27.山下の母親
「鈴っ!」
山下が住む古いアパートの前まで来ると、覚束ない足取りでアパートの階段を降りていた女性が山下の名前を呼んだ。
「お母さん……!」
山下は焦った声を上げ、お母さんと呼んだ女性に向かって駆け出す。そして、母親の体をハグの要領で正面から支えた。
「お母さん。どうして外に出てるの……? お母さん病気なんだから、無理しないで」
「お母さん、鈴のことだから無理してアルバイトに行くんじゃないかって心配だったの。……鈴が帰ってきてくれてよかったわ」
山下母は骨ばった手、やつれた頬で山下の温もりを抱きしめた。
「お母さん……」
……俺はもういらないな。
山下親子の心温まるやり取りを見て、俺は邪魔にならないよう何も言わずに去ろうとした。だが一歩遅かった。山下母と目が合ってしまったのだ。
「もしかして、あなたが鈴を送ってくれたの?」
「……はい」
観念して、俺は苦い顔をしながら山下たちのいるアパートの階段を上がる。すると、山下に肩を支えられた母親は俺をまじまじと見つめた。
「あなたもしかして、鈴の彼──」
「違うよお母さん。町川くんはわたしの友達……」
「そお……?」
食い気味に否定する山下の様子に、母親はクスクスと笑う。それから山下母は俺に微笑みかけた。
「少し上がっていかない? 鈴を送ってくれたお礼がしたいわ」
「お母さん。うちには何もないんだし、町川くんに迷惑かけちゃうよ」
慌てたように母親を説得しにかかる山下。しかし山下母は、山下の様子も意に介さず俺に話しかけた。
「そんなことないわよ。ね、町川くん?」
山下母が見せた微笑みは、山下が時折見せる陽だまりのように明るく温かい微笑みによく似ていた。
ていうか、この流れじゃ帰るって言えないな……。
気まずいような、うれしいような。そんな複雑な心境で、俺は山下の方を見た。
「俺が上がってもいいのか? 山下さんも疲れてるだろ?」
「えっと……」
「ほら鈴。折角なんだから上がっていってもらいましょ。アタシも学校で鈴がどんな風に過ごしているのか聞きたいし」
「やめてよお母さん……」
目を泳がせ迷う山下に、母親はテンション高めな声で後押し。すると山下はほんのりと頬を赤くし、母親の背を押して階段を登り切る。それからチラリと俺を一瞥した。
「町川くんも……来る?」
「ああ……行く……」
すぐに目を逸らす山下に、俺は口ごもりながらも迷わず頷いた。
***
「山下さんはいつも、クラスの誰も解けない難問でもスラスラ解いてるんですよ」
「そうなの? すごいわね鈴」
俺は山下家に招かれ、山下が学校でどう過ごしているかの話をしていた。キッチンが併設した狭い畳部屋だけの小さな家。そのキッチンで俺は、山下母と並んで、山下と母親の分の夕食を作っていた。
「はい。この間の中間テストも学年一位でしたからね」
俺はニンジンを切り終え、畳が敷かれた居間を見る。そこでは、さっき山下母と二人がかりで休むよう説得した山下が、静かな寝息を立てて寝ていた。
「ねぇ町川くん。鈴が疲れている理由ってどこまで知ってるの?」
冷凍庫から米を電子レンジに入れ、山下母は暗い声で問う。俺は切った野菜をフライパンで炒めながら、ありのままを答えた。
「山下さんがメイドカフェと新聞配達、それにコンビニのバイトをしていることと、ほぼ毎日バイトしてることは知ってます」
「そうなの……じゃあ町川くんは、どうして鈴がそんなに働くか知ってる?」
「家が貧乏だから、とは聞きましたけど……」
それだけじゃここまで働かないよな……。
メイドカフェのバイト代はかなり高かったはずだし、暮らすだけならメイフィーでのバイトだけでなんとかなるずだ。
ってことはやっぱり……。
俺は、山下がさっき「お母さん病気なんだから」と言っていたことを思い出し、山下母を見た。
「そうよ。鈴があんなに働くのはアタシのせい……うちには父親がいないのに、アタシが病気で働けなくなってしまったから、鈴が働かなくちゃならなくなったの……」
食器をちゃぶ台に並べ、寝ている山下の顔を申し訳なさそうに覗き込む山下母。彼女は俺が野菜炒めを盛りつけ終わるのを待ち、続きを話した。
「アタシの病気は、月に一週間くらい入院して、毎日薬を飲んでいれば悪化することはないの。症状も手足に力が入りにくいだけで、体調が悪くなったりはしないのよ。けれど、その医療費が高くてね……」
「そういうことだったんですね……」
俺は何と言葉をかければいいか分からず、とりあえず相づちを打つ。それから山下の分の野菜炒めを冷蔵庫に入れ、山下母の分の野菜炒めをちゃぶ台に運んだ。
「それだけじゃないの。鈴、アタシの病気を治すための手術費まで稼ごうとして……何度言っても無理をやめないのよ」
「それは……」
それは確かに、優しくて頑張り屋な山下さんらしいけど……少しは自分のことも考えてくれよ……!
眠っている山下の顔を見て、俺はギリッと奥歯を軋ませた。そんな俺の様子を見ていた山下母はヨロヨロと覚束ない足運びで立ち上がる。
「大丈夫ですか?」
山下母は、俺が支えようとすると首を振ってそれを拒否し口を開いた。
「ねぇ町川くん。図々しいお願いだとは分かっているけれど、今日はうちに泊まってくれないかしら? 鈴が起きたら、アルバイトを減らすよう説得するのを手伝ってほしいのよ」
そう言って山下母は俺に向かって、一筋の希望の光にすがるような目を向けてくる。
「分かりました。俺でよければやらせてください」
「ありがとうね……」
俺が迷わず快諾すると、山下母の表情は安心したように明るくなった。
……けど、なんでだ?
「ですがどうしてそんなに俺を信用するんですか? 今日会ったばかりなのに」
その問いに、山下母は山下の寝顔に愛情たっぷりの柔らかい視線を向けた。
「それは今日、町川くんが鈴と一緒に帰ってきてくれたからよ」
「はあ……?」
俺が山下母の言うことを理解できないでいると山下母は、ふっ、と軽く笑った。
「この子のことだから、倒れた後も最初はアルバイトに向かおうとしたんじゃない?」
俺が無言で頷くと、山下母が続ける。
「それを町川くんが止めてくれたのよね? それはすごいことなのよ。この子って頑固でしょう? だからきっと、アタシがアルバイトを休むように言っても無理して行ってたと思う。……だから町川くんだったら、鈴にアルバイトを減らすように説得できるんじゃないかと思ったの」
「買いかぶりすぎですよ。……一応一つ考えはありますけど、山下さんを説得しきれるかは分かりませんよ」
「アタシからしたら、町川くんこそ自分を低く考えすぎている気がするけれど?」
そう言っていたずらっぽく微笑む山下母に何も言い返せず、俺は苦い顔をするしかなかった。
こういう人と話すのって苦手なんだよな……山下さんのお母さん、なんか俺の母さんに似てる……。
一人暮らしをする前はよく母親にウザ絡みされていた。その記憶を思い出し苦笑いしていると、山下母はニコッと微笑んで軽く手を叩いた。
「さあ、暗い話はもうお終い。アタシ、町川くんと鈴が仲よくなった時のことを聞きたいわ」
そうして俺は山下が起きるのを待ちながら、山下母に山下との今までを話した。




