1-A.8
火曜日の四時間目は古文の授業でした。春の穏やかの日差しと、昼休み前の空腹と、意味は不明な雅な言葉が眠気を誘います。授業終了のチャイムが鳴る一分前だというのに、古文教師の音読は終わる気配がありません。
キーンコーンカーンコーン。
鳴りました。教師は気にも留めていません。延長は決定事項のようです。
教室の一番後ろの席で、真面目腐って背筋を伸ばし級友の後頭部の観察に励んでいた桜子は、次の瞬間飛び跳ねました。
『休み時間中に失礼致しますわ。校内連絡です。一年一組、朝倉桜子さん。朝倉桜子さん。至急、生徒会室までお越しくださいまし。繰り返します。朝倉桜子さん。朝倉桜子さん……』
桜子の観察によれば、ここ十数分微動だにしていなかったクラスメート達の頭がざわっと動き、桜子の方に視線をやりました。
「あの、先生」
「……行って構いません」
桜子は、精一杯申し訳なさそうにしながら、教室を後にしました。
「失礼します」
「あら桜子さん。こんにちは」
「お待ちしておりましたわ」
恐る恐る生徒会室に入ると、そこには澄ました顔のリーゼロッテと椿姫がいました。
並び立つ両名の、そのオーラに気後れしてしまう自分の背中を蹴飛ばし、昨日の打ち解けた雰囲気を継続するためにも桜子はまず軽口を叩きました。
「……横暴ですよ。皆に変な目で見られちゃいました」
「横暴は生徒会に与えられた特権ですわ」
「古文は長引くでしょう。そんなことよりも、桜子さん、見まして?」
どうやら杞憂だったようです。目を輝かせながら携帯情報端末の画面を見せてくるリーゼロッテは、身長その他諸々こそ違えどリアシュそのままでした。
「ああ、五月のBCSの告知ですね。見ましたよ」
携帯情報端末に表示されていたのは、PBO日本公式ホームページでした。一番目立つ場所に、『第十九回ブロウル・チャレンジ・シリーズ『ウルトラ・タグ・ゲーム』開催!詳細はバナーをクリック』と書かれています。リーゼロッテの白魚のような指がバナーをタップしました。
大会概要のページに移動します。
「『タグ・ゲーム』……鬼ごっこですか」
リーゼロッテが呟きます。英語が苦手な桜子はそうだったのか、と思いながら無言で頷きました。少なくとも単語帳には載っていなかったと思われます。
いつの間にか居なくなっていた椿姫が、生徒会室の奥のドアを開けて現れました。リーゼロッテのアバターであるリアシュよりは大きいものの、高校二年生にしてはとても小柄な彼女は、お盆の上に湯呑を三つ載せていました。
「お茶を淹れてきました。桜子さん、お昼はまだでしょう?ここで召し上がっては?」
「あっ、えっと……」
「遠慮なさらないで?私はぜひ桜子さんとご一緒したいですわ」
桜子は、マッチョのウドミの声が目の前の可憐な美少女から発せられていることに困惑している自分に一番困惑しながらも、バツが悪そうに顔を伏せます。
「その、今日は食堂で食べるつもりで……」
この学園では学食のことを食堂と呼びます。要するに、桜子は今日、お弁当を持ってきていないのでした。全ては夜更かしが原因です。パンか何かを買ってきてご一緒させてもらうことも思いつきましたが、重箱に囲まれてパンをかじる自分を想像してしまいます。
「あら。そうでしたの」
「先約があったかしら?」
「そういうわけじゃないんですけど……」
「それじゃあやっぱり、ご一緒しましょう?」
椿姫が引き下がります。
「もしよければ、私のお弁当を少し貰ってくださらない?家の人が持たせてくれるお弁当は、いつも私には多くて……」
そんなことを言いながら椿姫が取り出したのは、三段重ねの重箱でした。
「っ……!?」
言葉を失う桜子の前で、宝箱のようなお弁当が広げられていきます。ただし、それらは明らかに椿姫の胃袋に見合う量ではありませんでした。
「いつもは会長にも手伝ってもらって何とか食べ切っているのだけれど。ぜひ、好きなものを食べてほしいですわ」
桜子はゴクリと音を立てて唾を飲み下しました。
「きっと、家の人は椿姫にもっとよく食べて大きくなってほしいのよ。椿姫がここで食べるなら、私もここで頂くことにしますわ」
そう言って、リーゼロッテが取り出したお弁当箱はこれまた意外なものでした。ステンレスの武骨なミリタリーデザインのランチボックス。桜子のイメージした財閥令嬢のお弁当箱ではありません。さらに付け加えて意外な点を挙げるなら、食器が箸。英語で言うとチョップスティックですね。ドイツ語では何というのでしょうか。
「私も少しお弁当を作りすぎてしまいました。片付けるのを手伝ってほしいですわ」
「会長、作りすぎたって、ご自身で作ってるんですか?てっきり料理人とかいるものかと……」
「あら、私、寮生ですわよ。寮母さんにお願いしてキッチンを借りて、毎朝自分で作っていますの」
多少の生活能力は身につけておかないと不安ですもの、と続けるリーゼロッテと、彼女の色とりどりの美味しそうなお弁当に、桜子は尊敬の念を抱きました。
桜子の口内に涎が溜まっていきます。
「……では、お言葉に甘えて、いただきます」
「「召し上がれ」」
この日、桜子は二人の恵みに舌鼓を打ちながら、今後もこれに混ざるために、自分でお弁当を作ることを決意したのでした。行儀のよい三人は食事中に端末を見たりしないので、BCSの話題は放課後まで持ち越しです。