26.保健室
「うーん……これはただの過労ね。疲れて眠っているだけよ」
風や病気じゃなくてよかった……。
俺は保健室の養護教諭──梅村先生の話を聞いて肩の力を抜く。けれど、梅村はベットに寝かせた山下を見て目を細めた。
「相当無理していたようね。彼女、ろくに眠ってなかったんじゃないかしら」
「そうですか……」
俺のせい、だろうな。俺が勘違いさせたせいで山下さんは、俺と金城さんに関わらないようにずっと気を張っていたから……。
「大丈夫よ。彼女はすぐ目を覚ますわ。それからちゃんと休めばすぐ元気になる」
俺がよほどひどい顔をしていたのか、梅村が優しく声をかけてくれる。それから梅村は保健室にある電話を手に取った。
「私はその子の親に連絡するけれど、あなたはどうするの? 彼女が起きるまで待つ?」
「はい。待ちます」
「そ。若いっていいわねぇ……」
三十歳を超えている梅村は、モデルのような体系をしているにもかかわらず結婚していないらしい。心底羨ましそうに俺と山下を見比べ、ため息を吐いた。
「もしもし。私は私立春歌高等学校、養護教諭の梅村と申します。そちらは山下鈴さんのご家族の方でお間違いないでしょうか?」
「はい……違い……りません。鈴に何か……たのでしょうか?」
山下のベットの横に座っている俺は、受話器から聞こえる山下の母親の声を聞いていた。彼女の声は元気がなく、それでいて、娘に何かあったのかと不安そうに震えている。
山下さんと同じで、優しい声だな。
「はい。実は娘さんは──」
梅村が事情を説明し始めると、俺は眠っている山下の顔に目を向けた。するとその時、彼女の瞼がピクピクと動いた。
「んん……」
山下はかすかな声を漏らし、徐に目を開ける。状況がわからないのか、山下が半開きの目で周囲を見回すと、俺の姿を捉えた。
「町川、くん……?」
「山下さん……もう、起きて大丈夫なのか?」
よかった……。
俺が声をかけると、山下ははっきりと意識を取り戻し、跳び起きた。
「町川くんわたし、どのくらい寝てた?」
「あー、五分くらいじゃないか?」
「ごめん町川くん。急がないと……」
「山下さん! 今日はもう休んだ方が──」
焦った声を漏らし、慌てて靴を履く山下。彼女はすぐに保健室を出ようと立ち上がる。だが、受話器を押さえた梅村が、患者を診る医療従事者としての厳しい表情を見せ、山下を制止した。
「待ちなさい。あなたは過労で倒れたのよ。今あなたのお母さんに電話しているから、無理せず迎えに来てもらいなさい」
「えっ……? それは、ダメです……! 母は病弱で……わたしなら、一人で帰れますから」
今にもまた倒れそうなほど顔を蒼白にした山下が必死に訴える。そんな山下の顔を見て、梅村が眉間を摘み、悩んだ末に口を開いた。
「……わかったわ。あなたのお母さんには家で待っているように言っておく」
「ありがとうございます……」
頭を下げ、山下は梅村の脇を通り過ぎて保健室を出る。その後、梅村は俺を見た。
「あなたが、彼女をちゃんと家まで送り届けなさい」
「わかってます」
俺は梅村に言われるより前に荷物を掴み、走り出していた。
***
「山下さん。今日は一緒に帰っていいか?」
学校の玄関で山下に追いつくと、俺は山下の隣に並びそう言った。
「町川くん……ごめんなさい。……わたし今日、アルバイトがあるの」
「なに言ってるんだ山下さん! 過労で倒れたんだぞ。今日くらいバイト休んでもいいだろ」
「ううん。よくないよ……」
校門を抜けた次の曲がり角。山下は、彼女の家とは反対方向──バイト先のメイフィーがある方へ曲がろうとする。
「待ってくれ山下さん!」
俺は山下の手首を掴み、バイトに向かおうとする彼女を引き留めた。
「山下さんの家が貧乏だってのは前に聞いたけど、一日くらい休んでも暮らせはするだろ? だったら、山下さんはもっと自分を大事にしてくれ!」
「でも、わたしは──」
「山下さんのお母さん、電話ですごく心配そうな声してたぞ」
「…………」
山下の瞳が揺らぐ。俺の言葉を聞いて山下は迷い、足を止めた。
「生活のためのバイトとはいえ、無理して山下さんが倒れたら意味ないだろ……! ……頼むから、今日はこのまま家に帰ってくれないか?」
俯いて考え込んでいた山下はしかし、手首を掴んでいた俺の手を振り払った。
「ごめんなさい町川くん……やっぱりわたし、メイフィーに行くね……」
顔を背け、山下はそのまま走り去ろうとした。
ダメだ……俺には山下さんを説得できない……。
遠ざかる山下の背中を見て、俺は拳を握り締めた。
けど、山下さんには休んでもらいたい。これ以上、無理しないで欲しい!
俺は自分勝手な衝動のままに走り出し、山下の前に回り込んだ。すると山下は俺を避けようと右に逸れる。
「山下さん悪い……! 許してくれ」
「ひゃっ……!? 町川くん!?」
俺は、俺を避けようとした山下の膝と肩をすくい上げ、お姫様抱っこした。驚き、顔を真っ赤に染める山下に、俺は投げやりな声で応える。
「ああそうだ! お姫様抱っこだ! 悪いが山下さんがメイフィーにバイト休むって連絡しないなら、このまま山下さんの家まで行くからな」
「……っ!」
俺はなるべく山下を見ないようにしながら、山下の家に向かって走り出す。
めっちゃ恥ずかしい……! 早く折れてくれ。
俺が恥ずかしさに耐えられず山下を下ろすのが先か、山下がバイトに行くのを諦めるのが先か。全身が熱を持ち、羞恥心から来る冷や汗をダラダラと流しながら、俺は走り続けた。
前に二人で遊びに行ったときに別れた十字路が見えてきた時、俺は山下の顔に目を向ける。すると、紅潮したままの彼女はか細い声を上げた。
「……わかったから。休みの連絡するから、降ろして……」
そう言うと山下は、俺から目を背ける。
「……っ! ……悪かった。……降ろすぞ」
「うん……」
立ち止まり山下を降ろす。そのあとはもう、俺は山下を直視することができなかった。
「……連絡、するね」
「ああ……」
ぎこちない会話の後、隣で山下の呼び出し音が鳴る。それから山下がバイトを休むことを告げると、通話が終わった。
「えっと……じゃあわたし、帰るね」
互いに目を逸らしたまま、山下が歩き出そうとする。その瞬間俺は、不安に駆られて山下を呼び止めた。
「待ってくれ山下さん。今日は家まで送らせてくれないか? また倒れないか心配なんだ」
「……っ」
山下の肩が跳ね、彼女は足を止めた。その時初めて、俺は意を決し山下に顔を向ける。すると山下も俺を振り返り、目が合った。
なんでこんなに恥ずかしいんだ……。
俺は今すぐにでも山下から目を逸らしたい。その凄まじい衝動を堪え、山下の返事を待つ。対して山下はすぐに目を逸らし、首元の髪を撫でつけた。
「……いいよ」
風に靡く黒髪を押さえながら、山下が呟く。それを聞いて俺は自然と表情を緩め、微笑んでいた。
「そうか……ありがとな。山下さん」
「うん……」
そうして、俺たちはゆっくりとした足取りで山下の家まで歩いた。




