9.災い転じて……
長谷田の声を初めて聞いた翌日の昼休み。弁当を食べ終えた後、俺はいつも通り山下に勉強を教えてもらっていた。
「……この主人公の行動理由なんて書いてなくないか?」
俺が頭を悩ませていると、肩が触れそうなほど近くに来た山下がワークを覗き込む。真剣に問題文を読む山下に、俺も無粋な感情は抱かない。
「えっと……ここの文を見るといいかな……」
「本当だ……こういう時って、答えになる文をどうやって探してるんだ?」
「それはね……まず──」
いつも通り説明を始めようとした山下だったが、俺の顔を見て山下の口が止まる。その時、拳二個分くらい先にある山下の目が揺れた。
「ん? どうした? 俺の顔になんかついてるか?」
「ううん……なんでもないの……」
顔を離し、首を回して窓の外を見る山下。彼女の行動を見て、俺は疑問符を浮かべた。
俺、何かしたか?
「俺が何かしたなら遠慮なく言ってくれ。謝るし改善もする」
「そうじゃなくて……町川くんの顔が近くにあって驚いたの」
「……? ……そうか。気を付けるよ」
お互いの息遣いを感じられる距離。それは俺たちにとって当たり前の距離感だった。
最初は俺もこの距離感に動揺したが、真剣に勉強を教えてくれる山下に当てられて、今となっては動揺することもなくなった。だからこそ、俺は山下の行動を疑問に思ったのだ。
山下さん。どうしたんだろ? 体調でも悪いのか?
キーンコーンカーンコーン。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、俺は先に席を立った。山下の様子は気になるが、次は体育。俺がグダグダしていると山下まで授業に遅れてしまう。
「……じゃあ、また来週」
「うん……」
去り際。俺が一瞬山下の後姿を見やると、彼女の耳は赤かった。
***
「よぉーし今日は卓球だ。二人一組でペア作れー!」
五時間目の体育。ペアを作ることになったが、高校では陰キャボッチで通っている俺は当然余る。そしてクラスメイトから怖がられている長谷田もまた、一人佇んでいた。
なんだかいいやつそうだったし、少し話してみるか。
俺は、ペアになって騒いでいるクラスメイトたちの間をくぐりぬけ、迷わず長谷田に声をかけた。
「長谷田。俺とやらないか?」
声をかけた瞬間、長谷田の鋭い目が俺を捉える。だが、そこに昨日までのような怖さは感じなかった。昨日、長谷田が本当は落としたハンカチをわざわざ届けるような優しいやつだと知ったからだろう。
「…………うん」
注意していなければ聞き逃してしまいそうなほど小さな声で頷いた長谷田。その声は柔らかく、彼の鋭い眼光も少し緩んだ気がした。
「じゃあ、ラケット取りに行くか」
長谷田が金髪の髪を揺らして頷く。相変わらず目つきは鋭く、高身長でイケメンという恵まれた容姿も持っている長谷田。だが彼の内面の一部を知った今では、近寄りがたいとは思わなかった。
真っ直ぐなやつだし、長谷田とは仲良くなれそうだな。
この時から、長谷田は俺にとって高校初めての男の友達となった。
***
わたし……どうしたんだろう……。
バドミントンの順番待ちをしていたわたしは昼休みのことを思い出し、目を伏せる。
昨日までは何ともなかったのに……どうしてわたし、急に恥ずかしいって思ったの……?
あの時、町川の顔を見た途端頬が熱くなって目を合わせられなくなった。わたしは自分の中に起きた正体不明の変化に動揺し、思考がグチャグチャになっていた。
どうしよう……来週から町川くんに勉強を教えられるかな……。……でも町川くんとお弁当を食べていた時は大丈夫だったから、たぶん近づきすぎなければ大丈夫……だよね?
「あの二人すげぇ……」
ふいに、体育館を半分に分ける緑色の防球ネットの向こう側から男子生徒たちの嘆息が聞こえた。
わたしはなんとなく彼らの視線を追い、長谷田と卓球を打つ町川の姿を見つけた。
すごい……町川くん、運動も得意なんだ。
平然とスマッシュを繰り出し、またそれを両者ともレシーブする。しかも時々回転もかけているようだった。そんなハイレベルな卓球を繰り広げる二人に、男女問わず体育館にいる生徒がざわつく。
「やっぱ長谷田君って普段怖いけどイケメンだよねー」
「えへへぇ……ワタシ長谷田君みたいな美形男子に殴られたぁーい」
「ったくあんたは……」
腐女子含む三人組が長谷田について談笑する。対して、二大美少女の一角を成す金城愛希を中心とした四人組は、町川の方を見ていた。
「長谷田もかっこいいけど、町川も運動してる時だけは目立ってるよねー」
「普段は教室にいるかもわかんないくらい存在感ないのにねぇ」
「でもぉ、なんだかんだ町川ってこの間の中間テストで学年十一位だったじゃん」
「そうなの? 全然気付かなかったわー」
「それは茜が順位表見てないからでしょぉ。……とにかくぅ、文武両道だし顔もブスではないからぁ、町川って案外優良物件っ? って話ぃ」
三人の友達の会話を聞きながら、金城はじっと町川を見つめていた。
「どしたん愛希? そんな顔して」
いつになく静かな金城に、金城の友達の一人──雪が首を傾げる。すると金城は、過去を思い出すような遠い目を町川に向けて、独り言のように呟いた。
「あたし、町川に告ろっかな……」
えっ……!?
思わずわたしは金城を見る。
片足を寝かせて崩した体育座りで頬杖をついた彼女は、何事もなかったかのように表情を変えない。対して金城さんの友達三人とわたしは、驚きに声も出せなかった。
「まっ、冗談だけど! あたしがオタクっぽい陰キャに告るわけないじゃん!」
そう言って金城は凍り付いた空気を、太陽のような明るい笑顔で溶かす。
「なんだーもう、脅かさないでよ!」
「だよねぇー」
よかった……。
金城の友達が重くなった空気を軽くしようと空笑いをする中、わたしも陰で胸を撫でおろす。けれどわたしは急に、自分の感情に疑問を抱いた。
あれっ……? わたしどうして、金城さんが町川くんに告白しなくてよかったって思ったの……?




