1-B.8
雲間からは太陽が覗く程度に、天気の回復してきた13時30分。爽やかな空と裏腹に、地上では泥にまみれた決死行が敢行されていました。
一歩を踏み出したカヴェナンターは、陥没した地面にそっと、その履帯を押し付け前進を続けます。崩れ落ちたのは上部に留まったようで、残された斜面は思ったよりも急ではありませんでした。
ウドミは、凸凹した泥の上を、慎重かつ迅速に進んでいきます。黙々と、左右のレバーを素早く切り替えて、狭い視界で大きな車体を操ります。リアシュはハッチからを身を乗り出して、そんなウドミの目となっていました。
リアシュとウドミはあってないような摩擦係数などに頼らず、確実に水平に近い地面を選んで進路を取っています。常に、わずかに左に向かって進んでいるのは、右に横滑りし続けているから。体感では40度くらい横に傾いているような気がしますが、実際にはその半分程度でしょう。
そんな二人の足元でうずくまるアコの耳の奥では絶えず、ゴゴゴという水の流れる音が響いています。もう今にも左の斜面を突き破って水が流れ込むような、恐ろしい錯覚がやみません。心を占めるのはそんな恐ろしさよりもむしろ情けなさです。ですが、怖いものは怖いのです。
家族旅行の記憶は数少ないですが、強烈に覚えているのは去る日の海水浴。海の無い地元県を離れ遊びに行った海で、アコこと桜子は溺れました。よくよく思い出すと相当な浅瀬だったような気もしてきますが、ともかくそれ以来アコはカナヅチです。風呂の水が怖くないのと同じように、上から眺めている分には何とも思わないのですが、薄い土の壁を挟んで向こうを流れているとなれば話が違います。
ふと見上げれば、リアシュはしきりに首を回しながら、一番傾斜の緩い地面を選んでウドミに指示を出しています。アコの視線を感じたのか、そのグレーの瞳がこちらを振り向きました。目が合います。こっちに来るように言われているような気がして、アコは短い逡巡の末に恐る恐る立ち上がりました。そうしている間にもカヴェナンターは三次元的に揺れ動き、アコはよろめきます。転びかけたところを伸びてきたリアシュの腕に助けられ、アコは怖々、外を覗きました。
十数メートルの恐怖の道は、ようやくちょうどその半分を切ったところでした。前を見ると憂鬱な気持ちになりますが、振り向くと後方にも大体同じくらいの距離の斜面が伸びており、これならいけるかもしれない、という気持ちにもなりました。が、アコの見ている前でカヴェナンターの履帯の後ろ数十センチの地面が滑り落ちていき、そんな気持ちも霧散してしまいます。
それでも、ウドミは何も言わずに操縦に集中していますし、リアシュがそれを欠片の疑いもない目で見守っています。アコは信じて任せることしかできません。リアシュの指示は過不足なく完璧で、アコが余計なことを言っても良いことにはならなそうです。
履帯が滑り、ガクンという一瞬の浮遊感を味わう度に、内臓が縮み上がるような感覚を感じます。おのれPBO、なぜこんなステージを用意したのか。おのれフルダイブ技術、何もこんなところまで再現しなくてもいいじゃないか。四方への恨み言は尽きませんが、水平な地面が一メートル近づくごとにアコの動悸も収まっていきます。
あと五メートル、四メートル、三メートル……。
そして二メートルを切った時、リアシュが声を上げました。
「ウドミ!全速!」
その声に反射のように従い、カヴェナンターはいきなりスピードを上げ残り二メートル弱を走り抜けます。切り立った段差を乗り上げ、重心が不安定な泥濘地から固い地面に移ったと感じた瞬間、轟音と共に地震と勘違いするほどの振動がカヴェナンターを襲いました。
咄嗟に背後を振り返ったアコの目の前で、大量の水が堤防を突き破って林に流れ込んでいきました。しかし、そんな光景も時速60キロで遠のいていきます。
「流石はウドミ、よくやりましたわ!」
「ありがとうございます!ああ、緊張しましたわ!」
喜ばしそうなリアシュと、達成感に弾むウドミの声が春風のように耳を抜けていきます。アコはしばらく呆然としていました。しかし、振り向くとそこで嬉しそうな顔でこちらを見上げてくる先輩二人の顔を見ていると、いつの間にか自分も似たような顔になっているのでした。




