7.帰宅、母親(山下鈴視点)
町川くんとカラオケ……また行きたいな……。
わたし──山下鈴は町川春馬と別れた後、今にも崩れそうなボロアパートの一室の鍵を開けた。そして、息を呑む。
「お母さん……」
わたしが扉を開けると、居間とキッチンだけの狭い畳部屋には、青白い顔をした母がいた。母は虚ろな目でわたしを見ると、フラフラと立ち上がり台所へと向かう。
「おかえり鈴……今、ご飯にするわね」
「いいのお母さん! お母さんは病気なんだから無理しないで。ご飯ならわたしが作るから」
「鈴ごめんね……アタシがこんなだから、鈴には苦労ばっかり掛けて……」
「そんなことない。……それに退院するなら連絡して。わたしが病院まで迎えに行くから」
わたしは母を支えて布団に寝かせ、夕食の準備を始める。
母はわたしが中学を卒業するまで、女手一つでわたしを育ててくれた。けれどちょうどその頃、無理を続けていた母の体が悲鳴を上げ、重い病気を発症してしまったのだ。
そのせいで母は仕事を続けられなくなり、わたしがアルバイトしなければならなくなった現状に負い目を感じ、心まで弱ってしまった。
「お母さんの病気を完治させるには手術しかありません。その手術を受けるには……言いにくいのですが、一千万円必要です」
母の担当医の医者はわたしたちの経済状況を知り、母の容態を見て入退院を繰り返すことで、治療費が少しでも安くなるよう取り計らってくれている。それでもやはり治療費は高く、手術費が貯まるのはずっと先になりそうだった。
「もっと、わたしが頑張らなきゃ……」
少しでも早くお母さんに手術を受けさせてあげないと……。
わたしのスマホのカレンダー。そこには、毎週木、金、土、日、月曜日にメイフィー、平日全てに新聞配達と、アルバイトの予定がぎっしりと書かれていた。
***
「この肉じゃが、おいしい……」
カラオケに行った翌日の昼休み。わたしは町川が作ってくれた弁当を食べていた。
肉じゃがに使われているジャガイモは口の中で溶けるように柔らかく優しい舌触り。牛肉もさっぱりしていて食べやすく、どの具材にもダシや醤油が染み込んでいて、噛む度に程よい濃さの旨味が押し寄せてくる。
「それならよかった。山下さんは薄味の方が好きそうだったからそうしてみたんだけど、口に合ったみたいだな」
「うん。わたし、今まで食べた肉じゃがの中でもこの肉じゃがが一番好き……」
「そんなにおいしいか?」
褒められて照れているのか、町川は視線を逸らす。視界の端でわたしを見る町川に、わたしはもう一度頷いた。
「うん。おいしい……」
他愛のない友達同士の会話ができて、わたしはそれだけでうれしかった。
小学生の時も中学生の時も、家事の手伝いや勉強に追われていたことと、わたしの乏しい表情が相まって、友達と呼べる人はいなかったから。
だから、この関係が友達なのかはわからないけれど……それでもこうして町川と話していられるだけで、わたしはうれしかった。
***
放課後。掃除当番だったわたしは、一階の端にあるゴミ捨て場に来ていた。
今日も町川くんのお弁当、おいしかった。……使っている食材はわたしとあんまり変わらないのに、どうしてこんなに味が違うのかな……。
一週間前に始まった町川と過ごす昼休み。その時間は、勉強と家事とアルバイトに明け暮れる日々を過ごすわたしにとって、唯一の息抜きになっていた。
メイドカフェでわたしを見た相手が、町川くんみたいに優しい人でよかった……。
今では心からそう思う。
わたしはゴミ捨てを終えて、ゴミ捨て場を出て廊下を歩く。するとふいに、トンッと誰かの手がわたしの肩を叩いた。わたしはすぐさま振り返り、わたしの肩を叩いた相手に警戒心を向ける。
「わたしに何か用ですか? 長谷田くん」
わたしの肩を叩いた相手は金髪で目つきが鋭く、百八十センチ近い長身の長谷田亮。わたしと同じ、一年Cクラスの生徒だ。
「…………」
長身の長谷田はわたしを見下ろし、無言のまま鋭い目つきを向けてくる。
彼は教室ではいつも無言で、クラスの誰も彼の声を聞いたことがないという。
高校最初の授業中、彼に発言を迫った教師は彼に睨みつけられ、腰を抜かしたことさえある。それ以来、彼に発言を求める教師も話しかける生徒もいなくなり、クラスメイトたちから恐れられていた。
「用がないのなら、わたしは失礼します」
わたしは、しばらく待っても反応がない長谷田を置いて教室に戻ろうとした。その時──。
ドンッ! っと壁を叩き、わたしの目の前に突き出された長谷田の腕に進路を遮られた。
「……っ!? どういうつもりですか?」
わたしは無表情のまま、長谷田の鋭い目を正面から見返す。だが、わたしを壁ドンする形で見下ろす長谷田の鋭い目つきに、わたしの体は小刻みに震えてしまう。
怖い……でも、急がないとアルバイトに間に合わない。
「わたしは急いでいるんです。……その手を退けてください!」
震える手を握り、わたしは精一杯声を絞り出した。だが長谷田は引かなかった。
「…………」
それどころか、いっそうわたしににじり寄り、その眼光は睨むだけで人を殺せそうなほどに鋭くなった。
わたしは思わず一歩下がろうとしたが、壁に阻まれる。
どうしたらいいの……。
わたしは長谷田の眼光に耐えられず下を向く。その時、誰かが長谷田の手首を背後から掴んだ。
「おまえ、何してる……!」
……っ!?
「町川くん……」
わたしは泣き出しそうになりながら、町川の名前を呼ぶ。長谷田の後ろで静かに怒りを滲ませている町川の姿は、いつになく頼もしそうに見えた。




