第一章(1)
1
はるか遠くの昔。
日本は、まだ一つの国家ではなかった。人々はそれぞれがそれぞれの部族で各地に固まり、独自のクニやムラが造られていた。
そんな時代のある地方に、ひとつのムラがあった。人間の数は二千人にも満たず、他のクニに存在を伝えるような名称もない小さなムラであったが、恵まれた土地で人々は幸せに暮らしていた。
周囲の他のムラやクニに一目置かれるような権力のあるムラではなかったものの、長の家系が代々ムラの全体を取り仕切り、有能な首領たちがその脇を固め、ムラ全体の統率をとっていた。政治も彼らを中心に行われていた。
政治を行う上で、重要なのが祈祷師の存在である。祈祷師は、その名の通り神に祈りを捧げ、神の声を聴いて皆にそれを伝える。それがムラの今後の方針を決めることもしばしばだ。故に祈祷師は、このムラの未来を担う、真の統制者といってもよかった。そして、その役目は、代々年端もいかない少女が背負うのが通例だった。
いま、ムラを治めるという大役を担わされているのは、マオという名の巫女である。マオは幼い頃から、不思議な力があるとムラでも噂の少女だった。近い将来、祈祷師の役を担うのではないかとも言われていた。
実際、前に祈祷師を務めていた巫女が12歳という若さで亡くなった際、その後継者にマオは任命されることになった。この時、彼女はわずか9歳。
当時、ムラではとある流行り病が蔓延していた。先代の巫女もその犠牲になったのだ。マオは最初の祈祷を行った後、長にこのように言った。
「ここから日の昇る方角にまる2日ほど進んだところに、あたり一面ススキが生い茂る野原がある。そのススキで大きな輪をつくり、人々にそこをくぐらせよ」
長はその言葉を受け、遣いの者に調査に行かせると、確かにその日数かけてその方角に進んだところにススキ畑があった。そのススキを集めて、人が通れるほどの輪っかをつくり、ムラの人たちにそれをくぐらせたところ、病はぴったりと収まった。
それ以降も、作物の不作や水不足、他のムラやクニとの軋轢などさまざまなことが起こったが、マオの言に従うとそれらの問題はすぐに解決した。マオの大いなる祈祷の力にムラの人々は驚き、また大いなる救世主が現れたと喜んだ。ムラは以前よりも平和になり、次第に豊かにもなっていった。
マオが祈祷師になってから5年――。
人々の集まる集落からほど離れた場所に、一つの木造の建物があった。
ここは、マオの祈祷場であり、一日の大半を過ごす場所だった。がらんとした部屋の奥には祭壇があり、左右の松明がぼうぼうと揺れている。祭壇の中央で御神体と向き合う形で、巫女装束に身を包み、大幣を手に激しく身体を動かしながら、雄叫びに近い声を上げているのは、14歳となったマオだった。透き通るような白い肌。年頃に成長した彼女だが、祈祷時の様子には鬼気迫るものがある。
そして、祭壇から逆側、部屋の戸のある方の壁の片隅で、ちょこんと正座する少女の姿がある。歳の頃は10歳くらい。おかっぱ頭で、マオと同じく巫女装束に身を包み、真剣なまなざしでマオの祈祷の様子を見つめている。
少女の名はイチコといった。マオに仕え、身の世話や所用を行う付き人である。
「――はっ」
突然、マオは身体の動きを止め、その目を大きく見開いた。と思うと、そのままがっくりと膝をつき、その場にうなだれてしまう。
「マオ様!」
イチコが立ち上がり、マオの方へと駆け寄ろうとした。
「よい。大丈夫じゃ」
と、マオはイチコを制止すると、すっくと立ち上がり、乱れた衣服を正した。イチコに言う。
「長を呼んでくれ」
「はい!」
イチコは戸を開けて、履物を履くと、祈祷場を出ていった。
一人になったマオは、ふたたびその場に崩れ落ちた。何度か深く呼吸をする。全身から汗が噴き出しているのが分かった。いまの彼女からは、祈祷師としての表情は消え、あどけない少女の色がその顔面に広がっていた。他の人間には絶対に見せない顔である。不安げで、寂し気な表情のまま、後方の御神体を見上げる。そして、か細い声で言った。
「神よ。そなたは、わらわに、何というものを見せたのじゃ――」
しばらく後。
祈祷場にはマオとイチコの他に、2人の男が座っていた。室内のほぼ中央で、マオと向かい合う形で座っている老人が、このムラの長である。髪も髭も真っ白で頬に刻まれた皺が彼の人生の歴史を物語る。その斜め後方に控えているのは、ムラの首領の一人であるイゾウだ。頭は剃り上がっていて、口の切れ端の上あたりと顎に黒々とした髭がある。ぎょろりとした目の奥に潜む眼光は、この世のすべてのものを睨めつけるように鋭かった。イゾウは腕っぷしが自慢で、長の警護役を担っている。また、好戦的な性格で、軍の大将も務めていた。他の従者たちは、彼らの話が終わるまで外で待機している格好である。
「長よ、こんな夜更けに足を運んでもらってすまぬ」
まず、マオからこう切り出した。
「いえ。それほどに、急な要件なのですかな」
「うむ。つい今しがたの祈祷の結果についてじゃ」
「見えたのは、現実と思しき風景と、どこか抽象的な場面じゃ。それらの風景が、複合的に組み合わさり、代わる代わるわらわの視界に見えてきた」
「具体的に何が見えたというんだ。早く話せ」
イゾウが少し苛立ったように、しわがれた声を出した。長がそれをなだめる。
「まあまあ、そう焦るでない。じっくり話を聞こうじゃないか――話してくれますかな」
長の促しに、マオはひとつこくりと頷いた。
「現実の場面と、抽象的な場面、分けて話した方がよいじゃろうな。
まず現実的な場面から。山、森、見えたのは雲間から光が降り注ぐ空、広大な大地、そして浜辺。海の向こうにはそびえ立つ岩があった。
続いて、抽象的な場面。まず、眼前を埋め尽くさんほどの大勢の人の顔が見えた。その顔は優しく微笑んでおったり、厳しい表情でこちらを睨んでおったり、思案顔であったりとさまざまじゃった。まるで、色々な思惑がそこには存在しているみたいにな。次に見えたのは左右の分かれ道じゃ。左の道の奥にはなにやらばらばらになったものがあった。まるですべてが崩れ落ちてしまった後のような景色じゃ。そして、右側の奥にはまるですべてを包み込んでくれる救いのようなまばゆい光があった。その分かれ道を、大勢の人々がそれぞれ歩いてゆく。じゃが、左の方に行く人がほとんどで、右を選ぶ人は少なかった。まるで、多くの人間が崩壊を選んでいるかのようじゃった――。そんな様子じゃ」
「――それが何を意味するというんだ?」
マオの話に、イゾウが尋ねた。
「わからぬ」
「分からない――だと?」
マオの返答に、イゾウはいっそう声を大きくする。
「これが具体的に何を意味しているのか、今のところはわらわにも分からぬ。ただ、ぼんやりとこういうことを暗示しているのではないか、という予想はできる。――長よ、西の方角に大国があったな」
「はい、確かに。海の方角に、ここら一帯でもっとも広大なクニ・ヒノイリノクニがございます。王の権力は絶大で、その威光は海を渡った大陸の方にも伝わっているとか」
「最初に話した風景じゃが、わらわはそのクニのものではないかと思うておる」
「なるほど。しかし、そうだとして、なぜヒノイリノクニの風景が?」
「もしかすると、ヒノイリノクニと深く関わるようなことが、今後あるかもしれんの」
「ふむ。――しかし、他に見えたという抽象的な場面については」
「そこじゃ。あれらの解釈が、まだわらわにもできぬ」
「ふん、おぬしのただの勝手な想像じゃないのか」
イゾウが吐き捨てるように言った。長がわずかに声を荒げた。
「少しは口を慎め。マオ様の予言はよく当たるのじゃ。本当に何か重要な暗示かもしれん」
長の言葉につづいて、マオは言う。
「確かに、イゾウの言う通り、はっきりと未来が見えたわけではないし、暗示などではなくわらわの気にしすぎだという可能性もなくはない。ただ、それでも、わがムラの未来を左右する、それも、下手をすると破滅を招きかねぬ、重要な出来事が起こり得るのではないかと思ったのじゃ。それで、いちおうは長の耳には入れておこうと思って、呼び出した次第じゃ」
「ありがとうございます。用心したいと思います。では、これで――」
「気をつけて戻られるのじゃぞ」
「はい。マオ様もゆっくりお休みくだされ」
長は立ち上がり、踵を返して戸の方へと歩いてゆく。イゾウも立ち上がり、マオをきっと睨むと、長に続いた。イチコが戸を開けた。長たちが戸から出ていった後、二人を見送ろうと自分も外に出ようとするも、顔前のイゾウの大きな手に遮られた。
「お前は出てこなくてもいい」
イゾウは横目でイチコを見下ろしていた。きっと視線を前に戻し、祈祷場を去ってゆく。イチコはぺこりと頭を下げて、戸を閉めた。戸の方に耳を近づけると、長やイゾウら一行の足音が次第に小さくなっていった。
「なに、あの態度。アイツ嫌い。べー」
苦虫をかみ殺したような顔で舌を出すイチコに、マオが優し気な声で言った。
「そう言うな。イゾウもイゾウなりに、ムラのことを真剣に考えておるのじゃ」
イチコはマオの方を振り返る。
「でもアイツ、マオ様に対して横柄すぎませんか?」
「あやつは軍の大将として、自らの力でこのムラを守っているからの。わらわのような立場は理解ができぬところもあるのじゃろう」
「でも、マオ様はこのムラにとって重要なお人なのに」
「それは、向こうも同じじゃ」
「私への扱いもひどいし――」
「それは、確かに残念なことじゃな」
マオはぽつりと言った。イゾウばかりではない。ムラの人間のなかには、イチコを邪険に扱う者も数多くいるのだった。それは、イチコの出自に原因があった。実はイチコは、このムラで生まれたのではなかった。いまから10年前、ムラの人間が、ここよりほど近い森の岩場で捨てられていた赤子を拾って帰ってきた。それがイチコだった。以来、イチコはこのムラの一員として育てられたが、ムラで生まれたわけではないことから、よそ者と遠巻きに見る人間も少なくなかったのだ。
「顔つきや肌の色だって、皆と変わらないのに……」
「小さなムラじゃからの。閉鎖的な考え方になってしまうのじゃろう。これがたくさんの部族が一同に会するクニとかなら、また様相は違ったのかもしれんがの」
しかも、イゾウのような人の上に立つ人間までがその有り様である。それは、ムラの人たちにとって、彼女を迫害しても構わないという免罪符になってしまいかねなかった。
「でも、マオ様は優しくしてくれますよね。こんな私でも、そばにずっと置いてくれますし」
イチコは努めて明るい声で言った。マオは、祈祷師になったばかりの年に、イチコを付き人に指名したのだ。ムラ人の中には、こんな出自の分からない者を付き人にするなど――と難色を示した者もいたが、そこはマオが譲らなかった。ムラを治める祈祷師、という権力的立場も利用して、彼女はわずか5歳のイチコを、自分の世話係にしたのだった。
「どうしてですか――?」
「決まっておる。わらわとそなたが、似た者同士だからじゃよ」
「まさか!」
滅相もない――とでも言いたげに、イチコは両手をぶんぶんと振った。そもそも、ムラの行く先を示す巫女として大勢の人たちに慕われるマオと、外れ者として嫌われるイチコは似ても似つかない。しかし、マオは続けて言った。
「わらわは、幼い頃からこの祈祷師という任に就いた。いや、就かされたと言った方がよい。この立場というのはなかなか窮屈なものじゃ。役職に縛られ、人々に監視され、自由がない。同じ年頃の子供たちと遊ぶこともできぬ。おまけに、巫女となった人間は、男子に恋をし、結婚したり、子をつくったりすることさえ禁じられておる。このムラでは、そのような行為は穢れを生み、神聖な力が失われると信じられておるからの」
「そんな――」
「分かるかの。わらわとそなたが、似た者同士だと言った意味が」
お互い孤独を背負わされた人間同士なのだ――と、イチコは幼い頭でも十分に分かった。
「じゃからイチコ、そなたはわらわのそばに居てくれ。ただの世話役ではなく、友として、わらわの心の支えになってくれ」
「もちろんです」
イチコは心からの言葉を発した。マオは嬉しそうに笑う。その笑顔は、14歳のあどけない少女そのものだった。