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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ヒトの形をした魚、或いは魚の形を持ったヒト

作者: 井田 いづ

人魚を食べると不老長寿になるんだって。

「人間って美味しいのかな」

 ミナ先輩は突然、そんなことを呟いた。


 八月、夏休み。

 人気(ひとけ)のない校庭で、蝉が五月蝿く鳴いている。まさしく蝉時雨──それはもうひどい喧騒(けんそう)が窓越しに降り注ぎ、ただでさえ効きの悪い冷房がもはや止まってしまったのではないかと錯覚するほどだった。

 ほんの申し訳程度にしか空調が効いてくれないこの旧校舎は僕と先輩の貸切状態だった。いくら空調が壊れていたって、一番校門に近いのがこの建物だった。中途半端な時間にぶらりと来て、テキトーに勉強会をして帰るには、中々に丁度よいのだ。

 机の上に置いていたペットボトルには大粒の水滴が溜まって、まあるく机にも水溜りを作っている。先輩はその水を指にくっつけて、机に魚の絵を描く仕草を見せて、また同じことを呟いた──今度は質問の形式で。

 僕は少しだけ逡巡して、

「何か悪いものでも観ました?」

 そう聞いた。人間食(カニバリズム)なんて、実生活で聞く単語であるはずもない。

「悪いものって、失礼ね。私の観るホラーはどれも良作なのに」

「だって……」

「私は真面目だよ」

 ここでようやく、僕はノートから視線を上げた。ミナ先輩は既にボールペンを置いて、ノートを閉じて、窓の外をぼんやりと眺めていた。随分と長いことそうしていたのか、白い肌には微かに頬杖の痕が見える。


──もう宿題は終わったのだろうか。

──今日の勉強会も、先輩からいきなり招集してきたのに。


 そんな野暮なことを突く前に、僕は先ほどの会話の方に意識を戻した。

「……人間は不味いんじゃないですか」

「やっぱり?」

「当然、食べたことなんてないんで知りませんけど」と断ってから、僕はクルクルと手元でシャープペンシルを回した。気を紛らわせる。

「人間って雑食だし、肉食だし、いかにも臭そうじゃないですか」

「ふふ、まあ、普通はそうだよねえ」

「……先輩、いくらなんでも食べちゃダメですよ」

「えー、どうしようっかなあ」

「僕は真面目に言ってるんですからね」

「冗談だって。真面目にね」

 そう不真面目に笑う先輩は、普段通りに奔放だけれど、それでも少しだけ異質だった。何がとは言えないが、見知ったものとよく似た違うモノと対峙しているような、そんな感覚に襲われて、慌てて頭から振り払った。

「……さっきの。新作の映画の話とかですか」

「ううん、そういうのじゃないよ」

 その目が細められて三日月を描く。そう聞いてくれるのを待ってましたとばかりの笑顔を咲かせる。

「違うんですか」

「うん」

「じゃあ、なんだって突然……」

「あのさあ」

 先輩は蠱惑的(こわくてき)な笑みを浮かべた。思わず僕の頬も弛みかける──そのまま彼女は(とろ)けそうな声で続けた。


「私、人魚食べたんだ」


──は?

 僕は固まった。頭の中で言葉がバラバラになって彷徨う。

「ニンギョ──?」

「もう、人魚だよ、人魚。知ってるでしょ、マーメイド、人の魚って書くやつ。私、その人魚を食べたの」

「人魚を……」

「それでさ、ふと考えて──人魚って人なのかな? 魚なのかな? 私が食べたものは一体なあに?」

 僕はメガネがずり落ちるような錯覚を覚えて、慌てて中指で鼻当てを支える。それだけ、突拍子もない話だった。

 人魚だって! まさか! この二十一世紀、令和の時代に! 僕はひどく間抜けな顔をしていたと思う。ミナ先輩はぷっと小さく吹き出した。僕はむっとして口を尖らせた。

揶揄(からか)ったんですか」

「まさか、本当の話! 昨日ね、お刺身で食べたんだあ」

「お刺身で、人魚を? ……最近はとんでもない商品を売ってるんですね。何処のスーパーですか。それとも珍味専門レストランとか」

「どっちもハズレ。叔父さんが釣ってきたの」


 僕は絶句した。仮に人魚の姿であるならば、なぜ叔父さんは連れて帰ってきたのだ。海に帰せばいいものを……

「パパもママも気持ち悪いから捨てちまえって言ってさ、持ってきた叔父さんも結局は変な深海魚だって捨てちゃうから、勿体無い」

 ミナ先輩は頬を膨らませた。ついでに僕の好奇心も膨らんだ。

 ナポレオンフィッシュのような見た目の魚なら、まあ人によっては人面魚と言っても理解はできる。或いはオオサンショウウオだとか、ジュゴンだとか。……ジュゴンは流石にまな板に乗らないか、と一人でぐるぐる考えて、やめとけばいいのに、ついつい聞いてしまう。

「それ、どんな魚でした?」

「うーん、お猿さんみたいな感じかな? よくアニメで見るような美人な人魚とは全然違ってさ、確かにママたちが言ってたみたいな深海魚にも見えなくもない感じの魚。でも、私には人間にも見えたよ。まあるい頭に小さくて丸い目が二つあって、潰れた鼻があって、尖った細かい歯がびっしり生えた大きめの口があって、鋭い爪のある手もあって。下の魚部分はきらきらして気持ち長めで──」


 つい言われた言葉通りに想像する。それがまな板の上で身をくねらせて……うへえ、気味が悪いと顔を顰めた。

「って、家族総出でそれを食べたんですか⁈」

「あはは、さっきも言ったじゃん、私だけだよ。それもほんの一口。叔父さんったらちゃんと捌かないでさぁ、中途半端に二、三切れ切ってから捨てちゃうんだもの。こっそりくすねて、お醤油とワサビで食べちゃった!」

 てへ、と可愛らしく舌を出す先輩の無謀さに、思わず僕は天を仰いだ。

 だって相手はよくわからない魚なのだ。毒だってあるかもわからないし、寄生虫だっているかもしれない。せめてちょっとネットで調べるだとか、面倒ならSNSで写真付きで誰かに聞いてみるだとか、そうしてみてからでも遅くなかったろうに!


 未だ単なる先輩と後輩という関係であるとは言え、ミナ先輩と僕とは小学生からの仲、ある種姉弟のような関係ですらある。常々彼女には振り回され、ついでに突拍子もないことを言い出した後始末を請け負ってきたが、こういったパターンは初めてだった。それでも、そういえば元から彼女は無謀な人であったなと思い至るのに時間はかからなかった。

 僕はゲンナリして、深海魚だか人魚だか、未知のそれについてもう少し聞くことにした。実際、ただの魚を大袈裟に話してるんじゃないか、なんて半信半疑だったからだ。それに素人調理の魚だ、先輩が食当たりなんてしたら大変だもの。


「……それで、その人魚。美味しかったですか」

「ううーん、私はそんなに好きじゃない味だったかな。見た時思ったほどじゃなかった」

「なんか腐ってたりとか」

「臭かったけど、腐ってはなかったよ、切られてもぴちぴちしてたもん」

「お腹を壊したとか、気持ち悪いとかは」

「ないない! 超健康体!」

「大体そんなよくわからないもの、なんで食べたんですか……」

「なんかねぇ、いざ目の前にしたら妙に美味しそうだったんだよねえ。赤くて、甘そうで、さぞ美味しいだろうなあって。なんて美味しそうなんだろうって」

あんまりうっとりと先輩が言うもんだから、僕は苦笑した。いやいや、猿っぽい深海魚が美味しそうなんて……。

「次からはせめて僕には相談してくださいね」

そうやって交わされる、普段通りの他愛のない冗談のはずなのに。

 何故かぷつりと会話が途切れた。

「──うーん、次はないかな」

少し間が空いて紡がれたのは、寂しげな声。

 彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。


「もうすぐね、私も人魚になるの」


 僕は冗談だろう、と笑い飛ばそうとした。人魚を食べたら人魚になる? 聞いたこともない。今回の冗談は凝っていて中々面白かったですよ、なんて言おうとして。

 けれども、そんな僕の笑みは先輩の声で遮られてしまう。彼女は細い指先で、宙に八、〇、〇、と書いた。

「八百年だって」

「……は?」

「八百年か、一千年か、人魚を食べて生きた人がいたんだって」

「今度はまた、なんの話ですか」

「人魚を食べると人間、不老長寿になるんだって。図書館にも漫画の本があったよ。知らない?」

「不老不死、じゃなくて?」

「そう、長寿。千年近く生きられるんだって──ね、本当かな。私も知らなかったんだけど、人魚が教えてくれたんだよ」

「えっ、さ、魚が喋るんですか……流石に、いや……」


 困ったことに、先輩は至極真面目に話していた。それは僕にも伝わって、だからこそ困惑した。彼女の言わんとしている事がわからない。何を伝えたいのか、それとも言葉そのままの意味で受け止めるべきなのか。

「なんて言えばいいのかな。最初は隙間風が抜けるような音にしか聞こえなかったんだけどさ、人魚を食べてから、それが声に聞こえるようになったの。まな板の上、ゴミ袋の中、人魚はずうっと喋ってた」

 先輩はそう言うと、おもむろにスマートフォンを弄り始めた。タップ、スクロール、スクロール……一分も経たずに目の前に置かれたそれに表示されるのは、一枚の黒い写真。一面塗りつぶされた黒、黒、黒。海の底は、きっとこんな風に真っ黒なのだろうか──ふと、そんなことを考えた。

「見える?」

「……」

「これがその人魚なんだけどね」

 先輩は甘く微笑んでから、くるくると携帯を弄んだ。黒に塗りつぶされた画面には、先輩しか映らない。

「たすけてぇ、たすけてぇって、すごく弱ってた。あんまり可哀想だったから、ママの目を盗んでゴミ箱から拾って、手当てして、川に返したの。家の裏の川でいいって言うから、夜中にこっそりと。その時に教えてくれたんだ」

 先輩には、その黒い画面の中に何かが見えているらしい。愛おしそうに虚無をなぞる指先に、僕はぞわりと背中が粟立った。


 そこまで来て、ようやく僕は先輩の風体が変わりだしていたのに気が付いたのである。

 楽しそうに笑った口の中、健康的だった歯の代わりにずらりと生えた細かいギザ歯。アレは肉食動物の歯だ。一見つるりとした、血色の悪い肌。爪は鋭く、硬くなっている。目はまん丸で、昏い色。まるで、まるで、先輩の語った人魚のそれだった。

「せ、先輩──」

「ただね、不老長寿って言っても今のこの身体じゃあ割と厳しいんだって。人間の身体は弱くて脆いから──人魚が言うには、手っ取り早く力を強くするには近くの人間を食べちゃうのが丁度いいらしいんだけど……元が人だから、馴染むんだって」

 それで、最初の質問をしたのだと、ミナ先輩は言った。どうせなら強くなっときたいじゃん? なんて甘えるように見上げた瞳が僕を捕らえる。

「だ、ダメです」

「え、ダメ?」

「や、やめてくださいよ……食べるなんて」

「けち。キミってば昨日の人魚と同じくらい、美味しそうなのに」

 先輩はちろりと舌を覗かせて、唇を舐める。

「……なんてね。お別れの前にキミをほんの少し食べさせて貰いたかったんだけど」

「冗談じゃないですよ!」

「あはは、ごめん。流石にキミを食べるのは冗談だよ。その為にキミを呼んだんじゃないもん」

 目眩がひどい。目の前の人が信じられなくて、取り敢えずこの場から離れた方がいい気がして。けれども長い年月をかけて友情を築いてきた彼女を無闇に否定もしたくなくて。僕は頭を抱える他なかった。

 そんな僕に、彼女は何かを差し出した。

 乾き切った、赤黒い、何かの欠片。脈打つように、微かに揺れて見えるのは錯覚か。

「ね、私と一緒に行かない?」

 甘く誘う声に、口の中がからからに乾く。僕は彼女の手の中にあるモノから目を逸らした。それが何か、直感的にわかったから。

「……ぼ、僕は先輩の非常食ですか」

「ううん、違うよ。二人で一緒に行くの」

「なんで……」

「寂しいから」

「……」

「本当にこれから八百余年があるとして、その中にキミがいないのは、考えただけで寂しいからだよ」

「あ、あはは、また……」

 僕は笑って誤魔化そうとする。それを真っ直ぐに否定するミナ先輩。彼女は「寂しいの」と繰り返した。

 どうして、そんな表情をするのだ。

 どうして、そんなことを今言うのだろう。

 これが普段(いつも)なら、僕は跳んで喜んだ。大好きな先輩から必要とされて、きっと喜んだ。

 今も嬉しいけれど、それよりも困惑が勝る。

「……きっとすごく寂しい」

 だから一緒に来て欲しいと、彼女は言うのだ。静かだけれど真面目な声に気圧される。

 僕は落ち着かない気持ちで聞くしかない。

「行くって、何処まで」

「うんと未来。どこかかなたまで」

「……もしかして、先輩、何も決めてない?」

「うーん、流石にバレた? 昨日の今日だもん。……でもずっと一緒は本当だよ。本当にする」

「……また適当な」

 僕は溜息混じりに笑っていた。先輩はわざわざプロポーズをするみたいに跪いて、手にある赤黒いモノを僕に差し出してくる。それがまた、なんだか可笑しく思えてきて。


──そうだ、ここに居るのは見知らぬ人魚なんかではなくて、よく知っているミナ先輩だ。


 相手がミナ先輩なら、僕は美味しそうなそれを大人しく受け取ってしまうしかない。僕はそういう風に出来ている。

 ミナ先輩はもう一度手を差し出した。

「行こう」

「……先輩はいつもいきなりすぎます」

「──我儘(わがまま)でごめんね」

「そうですよ」

「でも、行かなきゃ」

「すぐに?」

「キミは、今すぐにじゃなくてもいい。八百年もあるから、少しなら、私待つよ。でも、きっと来てくれるよね」

「僕は……」

「……ね、海まで連れてって、くれる?」

「────わかり、ました」

 差し出された手。そこに触れた指先が異様に冷たくて驚く。それでも、しっかりと繋ぐと不思議と温かいような気もして。

「キミならそう言ってくれるって思った」

 先輩は眩しくはにかんだ。

 結局、懇願(こんがん)されるまま、僕は先輩と一緒に校舎を飛び出していた。


 陽が傾く。

 途中、もう歩けなくなったとうたう先輩を背負いなおして、どうにかこうにか一番近くの海辺までやってきた。夕方とはいえ、夏。ここまで来るのに、喉はカラカラ、汗はびっしょり。二人して疲れ果てて、防波堤の上に並んで座る。

 ここに来るまでに、ミナ先輩はすっかり静かになっていた。何も言わずに、にこにこと、楽しそうに微笑んでいるだけである。

 先輩が言葉を紡げる最後の最後に語った夢物語が頭のどこかで木霊する。


──人魚姫は人になって、王子様の住む世界で暮らしたんでしょう。

──それなら王子様が人魚になって、人魚姫の住む海で幸せになる話があっても、素敵じゃない?

──いつまでも待つから、海には毎日来てね。

──ちゃんと迎えにいくからね。


 深い、深い、海の底。

 何かの声が、呼んでいた。

 僕の掌の中で赤いそれが微かに震える。

 二人並んで誰そ彼時(たそかれとき)に沈む海を眺めていた。けれど、それも束の間。

 ふわりと隣で影が動いて。


 ぱしゃん!


 水を跳ねさせて、ミナ先輩は海に飛び込んだ。水面で振り返る。目が合う。彼女は僕に向けて、手を振ると、高い風のような音を発した。


 ピィー、キュィー。


 その意味を図りかねている間に、彼女は波間を縫うように泳ぎ始める。綺麗に泳ぐその爪先が、きらきらと最後の陽の光を反射して虹色に光る。まるで魚の鱗のように、未知の宝石のようにきらきらと複雑に光っていた。

 虹色の人魚は、自由奔放に海を駆けていく。自由の色が黒い海を深く深く切り裂くように潜る。

 僕の手から、人間の世界からみるみる離れていく。


──きらきら、きらきら。


 零れ落ちた。

 僕は吸い込まれるように、水底を覗き込んでいた。掌の中で肉片が暴れる。虹の光が誘うように煌めく。大好きな先輩が呼んでいる。僕は夢中になって人魚(せんぱい)の軌跡を追っていた。その背中から目が離せなかった。


──ああ、なんて、美味しそうな……。


(了)

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