手が数字に明るくなくても把握できるよう、線を引き、語を削り、順番を入れ替える。父はこういう整理された紙を好んだ。中身の細部より、すぐ使える形にまとめてあることを好むのだ。
正午近くになって、ようやく息をつく。そこへ侯爵夫人付きの女官が現れた。
「リシェル様。奥様がお呼びです。仮縫いの件で」
忘れていたわけではなかったが、頭の隅に押しやっていた。机の端に置いた色見本を持って母の居間へ向かう。廊下を歩く途中、窓ガラスに映った自分の姿が目に入った。淡灰のドレスは胸元が緩く、腰もほとんど絞っていない。袖口には薄い黒ずみ。髪は後ろで簡単に束ねただけ。頬色も良いとは言えない。
エリシアの隣に立つと自分がどれほど地味か、分かりすぎるほど分かった。
母の居間には香油の甘い香りが満ちていた。マルセリア侯爵夫人は鏡の前に座り、仕立て屋と二人の女官に囲まれている。エリシアはすでに新しい生地を肩に当てて立っていた。光沢のある淡い布が、彼女の白い首筋によく似合う。
「遅かったわね」
母は鏡越しにそう言った。責めるというほどでもない。単に、来るのが当然だと思っていた人間が少し遅れただけ、という調子だった。
「申し訳ありません。収支の要点をまとめていて」
「そう。なら手短に済ませましょう。エリシアにはどちらが似合うと思う?」
差し出されたのは藤色と深青。リシェルは一目で答えた。
「藤色です。青はお姉様の目の色より強すぎて、顔が沈みます」
仕立て屋が感心したように頷いた。母も不満はなさそうに言う。
「では藤色ね。刺繍は銀。胸元はもう少し開けてもいいかしら」
「お母様」
エリシアが少し笑う。母も笑う。女官たちも上品に笑った。部屋の空気は柔らかい。リシェルだけがその外にいた。
「貴女の方は?」
母はふと思い出したように言った。
「春の祈祷式の時のものがまだ着られるでしょう」
去年の春のドレスが、という意味だ。新しく作る必要はない。社交の場にほとんど出ない次女に、今期の新調は不要。そういう判断だった。責める意図さえない、予算配分の話だった。
「はい」
それで終わった。
居間を出た時、廊下の先から父の声が聞こえた。応接の方だ。いつもより低く、張りつめている。来客はただの商人や役人ではないらしい。リシェルは少しだけ足を止めたが、すぐに引き返した。自分が呼ばれることはない。どうせ昼の要点紙を受け取るだけで、父はそれを自分の言葉で話すのだ。
執務室に戻ると、窓の外はすっかり昼だった。リシェルは息を整え、橋梁補修費の調整案に手をつける。石工組合は先代からの付き合いがあるが、それで値を飲んでいては毎年足元を見られる。代わりに保管倉庫の優先使用権を与え、補修費を二割抑える案が使えるだろう。書き込みながら、ふと、屋敷全体の空気がいつもより静かなことに気づいた。
使用人たちの足音が抑えられている。廊下を行き交う気配が慎重だ。誰か大きな客が来ている時の空気だった。
扉が開き、マーナが顔を出した。
「お嬢様」
「どうしたの」
「王都からの客というのが、どうも……王家の方らしいんです」
羽ペンを持つ指が止まった。
「王家?」
「はっきりとは聞こえませんでしたが、門前の警備の様子が違います。近衛の紋章が見えたと」
王家。胸の奥がゆっくりと冷える。王都の噂くらいは、リシェルの耳にも入る。最近、王太子が婚約候補を探して高位貴族の家を順に訪れていること。公爵家、侯爵家、伯爵家。どの家も落ち着かず、社交界はその話で持ちきりだということ。そして王太子アルヴェリオン・ヴァルセインが、冷酷で、横暴で、笑わない人物だということ。
もっとも、その噂は自分とは遠い場所の話だと思っていた。エリシアならまだしも、リシェルが関わるはずがない。
「お姉様にとっては大変ね」
そう言った声は、自分でも不思議なくらい平坦だった。
マーナは何か言いたげだったが、結局黙った。彼女でも、ここで慰めめいた言葉を口にするのは違うと分かっているのだろう。エリシアは美しく、社交もこなし、母の期待を一身に受けている。王宮に出るなら姉だ。リシェルはアルディオン領に残り、婿を迎え、父の後を継いで働く。昔から、そういう話だった。
それが嫌だと声に出したことは一度もない。嫌だと思っていいのかも分からなかった。働くことは苦ではない。数字は嘘をつかないし、帳簿は感情を求めない。人の顔色よりよほど分かりやすい。だが、自分の一生がそのまま机の上に固定されているのだとしたら、時々息が詰まりそうになる。
午後に入り、応接の方はますます静かになった。重い靴音、低く抑えた男性たちの声、そして長い沈黙。リシェルは仕事に戻ろうとしたが、妙に手元が落ち着かない。結局、北街道交易の契約書を三行読み返したところで、執事が慌てた様子でやってきた。
「お嬢様」
「何ですか」
「至急、おいでいただきたい」
「どこへ?」
「……応接ではなく」
執事は一瞬ためらい、それから続けた。
「こちらへ、殿下がおいでです」
意味が分からなかった。
「こちら?」
「はい」
こちらとは、この執務室のことだ。
立ち上がるより先に、廊下から足音が近づいた。複数。だが急かすような音ではない。静かで、揃っていて、無駄がない。執事の顔色が変わり、マーナが思わず一歩下がる。リシェルは反射的に袖を見た。黒ずみ。髪。朝から結び直していない。机の上には帳簿と開きっぱなしの契約書。
扉が開いた。
最初に目に入ったのは、深い色の衣装の裾だった。次に、装飾の少ない剣帯。最後に顔を上げた時、アルヴェリオン・ヴァルセイン王太子がそこに立っていた。
噂通り、冷たい顔だった。整っているのに温度がなく、目の色は淡く、笑いの気配がない。彼の後ろには側近らしい若い男が一人、そして父が青ざめたような顔で続いている。
リシェルは慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ございません」
何に対して謝っているのか、自分でも分からなかった。ただまず謝らなければならない気がした。執務中の格好で王太子を迎えたことか、応接にいなかったことか、袖が汚れていることか。全部かもしれない。
頭上から落ちてきた声は低く、思ったよりも静かだった。
「執務中だったか」
問いの形をしているのに、それ自体が責めには聞こえなかった。リシェルは顔を上げきれないまま答える。
「……はい」
「何をしていた」
「北街道交易の契約見直しと、橋梁補修費の調整を」
父が横から口を挟みかけた気配がしたが、王太子は視線も向けなかった。ただ机へ歩み寄る。彼は開かれた帳簿を見下ろし、指先でページをめくった。動作は雑ではない。だがためらいもない。誰かの私物に遠慮する手つきではなく、見なければならないものを確認する手つきだった。
「アルディオン領の昨年の滞納率は下がっている」
前触れなくそう言われて、リシェルは思わず顔を上げた。数字。しかも領地全体の。
「はい」
「理由は」
「徴税時期を収穫後にずらしました。春先の一律納付だと、金を作るために穀物を安く売る家が増えて滞納と合わせて損失が大きかったので」
「半月」
「……はい」
王太子の目が、ほんのわずかに細くなったように見えた。
「北街道の羊毛交易も伸びている。南街道からの比率を変えたな」
何故そこまで知っているのだろう、と一瞬思った。だが王太子なのだ。王国全体の主要領地の数字を頭に入れていてもおかしくはない。むしろ、おかしくないからこそ怖い。
「はい。去年の冬から北の商隊に保管料と引き換えに優先権を出しています」
「誰の判断だ」
父が今度こそ口を開いた。
「殿下、娘が整理しているだけで――」
「誰の判断だ」
同じ声音だった。なのに父は言葉を切られたように黙る。リシェルは、答えて良いのか分からず、しかし問われた以上は嘘もつけずに小さく言った。
「……私です」
「そうか」
それだけだった。
王太子はページを閉じ、別の書類へ目を移す。橋梁補修費の下書き。倉庫配置図。支出一覧。彼は一枚ごとに要点だけを拾っていくように視線を滑らせた。側近は一言も発しない。ただその横顔を見ている。
「この筆跡は」
「私です」
「慈善会の名簿も」
「はい」
「今年の春、南部村落の備蓄規則を変えたのも」
「私です」
言うたびに、胸の内側が奇妙に冷たくなる。自分の仕事を人前で認めることに慣れていない。しかも相手が王太子だ。父は横で顔色を失い、執事は息を殺している。マーナは扉の脇で拳を握っていた。
王太子はしばらく黙っていた。やがて書類から目を上げ、初めて真正面からリシェルを見た。
乱れた髪。ゆるい胸元のドレス。黒ずんだ袖。インクで少し荒れた指先。自分でも見たくない格好を、彼は一切の感想なく見ている。ただ、見落としなく見ている。
「続けろ」
「……え」
「中断させたのは私だ」
それだけ告げると、彼は父へ向き直った。
「要点紙は受け取った。応接に戻る」
そうして本当に去っていった。嵐のようではなかった。むしろその逆で、余計なものを何一つ残さない静けさだけが部屋に落ちた。
扉が閉まってからも、誰もしばらく動けなかった。
最初に声を出したのは父だった。
「……お前」
グレイヴ侯爵の顔は青ざめていたが、その青さが怒りなのか恐怖なのか分からない。
「殿下の前で、何故ああも余計なことを」
余計なこと。問われたから答えた、それだけだ。そう言いかけて、やめた。父は今、誰かを責めなければ立っていられない顔をしている。
「申し訳ありません」
またその言葉が出た。いつものように。責めを終わらせる最短の言葉として。
父は苛立ったように息を吐き、それ以上は言わずに去った。執事もその後に続く。部屋に残されたのはマーナとリシェルだけだった。
マーナが振り向き、呆れたように言う。
「また謝る」
「他にどうすれば良かったの」
「知らないふりをすれば良かった、とでも?」
「そんなこと」
「できないでしょう。お嬢様は、聞かれたことには答えるもの」
椅子に座ると、ようやく足が震えているのが分かった。怖かったのだ、と遅れて知る。王太子自身がというより、自分が今まで机の上だけで済ませてきたものを、王家の人間に見られたことが。
「殿下、怒らなかった」
ぽつりと呟くと、マーナも少し驚いたように瞬いた。
「そうですね」
「もっと……不機嫌になるかと思った」
「噂ではそういう方だそうですからね」
噂。冷酷。横暴。笑わない王太子。確かに笑わなかった。冷たかった。けれど、少なくとも帳簿を開いている人間に対する目ではなかった。見下すでもなく、褒めるでもなく、ただ見ていた。
その夜、食卓に父と母と姉がそろっても、彼らは王太子の話をほとんどしなかった。正確には、主人公のいる前でその話をしたくないようだった。母はエリシアの礼法について話し、姉は公爵家の令嬢たちがどんな装いをするかに触れた。父は食事に手をつけるばかりで口数が少ない。
ただ一度だけ、母が何気ない風を装って言った。
「エリシア、明日からは午前の授業を増やします。第六礼式まで確認しておきなさい」
姉は嬉しそうに頷いた。
「はい、お母様」
それで十分だった。王太子の訪問は、やはりエリシアのためのもの。リシェルが執務室で何を答えたとしても、流れは変わらない。自分の役目は、姉が恥をかかぬよう下支えすることだ。
そう思えば楽だった。そう思わなければ、逆に息ができない。
翌日から屋敷は露骨に慌ただしくなった。エリシアの礼法、舞踏、王宮での受け答え。母は普段よりよく居間に座り、女官たちは新しい髪飾りや手袋を運ぶ。父は外出が増えた。各所へ挨拶をしているのだろう。
リシェルの机には、その分の埋め合わせのように書類が増えた。領地東部の橋の件は結局、石工組合が一歩引いた。南部村落の備蓄規則改定に対する新たな要望も届く。慈善会の予算案は母の意向で見栄え重視に修正され、リシェルは数字のつじつまだけ合わせる。
寝る時間は遅くなり、朝は早いままだった。マーナが何度も休めと言ったが、休んだところで机の上の束が減るわけではない。
その合間にも噂は屋敷に入り込んできた。公爵家ディアセルの令嬢セレスティアが有力だとか、別の公爵家も最後まで候補から外れなかったとか、伯爵家の娘が一人礼法で躓いたとか。王太子の婚約候補は十人だというのが、王都での共通認識らしい。公爵二、侯爵五、伯爵三。エリシアはその五人の侯爵令嬢の一人。そう考えれば、自分がそこに入っていないことは当然で、逆に安心できた。
だが、王太子が執務室に来た日のことだけは、時折不意に思い出した。淡い目の色。帳簿をめくる指。数字を知っていたこと。乱れた髪と黒ずんだ袖の自分を見ても、眉一つ動かなかったこと。怒られなかった代わりに、何かを量られたような感覚だけが残っている。
四日目の昼、王宮からの使者が来た。
母は即座に応接へ向かい、父も同席した。エリシアは呼ばれる前から整えていた髪をさらに直し、白い手袋までつけて現れた。リシェルはいつも通り執務室にいて、南街道商会からの返書を開いていた。使者が来たなら、姉への正式な召喚状だろう。それだけのことだ。
だから、自分の部屋の扉が急に開き、若い女官が駆け込んできた時、最初は何かが壊れたのかと思った。
「リシェル様!」
「どうしたの」
「奥様がお呼びです。至急」
「また色見本?」
「違います、王宮から――」
女官は息を切らしながら言葉を継げず、紙を差し出した。封蝋。王家の紋章。嫌な胸騒ぎがした。
応接へ行くと、母も父も姉も立ったままだった。空気が妙に張りつめている。母の顔には困惑が、父の顔には理解の追いつかなさが、エリシアの顔にははっきりした不機嫌が浮かんでいた。
使者は礼儀正しく頭を下げる。
「王太子殿下より。婚約候補として、アルディオン侯爵家次女リシェル・アルディオン様にも王宮へお越しいただきたく」
意味を受け取るのに、少し時間がかかった。
「……私、ですか」
「はい」
使者は迷いなく答えた。
「現在の候補者は十名でしたが、殿下のご意思により、侯爵家次女を加えて十一名となります」
十一名。
父の喉がひくりと動く音が聞こえた気がした。母はまるで聞き慣れない言語を前にしたような顔で瞬きを繰り返している。エリシアは最初、冗談だと思ったのか、唇だけで笑いかけ、それが崩れていった。
「何かの間違いではなくて?」
母がようやくそう言うと、使者は礼を崩さないまま首を横に振る。
「正式な通達です」
正式な。間違いではない。冗談でもない。
リシェルは自分の手元を見た。昼前まで使っていた執務用ドレスの袖に、薄い黒ずみがある。指先にもインクが残っている。そのまま、王宮へ。婚約候補として。頭の中で言葉が繋がらない。
父が使者を送り出した後も、応接にはしばらく沈黙だけがあった。最初にそれを破ったのはエリシアだった。
「どういうこと?」
問いかけというより、責める声だった。だが誰を責めているのか、彼女自身も分かっていないようだった。
「わたくしではなく、どうしてリシェルが追加されるの」
「落ち着きなさい」
母はそう言ったが、落ち着いていないのは自分も同じだった。
「お母様、落ち着けるわけがないでしょう。候補は十人だったはずよ。侯爵家からはわたくしだけだと――」
「候補に入っただけだ」
父が低く言った。苛立ちを押し殺した声だった。
「入っただけで、選ばれるとは限らん」
それは誰に向けた慰めでもなく、自分自身への言い聞かせのように聞こえた。母は父を見て、次にリシェルを見た。その目には初めて、娘への興味に似たものが宿っていた。だがそれは温かいものではない。予想外の数字を見た時の、確認の目だ。
「殿下は、執務室で何を見たの」
問われて、リシェルは喉が乾くのを感じた。
「帳簿を……少し」
「何を話したの」
「聞かれたことに答えました」
「何を」
エリシアの声が鋭くなる。
「滞納率のことと、交易のことと、橋梁補修の」
「どうしてそんなことを」
そこで初めて、リシェルの中の何かがわずかに軋んだ。どうして。聞かれたからだ。答えなければならなかったからだ。けれどそれを言ったところで、この場は何も変わらない。だからまた、あの便利な言葉が先に出る。
「申し訳ありません」
エリシアは唇をかみ、母は目を細め、父は顔を背けた。
その時だけ、自分がこの家で担ってきたものが、今さら別の重さを持ち始めているのを感じた。けれどそれが救いになるとは思えない。むしろ逆だった。今まで見えなかった場所に連れ出される怖さの方が大きい。
王宮へ行く日は三日後と決まった。短い。あまりに短い。母はその瞬間からリシェルを令嬢として整えようとしたが、長年放置してきたものは三日では埋まらない。礼法は最低限、歩き方は直しきれず、ドレスは去年の祈祷式のものを急いで詰めるしかなかった。
侍女たちは彼女の体に寸法紐を当て、そのたびに小さく息を呑んだ。胸元のゆるい執務ドレスの下に隠れていた体の線が、きちんと測れば想像よりずっと明瞭だったからだ。だがそのことを口にする者はいない。ただ布を足し、絞り、丈を調整する。
鏡の前で仮にドレスを合わせた時、リシェルは自分の姿に少しだけ戸惑った。腰の位置が高く見え、肩の線がまっすぐになり、胸元がきちんと形を取るだけで、見慣れたはずの身体が別物のようだった。だがその違和感も、すぐに重たさに押し流される。動きにくい。息が浅くなる。これを着て王宮へ行くのだ。
エリシアはその間、ほとんど口をきかなかった。完全に怒っているわけでもなく、泣いているわけでもない。理解できないものを前にして、距離を取っているようだった。母は逆に忙しく動き回り、父は屋敷にいる時間を減らした。三人とも、今さらリシェルとどう接すればいいのか分からないのだと、見ていて分かった。
夜更け、執務室に戻ると、机の上の帳簿がいつもより遠く感じられた。ここが自分の場所だったはずだ。少なくとも、ここでは数字がどう動くか分かる。やるべきことも、間違えた時の修正も見えている。王宮は違う。噂と視線と、整えられた笑顔の場所だ。そこに自分がいる姿が想像できない。
マーナが温め直した茶を置いて言った。
「怖いですか」
問いは優しかった。リシェルは少し迷ってから頷く。
「怖い」
「王太子殿下が?」
「それもあるけれど……」
言葉を探し、ようやく見つける。
「今までの自分のままでいられない気がして」
マーナは返事を急がなかった。しばらくしてから、皺の深い手でカップを押しやる。
「今までのままでいたって、誰も褒めてくれなかったでしょう」
その言葉は慰めではなかった。ただ事実だった。
誰も褒めない。誰も見ない。働くのは当たり前。尽くすのも当然。間違えれば責められ、上手くやれば黙って使われる。それがリシェルの日常だった。
なら、その外へ出るのは不幸なのか、それとも――。
考えかけて、やめた。希望めいたものを持つには、まだ怖さの方が大きかった。
三日後の朝は、いつもより遅く起こされた。起こされた、ということ自体が珍しかった。侍女たちが部屋に入り、湯を運び、髪を梳き、肌を整える。リシェルはされるがままだった。胸元の楽な執務ドレスではなく、王宮行きのためのドレスが用意されている。薄い灰青の生地。過度ではない刺繍。母の目から見れば地味なのだろうが、リシェルには十分すぎるほど飾り立てられた服に思えた。
髪を結い上げられながら、窓の外を見る。北棟の端の執務室の窓が、朝日に白く光っている。そこに積んだままの帳簿、途中まで書いた補修費一覧、次便で送るはずだった交易書簡。自分がいない間、誰があれをどうするのか、父は考えているのだろうか。あるいは考えていなくても、困るのは領地であって王宮ではないのだから、どうでもいいのだろうか。
支度が終わる頃、マーナだけが少し笑った。
「見違えました」
その言い方が上手で、リシェルは少しだけ息を漏らした。褒められた、というより、今までが見えていなかったのだと教えられた気がした。
鏡に映る自分は確かに普段と違う。だがそれでも、知らない誰かというほどではない。ただ、ずっとゆるく隠していた輪郭が、ようやく形を得ただけだ。
廊下へ出ると、母と姉が待っていた。エリシアも美しい。いや、もともとそうだった。藤色のドレスは彼女によく似合い、髪飾りも上品に揺れている。二人で並べば、自分の方が劣ると思ってきた。今日もそう思おうとしたのに、母の視線が一瞬だけ自分の方に止まったことで、その確信が揺らぐ。
馬車へ向かう道すがら、使用人たちが一斉に頭を下げた。いつもと同じ動作なのに、今日だけは何かが違って見える。噂はすでに屋敷の外へも回っているのだろう。アルディオン侯爵家の次女が、婚約者候補として追加されたと。
馬車の扉が開く。王宮へ向かう車輪の音が始まる前、リシェルは一度だけ振り返った。北棟の窓はもう見えない。代わりに屋敷正面の重い扉と、その向こうの長い道がある。
報われない日常は、まだ終わったわけではない。けれど、少なくとも同じ場所に留まり続けることは出来なくなった。
そしてその事実だけが、何よりも恐ろしく、少しだけ救いに似ていた。
王宮の外壁が見えた時、リシェルはようやく、自分が本当にそこへ向かっているのだと実感した。
アルディオン侯爵家の馬車は朝のうちに屋敷を出て、王都中心部の広い石畳をゆっくりと進んでいた。車輪の音は一定なのに、胸の内側だけが妙に落ち着かない。膝の上で組んだ指先に力が入る。新しく整えられた手袋は柔らかいのに、指の曲げ伸ばしにまだ慣れなかった。
向かいにはエリシアが座り、窓の外を見ている。母マルセリアはその隣で姿勢を崩さず、何か言うたびに娘たちの裾と髪を確認した。誰も無駄口を叩かなかった。侯爵である父は別の馬車で先に入っているらしい。王宮の門前で手続きがあるからだという。けれど本当は、娘二人を同じ馬車に閉じ込める空気に耐えたくなかったのではないかと、リシェルは思った。
エリシアがようやく口を開いたのは、王宮正門が視界に入ってからだった。
「……貴女、あまり喋らないで」
声音は高くも低くもなく、ただ硬かった。
母がすぐに言葉を継ぐ。
「余計なことを言う必要はありません。聞かれたことにだけ答えなさい」
余計なこと。あの日、執務室で答えたようなことを言うな、という意味だろう。リシェルは短く頷いた。
「はい」
それだけでまた車内は静まる。エリシアは何か言い足したそうだったが、結局窓へ顔を向け直した。横顔は完璧に整っていたが、その首筋にだけ、わずかな強張りが見えた。
王宮門前にはすでに何台もの馬車が並んでいた。紋章付きの車体、従者の制服、近衛の槍。使節ではない。令嬢たちを乗せた家々の馬車だ。つまり、もう何人かは到着している。候補者十一名。その数字を頭の中で繰り返しても、まだ自分がその中に入っていることが実感できない。
案内役の侍従に導かれ、控えの間へ通される。そこで初めて、リシェルは“十一人”の意味を目で知った。
広い控えの間には、すでに何人もの令嬢がいた。公爵家らしい堂々とした装いの娘が二人、侯爵家の名札付きの付き添いに囲まれている令嬢が何人か、伯爵家と思しき控えめな意匠のドレスの娘たち。皆、美しかった。いや、整えられていた。髪も、爪先も、微笑み方も、すべてが「ここへ来るべき令嬢」として仕上がっている。
そこへ母とエリシアに続いて入る自分の姿が、急にひどく場違いに思えた。今朝、鏡の前では見慣れぬ形に見えたドレスも、この場では決して派手ではない。灰青の布は落ち着きすぎている。飾りも少ない。立っているだけで、これまでどれほど社交から離れて生きてきたかが見透かされる気がした。
だが、令嬢たちの視線は予想していたほど冷たくはなかった。むしろ困惑に近いものが多い。最初から十名だと聞いていたところへ、見慣れない侯爵家の次女が加わった。誰もがその意味を測りかねているのだろう。
「アルディオン侯爵家長女エリシア様」「同次女リシェル様」
侍従が名を告げると、いくつかの視線がさらに集まった。
その中でも一際はっきりと感じたのは、窓際に立つ一人の令嬢からのものだった。
セレスティア・ディアセル。
名を聞かずとも分かった。公爵家令嬢特有の、ためらいのない華やかさがあった。金糸を織り込んだ深い青のドレス、きちんと計算された胸元、揺れの大きくない宝石、立っているだけで中心になる雰囲気。社交界の本命。王太子妃になるのは彼女だと、王都では半ば当然のように語られていると聞いていた。
セレスティアはリシェルを見て、一瞬だけ何かを測るように目を細めた。それから礼としては十分な角度で顎を引き、視線を外した。その一瞬に侮蔑はなかった。だが「想定外のものを確認した」という色はあった。
控えの間には静かなざわめきがあった。
「十人ではなかったかしら」 「最初は十人と……」 「アルディオン侯爵家に次女がいたの?」 「聞いたことがないわ」 「王太子殿下が追加されたとか」
囁きは意図的に小さく抑えられているが、それでも耳に入る。母は聞こえていないふりをし、エリシアは聞こえていても表情を変えないよう必死だった。リシェルはただ、呼吸を浅くしないよう心掛ける。ここで具合を悪くしたら、それこそ笑いものだ。
しばらくして別室へ移され、候補者だけで待つことになった。付き添いは外される。ここから先は王家の判断に入るからだろう。母が去る直前、リシェルの手首を軽く掴んだ。
「背筋を」
「はい」
「それと――」
続く言葉を母は飲み込み、結局「恥をかかないように」とだけ言った。誰の恥かは、聞くまでもなかった。
扉が閉じると、令嬢たちの間にほんの少し空気が流れた。緊張があるのは皆同じなのだろう。伯爵家の令嬢の一人は明らかに青ざめているし、別の侯爵家の娘は扇子を閉じたり開いたりして落ち着かない。だが誰も無作法にはならない。場にいる全員が、今は見られている可能性を知っている。
最初にリシェルへ声をかけてきたのは、意外にもセレスティアではなく、柔らかい栗色の髪をした伯爵令嬢だった。
「……アルディオン侯爵家の方、ですわよね」
「はい」
「その、追加でいらしたと伺って……」
言葉尻が曖昧になる。敵意はない。ただ純粋に不思議なのだ。リシェルは困ったように答える。
「私も、事情はよく分かっていません」
それは事実だった。相手は一瞬目を丸くして、申し訳なさそうに微笑む。
「そうですわよね。ごめんなさい」
そこで会話は終わった。けれどそれだけで、少しだけ肩の力が抜ける。社交界の令嬢たちは皆、もっと鋭く人を裁くのかと思っていた。もちろんそういう人もいるのだろうが、この場にはそれよりも戸惑いの方が大きいらしい。
しばらくして、別の侍女たちが入り、候補者の最終確認が行われた。裾、髪、飾り、名札。そこでリシェルは初めて、周囲の令嬢たちが自分を見て小さく息を呑むのを感じた。
理由は分からなかった。
だが三人目の侍女が腰紐の位置を整えた後で、自分でも少しだけ察した。普段の執務用ドレスは胸元が緩く、腰もほとんど絞っていなかった。だから体の線は布の下に沈んでいた。今、王宮用に整えられたドレスは違う。肩の位置、背の線、腰の締まり、そして隠しようのない胸元。締め上げられるほどではないが、きちんと“形”が出ている。
それでも自分では、窮屈で動きにくいという意識の方が強い。けれど他人の目には別のものが映るのだろう。さきほど自分へ話しかけた伯爵令嬢が目を丸くし、それから視線を逸らした。
その時だった。
別の扉が開いて、王女たちが入ってきた。
最初に見えたのは長身の女性だった。王族特有の淡い金の髪をきちんと結い上げ、過度に華美ではないが質の高いドレスを着ている。目元には王太子に似た静かな鋭さがあった。
クラリシア・ヴァルセイン第一王女。
その半歩後ろに、すらりとした体つきの第二王女セリティア。さらに明るく軽やかな空気をまとった第三王女ミレイナ。三人とも公の場に相応しい姿ではあるのに、どこか緊張を煽りすぎない不思議な余裕があった。
令嬢たちは一斉に礼を取る。
「顔を上げて」
クラリシアの声は落ち着いていた。甘すぎず、冷たすぎず、ただ場を掌握する声だった。
「今日は弟――王太子殿下のご判断に先立ち、皆さまにお会いしておこうと思いました。大げさな意味ではありません。ただ、ここで必要以上に怯えられると、後の進行が遅れるものですから」
場にごくわずかな笑いが走る。緊張を解くための言葉だとすぐに分かった。リシェルはそこで初めて、王女たちの役割を知る。王宮はただ厳しいだけの場所ではなく、厳しさを柔らかく見せる者もいるのだ。
セリティアが候補者をゆっくり見回した。その視線は驚くほど静かだった。誰かを見下すのではなく、均等に観察するような目。ミレイナだけが少しだけ落ち着きなく、しかしそれがかえって人間らしかった。
そして彼女の視線が、セレスティアとリシェルの上でぴたりと止まった。
「……あ」
小さな声だった。だが近くにいたセリティアには聞こえたらしい。
「何?」
ミレイナは笑いを噛み殺すような顔をして、ほんの少しだけ顎をしゃくった。
「ほら」
「何が」
セリティアも二人へ目を向け、次の瞬間、ごくわずかに口元を緩めた。
「……なるほど」
クラリシアは二人の視線の先を追ってから、小さく息をつく。
「ミレイナ、静かに」
静かに、と言われても、ミレイナの目は明らかに笑っている。彼女は声を潜めたまま言った。
「だって分かりやすいんだもの」
「何がですか」
思わず問い返したのは、驚くほど近い位置にいたリシェル自身だった。ミレイナは一瞬きょとんとしてから、楽しげに笑う。
「ううん、なんでもない」
「なんでもなくないでしょう」
セリティアが呆れたように言うと、ミレイナは肩をすくめた。
「兄上の好みって、並ぶとよく分かるなって思っただけ」
場にいた令嬢たちの何人かが意味を理解しきれずに瞬きをする。だがセレスティアだけは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。リシェルは自分が何を言われたのか完全には分からなかったが、顔が熱くなるのだけは分かった。
「……ミレイナ」
今度のクラリシアの声には、はっきりした牽制があった。
「ここでそれを言う必要はありません」
「小声よ」
「小声でも聞こえる人には聞こえます」
ミレイナは「はーい」と素直に返したが、全く反省はしていない顔だった。セリティアがふとリシェルへ視線を向ける。その目にあったのはからかいではなく、むしろ納得だった。
この一連のやりとりだけで、リシェルの中の「王族像」が少し崩れた。第一王女は場を整える人、第二王女は冷静に観察する人、第三王女は空気を動かす人。噂で聞いていた冷たい宮廷の印象とは少し違う。
だがその違和感を考える暇は与えられないまま、再び移動の合図がかかった。
候補者十一人は、広間へと通された。
高い天井、大きな窓、磨き込まれた床。王宮の広間というだけで、地方貴族の屋敷とは空気の密度が違う。足音一つまで響き方が変わる。配置された位置に順に立ち、名を呼ばれるまで待つよう指示される。
十一人が並ぶ。
その瞬間、リシェルはようやくミレイナの言葉の意味を少しだけ理解した。
多くの令嬢が並ぶ中で、二人だけが、妙に目に留まるのだ。
セレスティア。そして自分。
それは顔立ちだけの話ではなかった。きちんと整えられたドレスの線の中で、どうしても誤魔化せない体の起伏があった。胸元の厚み、腰の締まり、姿勢を正した時の全体の重心。執務用の緩い服ではすべて布の下に沈んでいたものが、今は輪郭を持って並んでいる。
リシェルは余計に居心地が悪くなった。見られている。しかも、自分が思っていたのとは違う形で。
向こう側に立つセレスティアが、横目にこちらを一度だけ見た。その視線には驚きがあった。けれど侮りはない。まるで「なるほど」とでも言いたげな、静かな再評価だった。
広間の空気が変わったのは、扉が開いてからだ。
アルヴェリオン・ヴァルセイン王太子が入ってくる。
控えの間で王女たちと交わした柔らかな空気は、彼の登場と同時に消えた。いや、王女たちの側にだけ残り、それ以外の場所からは一斉に引いていったという方が正しい。衣装は控えめで、装飾も少ない。だがその歩みには一切の迷いがなく、場の全員が彼を中心に意識を引かれる。
噂の冷酷王太子。王家の婚約を自ら選び、各家を視察し、情ではなく判断で人を切る男。
彼は候補者たちの前で立ち止まり、侍従長から一覧を受け取った。ひとりひとり名を呼び、いくつか短い問いを投げる。
「好きな季節は」でも「趣味は」でもない。答えに性格が滲む程度の、しかし社交だけで用意した言葉がすぐには役に立たない問い。
「家のために、自分が最も担うべき役目は何だと思う」 「王都と領地、どちらか優先すべき場面があるとすればそれはいつだ」 「失ったものを取り戻すより、守ることを選ぶべき時はあるか」
伯爵令嬢たちは懸命に答え、侯爵令嬢たちはそれぞれの家風をにじませ、公爵令嬢の一人は完璧な模範解答を返した。セレスティアは、過不足のない声で「守るために切り捨てる判断が必要な場面はございます」と答え、広間の何人かの視線を集めた。
リシェルの番が来る。
「リシェル・アルディオン」
「……はい」
「家のために、自分が最も担うべき役目は何だと思う」
答えは、本当なら簡単だった。整理、調整、運用、負担の先送りではなく持続の確保。けれど今ここでそのまま言えば、母に釘を刺された“余計なこと”になるのではないか。リシェルは一瞬だけ躊躇した。
だが王太子は待っている。淡い目が、嘘を歓迎しないと告げている。
「……家が、継続して立っていられるようにすることです」
「継続とは」
「今ある見栄えを守ることではなく、明日も回るようにしておくことです」
広間の空気がほんのわずかに動いた。侯爵家や伯爵家の令嬢たちが、そこで初めてリシェルを見た気配がした。王太子はそれ以上何も言わず、「そうか」とだけ答える。
問いはそこで終わった。
全員への確認が済むと、侍従長が一歩退く。広間は静かだった。誰もが分かっている。ここから先は、もう質問ではない。
アルヴェリオンが一覧を閉じた。
「決まっている」
短い一言だった。だがそれだけで広間の全員の呼吸が止まる。
王太子は視線を上げ、まっすぐ正面を見た。
「リシェル・アルディオン」
名を呼ばれた瞬間、胸の奥がひどく冷えた。足が一歩前へ出る。自分の意思で動いたのか、侍女に教えられた通り反射で進んだのか分からない。
「君を王太子妃とする」
言葉の意味が届くのに、ほんのわずかに遅れがあった。
王太子妃。正妃。
誰かが息を呑む音がする。伯爵令嬢の一人はあからさまに目を見開き、侯爵令嬢たちは理解が追いつかない顔をしている。エリシアがどこかで硬直しているのが視界の端に見えた気がした。
だが王太子はそこで終わらなかった。
「セレスティア・ディアセル」
今度は広間の空気そのものが強く揺れた。公爵令嬢。社交界の本命。誰もが次に来る名を予想していながら、それでも実際に呼ばれると重みが違う。
セレスティアは一歩前へ出る。その顔には、一瞬だけ、ほんのわずかな停止があった。目が大きく開かれ、表情が追いついていない。だがそれは一瞬だった。次の瞬間には、公爵家令嬢としての仮面が完璧に戻る。
「君を側妃とする」
ざわめきはもう抑えきれなかった。
公爵家令嬢が正妃ではない。しかも側妃が同時に決まる。王太子の婚姻としては十分あり得る形だが、社交界の予想とは真逆だ。しかも正妃は、執務用の地味なドレスしか着ていなかったという噂の、あの侯爵家次女。
侍従長が広間を静める。アルヴェリオン自身は表情を変えない。ただ視線で前へ出るよう促す。
リシェルとセレスティアは、ほぼ同時に歩を進めた。
王太子の左右に並ぶ。
その瞬間だった。場のざわめきの質が変わった。驚愕から、理解へ。まだ理屈ではなく、視覚で先に分かってしまう理解。
中央に王太子。その右にリシェル。左にセレスティア。
三人が並ぶと、不思議なほど“形”が整う。
セレスティアは華やかだ。社交界と外向きの光を象徴するような美しさ。対してリシェルは落ち着いている。派手さはないのに、立っているだけで重心がぶれない。内側で支える人間の静かな強さがある。
そして中央のアルヴェリオンが、それらを統べるように立つ。
恋愛の絵というより、王国の配置図に見えた。
広間の端で、ミレイナが小さく「ほら」と言ったのが聞こえた気がした。セリティアが「何が」と返し、クラリシアが静かに「綺麗な配置ね」と漏らす。まるで答え合わせのようだった。
セレスティアはそこで初めて、はっきりとリシェルの方を見た。
その目はもう戸惑いだけではない。理解の始まりがあった。何故自分が正妃ではないのか、何故この侯爵家次女なのか。まだ完全ではなくとも、理屈の入口には立っている。
侍従長が形式的な宣言を述べ、広間はようやく秩序を取り戻した。礼を取るべき場面だと分かっていても、リシェルの頭の中はまだ白かった。身体だけが覚えた礼法通りに動く。周囲の視線、遠くに立つ母の凍りついた横顔、エリシアのこわばった表情。それらすべてが現実味を持たずに流れていく。
やがて広間は解かれ、候補者たちは順に退出していくことになった。選ばれなかった令嬢たちの多くは、悔しさや安堵をそれぞれの形で隠しながら礼を取り、去っていく。伯爵令嬢の一人はリシェルに一度だけ視線を向け、複雑そうに微笑んだ。何か言いたそうだったが、言葉にはしなかった。
その中で、セレスティアは最後まで崩れなかった。
彼女は王太子へ向き直り、完璧な礼を取る。
「殿下のご決定です。ディアセル公爵家の娘として、お受けいたします」
広間にいた大人たちの幾人かが、その一言で初めて息をついた。公爵令嬢が取り乱さず、王家の判断を公に受け入れた。それだけで政治的混乱の火種はかなり小さくなる。
アルヴェリオンは短く頷いた。
「助かる」
その一言は、形式ではなかった。リシェルにもそれだけは分かった。王太子はセレスティアの矜恃を理解したうえで、その受け止め方に礼を言ったのだ。
すべての形式が終わった後、リシェルとセレスティアは別の侍女に案内されて内宮へ通された。
王宮の中でも、空気が変わる場所だった。外廷の磨き上げられた緊張ではなく、もっと私的で柔らかな匂いがある。花の香り、薄い茶葉の匂い、笑い声の残響。ここに来て初めて、リシェルは「王宮」と一括りにしていたものが、いくつもの層に分かれていることを知る。
案内された部屋には、王女たちがすでにいた。
そして――。
「兄上、来たわよ」
ミレイナの軽い声の方へ目を向けた瞬間、リシェルは本当に一瞬、誰を見ているのか分からなくなった。
そこにいたのは、広間で見た“冷酷王太子”ではなかった。
同じ顔、同じ衣装、同じ人間のはずなのに、空気が違う。長椅子に座り、片手で茶杯を持ち、王女たちと同じ部屋で同じ空気を吸っているだけで、輪郭の張りつめ方が少し緩んで見える。冷たいままではある。だが、冷たさが武器ではなく、ただの地の温度に戻っている。
セレスティアの方を見れば、彼女は外廷で崩さなかった表情をここで初めてわずかに失っていた。
「……殿下」
その声は、さきほど広間で発したものよりもよほど素に近かった。
アルヴェリオンは茶杯を置き、短く言う。
「外は外だ」
それだけだった。
けれど、それだけで十分だった。セレスティアの目に一気に理解が走る。彼女は小さく息を吐く。
「……なるほど」
ミレイナがすぐさま笑った。
「やっと分かった?」
「分からない方がおかしいでしょう」
セレスティアはそう返したが、声の端に本当の意味での呆れが混じっている。公爵令嬢である彼女にとっても、この落差は予想外だったのだ。
リシェルはもっと追いつけない。外では石のように冷たかった人が、内宮では妹に肩を叩かれそうな距離にいる。しかも誰もそれをおかしいと思っていない。クラリシアが苦笑して言う。
「安心なさい、ここでは必要以上に怖がる必要はありません」
「……必要以上、ということは」
口にしてから、自分でも随分と間の抜けた問いだと思った。だがミレイナがすぐに拾う。
「外では怖がっておいた方が楽よ。兄上もその方が助かるし」
「ミレイナ」
「本当のことだもの」
セリティアが補足するように言う。
「兄上の悪評は、半分くらいこちらで管理しているの。広げる価値がある時は広がるし、止める価値がある時は止まる」
それがあまりに平然と告げられたので、リシェルは瞬きを繰り返すしかなかった。悪評を、管理する。王族が自ら。
アルヴェリオンはその説明を否定しない。ただ「婚約が決まったから、率先して流す必要は薄れた」とだけ言った。
ミレイナがすかさず「でも便利だから完全には消さないのよね」と笑う。クラリシアは頷く。
「ええ。少なくとも、今日から先は貴女たちを守る盾にもなります」
“貴女たち”。つまり自分とセレスティアだ。リシェルはそこで初めて、自分が守られる側に置かれたということを理解しかけた。だが理解はまだ浅い。実感よりも違和感の方が強い。
セレスティアがそれを見抜いたように、少しだけ口元を緩めた。
「今まで、本当に怖かったでしょう?」
穏やかな声だった。正妃に選ばれた相手へ向けるには不思議なくらい攻撃性がない。
「……はい」
正直に答えると、セレスティアは小さく笑う。
「でしょうね。わたくしも少し、唖然としましたもの」
「少し、で済むのがすごいわよね」
ミレイナが横から茶々を入れる。セレスティアは肩をすくめた。
「公爵家の娘ですから」
その言い方には矜恃があった。敗北を否定しない矜恃、自分の格を崩さない矜恃。そしてその場でリシェルは、セレスティアが自分の敵にはならないと、ぼんやりだが理解した。
内宮での初日の会話は、外廷でのあの張り詰めた空気が嘘のように進んだ。王女たちは兄をからかい、アルヴェリオンは必要以上に反応せず、それでも本当に嫌がる時だけ短く止める。クラリシアは全体の流れを見て整え、セリティアは要所で状況を言葉にし、ミレイナが空気を動かす。
そして、その一連の中で最もリシェルの呼吸を止めたのは、ミレイナの次の一言だった。
「兄上、やっぱり胸の数字でも選んだね」
リシェルは咳き込みそうになった。セレスティアが本当に一瞬だけ眉を上げ、セリティアは吹き出しかけたのを扇で隠す。クラリシアは額に手を当てた。
「ミレイナ」
「だってそうでしょう? 領地の数字も見たんだろうけど、結局好みの二人とも押さえてるじゃない」
あまりにもあっけらかんと言われて、羞恥と困惑と理解不能が一度に押し寄せる。リシェルは何をどう否定すべきか分からず、顔が熱くなるばかりだった。
アルヴェリオンは少しも表情を変えずに言う。
「能力だ」
「はいはい」
ミレイナは全く引かない。
「両方でしょ」
「外で言うな」
「内宮でしか言ってないもん」
その応酬に、セレスティアがとうとう小さく笑った。ごく短く、だが本当に可笑しいと思った時の笑いだった。
「……殿下、否定が弱すぎますわ」
アルヴェリオンはその時だけ、ほんのわずかに眉間へ皺を寄せた。だがそれは怒りではなく、面倒だという色に近い。その表情の変化が、さっきまで広間で見ていた男とは違いすぎて、リシェルはまた少しだけ混乱した。
その日のうちに、王宮内での最低限の今後が告げられた。正式な婚約発表は改めて行うこと。正妃となるリシェルには礼法と王宮の運用について急ぎ学ぶべきことが多いこと。側妃となるセレスティアは社交行事における比重が大きくなること。そして両者とも、少なくとも当面は内宮側の指示に従いながら整えられていくこと。
その説明の最中でさえ、リシェルはまだ“自分のこと”として話を聞けていなかった。ただ、内容だけを机上の議事録のように拾っていた。何時に何を、誰が、どう担うか。そうしている方が楽だった。
だが日が傾き、いよいよアルディオン侯爵家へ戻るという段になった時、初めて現実の重さが戻ってくる。
屋敷へ帰れば、父と母と姉がいる。彼らはもう、自分をただの次女としては扱えない。だが家の構造そのものは今日一日で変わるわけではない。その狭間に落ちるのは間違いなく自分だ。
内宮の回廊を歩く足取りが、知らず少しだけ重くなったらしい。背後からアルヴェリオンの声がした。
「リシェル」
「……はい」
立ち止まる。振り返ると、彼はいつの間にか少し距離を詰めていた。廊下には王女たちもセレスティアもいない。人払いがされたわけではないだろうが、この瞬間だけ、妙に静かだった。
「帰ってからの三日を、こちらに報告しろ」
唐突で、命令の形をしていた。
「三日……ですか」
「侯爵家の動きを見る」
政治の人だ、とその時改めて思う。婚約を決めたその日から、相手の実家の出方を測っている。けれど不思議と、それが冷たさにだけは感じられなかった。
「何かあれば」
そこで彼は、ほんのわずかに言葉を切った。
「我慢するな」
短い、あまりにも短い言葉だった。だがリシェルは、胸の奥のどこかを不意に指で押されたような気がした。今まで一度も、家の中でそう言われたことがなかったからだ。
返す言葉を探しているうちに、彼はもう元の距離へ戻っていた。王太子の顔に、内宮の柔らかさは再び薄れていく。
「以上だ」
「……はい」
それだけで会話は終わる。
けれどその一言は、屋敷へ戻る馬車の中でもずっと耳に残っていた。
帰宅したアルディオン侯爵家は、朝に出た時とはまるで別の家のようだった。使用人たちの視線が変わっている。頭を下げる角度が、ほんの少しだけ深い。廊下で出会う女官の顔に、好奇と戸惑いが同時に浮かぶ。屋敷全体が、どう扱うべきか決めきれないまま“新しい事実”を受け取っているのだ。
応接では父と母が待っていた。エリシアもいる。誰もすぐには口を開かなかった。
最初に声を出したのは父だった。
「……本当に、正妃なのだな」
確認というより、現実に追いつくための言葉だった。
「はい」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
母は一度だけ目を閉じた。それから口を開く。
「王宮で、何がどうなったのか、順に話しなさい」
命じる口調はいつも通りだったが、その“いつも通り”がかえって奇妙だった。今までなら母が細部に興味を持つのはエリシアの方で、自分は必要な時だけ呼ばれる存在だったのに。
リシェルは呼吸を整え、出来事を順に話した。質問、指名、セレスティアの側妃指名、内宮での今後の予定。王女たちのことは必要最低限に、ミレイナの余計な一言はもちろん省いた。言っても誰の得にもならない。
聞いている間、エリシアは一度も口を挟まなかった。だがその沈黙の重さが、どんな言葉よりも痛かった。
やがて母が言う。
「では……」
言葉が続かない。何を言うべきか、母にも定まらないのだ。父が代わりに言った。
「アルディオン領の執務は、今後一度整理が必要だな」
その言い方に、リシェルはほんの少しだけ目を上げた。整理。まるで今までは整理されていなかったような言い方だ。いや、されていなかったのだろう。自分一人の上に積まれたままだったものを、家が初めて“構造”として見ようとしている。
「橋梁補修の件と北街道交易の再契約は、今月中に結論が必要です」
そう言うと、父は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……それは後で確認する」
後で。結局、すぐには分からないのだ。今の領地がどう回っているかを。リシェルはそこで初めて、王太子が見抜いたものを、自分の家だけが見ていなかったのだと、はっきり理解した。
その夜、エリシアが珍しく自室を訪ねてきた。
扉の前で少し迷ってから入ってくる。華やかな姉の姿ではなく、疲れた若い女の顔だった。
「……座ってもいい?」
「もちろん」
エリシアは椅子に腰を下ろすと、しばらく何も言わなかった。リシェルも急かさない。やがて姉は静かに言う。
「わたくし、自分が選ばれると思っていたの」
「……そうでしょうね」
責めるでも慰めるでもない返答に、エリシアは少しだけ苦笑する。
「貴女、そういうところだけ正直よね」
それから、指先で膝の上の布を撫でながら続けた。
「でも今日、三人が並んだのを見て……少しだけ分かった気がした」
王太子の左右に立った時のことだろう。リシェルは返事をしなかった。
「わたくしは、あの場所には立てても、あの意味では立てなかったのかもしれない」
自分の方が綺麗だとか華やかだとか、そういう話ではないのだと、姉も理解したのだろう。リシェルは胸の奥が静かに痛んだ。エリシアは悪人ではない。だからこそ、この痛みは単純なざまあでは済まない。
「お姉様」
「謝らないで」
姉は即座に言った。
「謝られると、余計に惨めになるわ」
その言葉はあまりにまっすぐで、リシェルは黙るしかなかった。エリシアは少しだけ顔を上げる。
「……でも」
「でも?」
「ずっと、貴女に任せていたのよね、わたくし」
その“ずっと”に、部屋の空気が止まる。
「名簿も、寄付の整理も、手紙の下書きも、色の見立ても」
リシェルは初めて、自分が本当にこの家で“使われていた”のだと、姉の口から認められた気がした。
「ごめんなさい」
今度はエリシアがそう言う。
リシェルはすぐには答えられなかった。許すとか許さないとか、そういう簡単な形ではなかった。けれど一つだけ、確かなことがある。
「……お姉様が全部悪かったわけではないわ」
「優しいのね」
「違う」
即座に否定すると、エリシアが少しだけ笑った。昔、まだこうして普通に話せた頃の笑い方に近かった。
「そうね。たぶん、違うわね」
姉はそれ以上言わずに立ち上がった。去り際に一度だけ振り返る。
「王宮、似合っていたわ」
それだけを残して、部屋を出ていった。
翌日から、屋敷は目に見えてぎこちなくなった。父は領地の主要書類を自室へ運ばせたが、半日もしないうちに三人の役人が代わる代わるリシェルのもとへ質問に来た。母は衣装係を通して王宮向けの物を増やそうとしたが、どの程度整えれば“正妃”に相応しいのか自分でも定まらず、女官たちと相談ばかりしている。エリシアは以前より静かになり、逆に使用人たちへ自分で声をかけるようになった。
そして何よりはっきりしたのは、執務室の机に積まれる束の数が、三日で目に見えて減ったことだった。
誰かが仕事を取り上げたのではない。むしろその逆だ。家がようやく、ひとりの次女に押しつけていた量の異常さを目にしたのだ。減らさざるを得なくなっただけだ。
リシェルはそれを、奇妙な心地で見ていた。楽になったはずなのに、胸の奥は少しも軽くならない。今まで自分がいた場所の歪みを、今さら皆で確認しているのだと思うと、何かを取り戻したというより、長く続いた錯覚が剥がれていく感覚に近かった。
三日目の夜、王宮へ報告を出す時が来た。
何をどこまで書くべきか迷った末、リシェルは事実だけを整理して認めた。父が主要書類を理解できず確認を求めてきたこと、仕事の分配が初めて見直され始めたこと、母が王宮向けの外面に意識を寄せ始めたこと、姉が謝罪したこと。そして、アルディオン領の橋梁補修と北街道交易の件は早急に引き継ぎが必要であること。
封をした時、不思議と手が震えなかった。
数日後、王宮から返書が届く。
短い文だった。橋梁補修と交易契約については、王宮の文官を一人補助につける。リシェルは正式な移行までの間、指示だけを出せ。実務に戻るな。文末には、アルヴェリオンの署名だけがあった。
実務に戻るな。
命令だった。だがその命令は、初めて誰かに「もうそこへ戻らなくていい」と言われた気がして、リシェルはしばらく封書を握ったまま動けなかった。
それから先の変化は早かった。
正式な婚約発表。王都の社交界のざわめき。アルディオン侯爵家の次女という存在が、初めて公の場所で“見える”ものになる。噂は駆けた。執務ばかりしていた地味な娘が、実は整えれば目を引くこと。王太子が侯爵家を訪れた時、次女の執務室まで足を運んだこと。公爵令嬢セレスティアが側妃として同時に指名されたこと。
その噂のいくつかは誇張で、いくつかは歪み、いくつかは驚くほど正確だった。
だがそのすべての中心に、自分がいる。
王宮へ移る準備が進む中で、セレスティアは約束通りリシェルへ社交を教え始めた。最初の顔合わせで彼女は、正妃に決まった相手へ向けるにはあまりにも率直に言った。
「まず歩き方です」
「歩き方」
「王太子妃候補が壁際へ逃げる癖をつけてはいけません」
「……逃げているつもりは」
「あります」
きっぱり断じられ、反論できなかった。セレスティアは淡々としている。厳しいが、意地悪ではない。間違いを間違いとして言い、出来ていることは出来ていると認める。ある意味では数字に近い人だった。
「礼法は覚えられます。けれど社交は、相手の虚栄をどこまで満たし、どこで切るかです」
「難しいわ」
「ええ。わたくしは得意です。でも貴女は別のことが得意なのでしょう」
その言い方には棘がない。事実として言っているだけだ。
ある日、休憩の茶を前にして、セレスティアがふいに言った。
「最初は、理解できませんでした」
「何が?」
「殿下が貴女を選んだ理由です」
リシェルは茶杯を持つ手を止める。
「今は?」
セレスティアは一度だけ、ため息に似た息を吐いた。
「分かる気がします」
それから少しだけ笑う。
「悔しいけれど」
悔しい、と正直に言いながら、その言葉は嫌味にならない。リシェルは初めて、この人となら並んでいけるかもしれないと思った。
王宮での初めての正式な舞踏会の日、第三王女ミレイナは相変わらずだった。
控えの間で、整えられた二人の姿を見るなり、彼女は満足そうに頷く。
「ほらやっぱり」
セリティアが扇で口元を隠す。
「何がよ」
「兄上の好み」
クラリシアがすぐさま釘を刺す。
「ミレイナ」
「だって本当じゃない。胸の数字で選んだって言ったら怒られるけど、完全に違うとも言えないでしょう」
セレスティアがとうとう吹き出し、リシェルは真っ赤になり、そこへ現れたアルヴェリオンが一言だけ告げる。
「聞こえている」
ミレイナは全く怯まない。
「じゃあ否定してみて」
「能力だ」
「はい、両方」
その応酬に、セレスティアが小さく笑って「殿下、もう少し上手に誤魔化してくださいませ」と添える。リシェルだけがまだその場の処理をしきれない。けれど、そんな自分を見てクラリシアがそっと言った。
「慣れます」
「……慣れたくはないです」
思わず本音がこぼれると、クラリシアは珍しくはっきり笑った。
「そう答えられるなら大丈夫」
舞踏会の広間へ出た時、王都の視線が一斉に集まった。かつては袖の黒ずみで目立たなかった自分が、今は王太子の隣にいるだけで注目を浴びる。恐ろしいはずなのに、前ほど息が詰まらない。
何故か。
左にはセレスティアがいる。少し後ろには王女たちがいる。そして何より、右隣にいる男は、外では冷酷を演じるが、内宮では「我慢するな」と命じた人だ。
それだけで、視線の重さが少し変わる。
広間でどこかの貴族夫人が、リシェルへ向けて値踏みするような視線を向けた時、その隣にいた別の女性が小声で制したのが聞こえた。
「あの方は殿下の正妃よ。軽く見るものではないわ」
その一言に、過去の悪評が今度は自分を守る外殻になっているのだと知る。
王太子は何もしていない。ただそこにいるだけで、今まで彼自身にまとわりついていた“冷酷”という言葉が、他人の不用意な手を止める。
舞踏会の終盤、音楽が一段落した時だった。アルヴェリオンが不意にリシェルへ手を差し出す。
「行くぞ」
ただそれだけの言葉。舞踏会の流れとしては不自然ではない。だがリシェルの胸は別の意味で跳ねた。王太子がこうして手を差し出すのは、公の場では儀礼に見える。けれど内宮での彼を知った今、それだけでもないと分かる。
手を取る。指先が触れる。冷たいと思っていた手は、思ったよりも温度があった。
ゆっくりと歩き出す。音楽が再び流れ、広間の中央へ向かう。周囲の視線はまだある。だがそれ以上に、隣にいる人の呼吸の方が近い。
ふと、少し後ろでミレイナの声がした。
「ほらね」
セリティアが「静かに」と返し、クラリシアが半ば呆れたようにため息をつく。セレスティアは扇の陰で微笑んでいる。
王太子はそのやりとりを聞こえていないふりで無視した。けれどリシェルには、彼の口元がほんのわずかに、ほんのわずかだけ柔らかくなったのが見えた。
それが気のせいかどうか、確かめる勇気はまだない。
けれど、報われない日常の中では一度も見たことのなかった未来が、今は確かに目の前へ延びていた。
誰にも見られず、感謝もされず、当たり前のように机へ縛られていた日々は終わったのだと、ようやく少しずつ分かり始める。
すべてが急に幸せになるわけではない。覚えることは多いし、家との距離も完全には整理しきれない。王太子は相変わらず公の場では冷たく、セレスティアの指導は厳しく、ミレイナは容赦がない。
それでも。
今度は、自分が何かをやるたびに、それを見ている人がいる。評価する人がいる。必要だと言う人がいる。隣へ置くと決めた人がいる。
そしてその人は、外では冷酷な顔で王国を支え、内では何も言わずに手を差し出す。
踊りの最中、アルヴェリオンが低く言った。
「苦しいか」
「少しだけ」
「なら終わったら休め」
それは気遣いとしてはひどく短い。だがリシェルには十分だった。思わず、ほんの少しだけ笑ってしまう。
「……はい」
その返事に、彼は何も言わない。ただ手を離さなかった。
広間の明かりが、王太子の肩越しに揺れている。胸元を締めたドレスも、王都の視線も、まだ慣れない。けれど今はもう、袖の黒ずんだ執務服のまま、自分だけが家を支え続ける場所には戻らない。
冷たい噂に包まれた王太子の隣で、ようやく知る。
報われるということは、甘い言葉をもらうことではなく、自分の価値を正しく置かれることなのだと。
そしてその先に、思っていたよりも静かで、思っていたよりも確かな溺愛が待っているのだと。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
「姉の光と妹の影」という構図は、物語としてはとても古い形です。
社交界で輝く姉と、家の中で働く妹。
表に立つ人と、裏で支える人。
ですが、もし国家を動かす人間が相手なら――
光だけを見るより、影を見たほうが正しいこともあるのではないか。
そんな発想から、この短編を書きました。
リシェルは特別な才能のある天才ではありません。
ただ、毎日帳簿を見て、契約を確認して、領地が回るように働いていただけです。
そしてそれを、王太子アルヴェリオンは数字として見ていました。
一方で、セレスティアもまた決して敗者ではありません。
彼女は自分の矜恃を持ち、正面からその場に立てる人間です。
この二人が並ぶ構図は、作者としてもとても気に入っています。
暗い前半から、最後に少しだけ報われる話になっていれば嬉しいです。
少しでも楽しんでいただけたら、評価や感想をいただけると励みになります。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。




