23
ガラス越しから店外を覗くと、路上に人集りが出来ていた。魔王にここで待っていろ、と言われたが店のすぐ目の前だし、どうしても外の様子が気になったので見に行く事にした。
店外へ出てすぐ、群衆の喧騒に混じって言い争う人の声が微かに聞こえてくる。スピラは人混みを縫うようにして前へと進み、揉みくちゃにされながらやっとの思いで開けた場所に出た。
ほっと息をついたのも束の間、耳を劈くような怒声がスピラの鼓膜を揺らす。
「一体どうしてくれるんだっ!! この服はなぁ! お前の様な端女が一生働いても手にできぬ高価な代物なんだぞ!!」
「も、ももも申し訳ごさまいませんっ!!! その、疲れが溜まっていたのか、ぼーっとしていて……」
その怒声の主は、見るからに裕福な市民層の出で立ちをしており、スボンの裾には何かの液体が飛び散ったような染みが浮かんでいる。足元には粉々に砕けたワインボトルが転がっており、召使いの格好をした女は、血の気の引いた青い顔で男の足元に跪いている。
状況から察するに、買い物帰りのこの女がうっかりワインボトルを落とし、偶々近くを歩いていたこの男に飛び散ってしまったのだろう。
スピラは思わず仲裁に入りそうになるが、既の所で自分を制する。他国の人間である自分が、この国で起きた揉め事に不用意に関わるべきではない。それに魔王は内偵を兼ねてこの国で商売をしている。あまり目立つ様な事をして迷惑がかかってもいけない。
「お前の事情など知ったことか!!今すぐ弁償しろっ!!」
「…………もっ、申し訳ございません!! すぐにはお返しできませんが……。毎月必ず、少しずつ返金致しますので、どうかこの場はご容赦下さい……!!」
「ならば、娼婦にでも身を窶して働けば良いだろうが!! 娘がいるなら借金のカタに差し出せ!!」
「どどどうかそれだけは!! それだけはご勘弁下さいっ!!!」
そう言って女は額を地面に擦り付けながら必死に許しを請う。すると男は、女の髪を乱暴に引っ掴んで無理矢理顔を持ち上げ、右手を大きく振り被る。――今にも打たれそうになっている女を見て見ぬ振りなど出来る筈もなく……。スピラの体が反射的に動き、間一髪のところで二人の間に滑り込む。
「お待ちなさい!! 彼女を打ってはなりません!!」
スピラは、両手を目一杯広げて女を背に庇う。
「…………なっ! ななんだお前は!?」
男は、一歩後退る。
「えっ。わ、わたくし? わたくしは……。――名乗るほどの者ではありませんわ!」
スピラは、無駄に堂々と言い切った。一般的に、国内で起こった揉め事に外国人が干渉するのは御法度とされている。法によって厳密に規制されている訳ではないが、ここは適当に誤魔化しておくのが無難と判断した。
男は、急に割り込んできた名すら名乗らぬ無作法な女に、眉を顰める。しかし、今はそれどころではない。
「――ええいっ!! 部外者はすっこんでろ! そこを退け!!」
「いいえ、退きません!! いくら服が汚れたからといっても、暴力はいけませんわ!」
「お前には、関係ないだろうが!!」
「確かに、わたくしは部外者です。ですがここで彼女を殴れば、この都市の法に抵触するのでは?」
「――はっ。だったらどうしたっ!? 市民権も持たぬ下女に何が出来る!?」
「ここには多くの証人がおりますわ。これ以上事を荒立てるのは、貴方にとっても得策とは言えないのでは?」
各自治都市には独自の都市法が存在し、法を犯した者は、都市裁判所にて裁かれる決まりだ。また都市裁判における参審人の多くは、都市貴族と呼ばれる上級市民によって構成されるため、下層民にとっては不利な判決が下る事も少なくない。しかし幸いなことに、ここには大勢の野次馬(証人)がいる。これだけの証人がいれば、幾ら男が市民権を得ていようと、言い逃れは出来ないだろう。
「………………」
男は忌々し気にスピラを睨め付ける。
暫らくだんまりを決め込んでいたが、ふと気が付いたように、スピラを上から下までしげしげと観察する。すると男は名案が浮かんだ、とでも言わんばかりのしたり顔を浮かべる。
「良いだろう。そこの下女の罪は見逃してやる。――ただし、そこのお前! 代わりに俺の屋敷へ奉公に来い!」
スピラは、その突拍子もない提案に、たっぷり三拍沈黙する。
「――……は? わたくしが? 貴方の屋敷へ?」
「そうだ。――お前、その身なりからして、どこぞの商家の娘だろう?」
バルバにはあっという間に見破られてしまった変装も、この男には通用するらしい。
「――えっ? ええ、まあ……。――ですが、貴方の服が汚れた事と、わたくしが貴方の屋敷で働く事にどう関係が? 全く話が見えないのですけど」
「細かい事をぐだぐだ言うな! お前にはこの件に関わった責任があるだろうが!!」
「それは、確かにその通りです。ですが、貴方にとやかく言われる筋合いはありません。――と、いう事でその申し出、きっぱりお断りします」
「なっ、なんだと!? 俺はウィヌム家の跡取り息子だぞ!? その俺の申し出を断るつもりか!?」
「はい。ウィヌム家だか何だか知りませんが、わたくしがその申し出を受け入れる理由にはなりません」
「――な、ななっ!? ふっ、ふざけるな!! いいから俺と一緒にこいッ!!」
男は、スピラの手首をむんずと掴んで何処かへ連れて行こうとする。
スピラは必死に掴まれた手首を振り解こうとするが、やはり単純に力では男性に敵わない。かと言ってナイフを使えば男を傷付けてしまうし、魔法は杖がないのでこの状況では大して役に立たない。この危機的状況を何とか切り抜けようと策を巡らせるが、こういう時に限ってまともな案が浮かばない。
そうこうしている内に踏ん張っていた足が地面から離れる……。――最早打つ手なしと思われた、その時だった。
「――僕の妻に何をしている」
気が付いた時には手首が解放されていた。
そのいつもより一段低い声の主に視線を向ければ、雪崩が起こる直前の雪嶺が如く、不気味な静けさを身に纏った夫の姿があった。
魔王は、男の腕を爪が食い込む程に強く握っている。
その全身から滲み出る得体の知れない威圧感と、鋭く尖った刃の様な眼差しに、男は知らず身震いをする。
「――なっなな何だ貴様は!?!? 無礼者っ! その手を離せっ!!」
「おかしいな……。先に質問したのは僕の方なんだが」
魔王は、男の腕を掴む力を更に強める。
「いたたたっ!!! お、おいッ!! 分かった! 分かったから、一旦その手を離せ!!」
「――離せ?」
「――……離してください……」
男は、ぎりぎり聞き取れる程の小さな声で呟く。
すると魔王は、男を氷の眼差しで捉えたまま、指の力を緩める。
「それで? ――誰の許可を得て僕の妻に手を出した」
「お、お前の妻だと!? …………けっ! そ、そんな事しるか!! お前の方こそ、俺を誰だと心得ていやがる!? 俺に傷の一つでも付けたら、ウィヌム家が黙っていないからなっ!!」
男は、魔王に掴まれた方の腕を摩りながら答える。
「――ほう……ウィヌム家の者か。ならば見る影もない程に甚振って、お前の腐った屍にリボンでも巻いて送り付けてやったら面白そうだ。――うん、それがいい。我ながら名案だ!!」
絶対零度の笑みを浮かべて、そうのたまう魔王は至って本気だった。
その冷然たる微笑にスピラの全身が総毛立つ。このままでは確実に男の命が危ない。スピラは何とか魔王を説得すべく、慌てて腕にしがみつく。
「ハ、ハーディス様!! わたくしはこの通りピンピンしておりますわ!? どこも怪我しておりませんし!! ハーディス様が直接手を下すまでもありませんわよ!? ――ねっ!?」
「……ほう。この状況で君はこの男を庇うのか。――だが、それは悪手だな」
(えっ!?!? あ、悪手!? なら、わたくしにどうしろって言うよーーーーっ!!!!)
完全にパニックに陥っているスピラは、盛大に頭を抱える。
すると魔王の迫力に気圧され、暫らく言葉を失くしていた男が徐に口を開く。
「ハ、ハーディスって……!? おまっ……。あ、貴方はまさか……。あの絹糸貿易商人のハーディスさん、……ですか?」
「――なんだ。僕のことを知っているのか」
魔王がそう答えると、男の顔付きが明らかに変わった。
魔王の絹糸から製造された衣服は、国内の上層市民に大変人気が高い。そのきっかけとなったのは、数年前に起きた逆賊による大規模な内紛だ。
逆賊の連中は、当時国境付近で起きていた他国との侵略戦争に手を焼いているすきを狙い、王都を陥落する計画を企てていた。遠征でいつもより守りが手薄になっているため、奇襲を仕掛けるには絶好のチャンスだった。しかし、軽くて丈夫なペタルーダの絹糸から作られた戦闘服を着た国王軍は想像以上にしぶとく、結局策謀は失敗に終わったのだ。
それ以来、魔王の絹糸の品質は王室公認となり、国内各地にその名が知れ渡ることとなった。
因みに、先程から男が弁償しろと煩く喚いているその服こそ、魔王の絹糸から作られた製品なのだが……。今更その事実を告げても、この最悪な状況が好転することはないだろう。
「そ、そうでしたか!! ――これは、大変失礼を致しました!! ギルドで貴殿の名を知らぬ者はおりませんからな!…………はは。――そ、その、お詫びと言ってはなんですが……。うちの葡萄酒を土産にいかかでしょうか」
男は魔王の顔色を窺いながら、揉み手をする。その額には大量の脂汗が滲んでいる。
「――僕も随分と甘く見られた者だ……。まさかお前は、僕の愛妻とその葡萄酒の価値が同等だとでも言いたいのか」
魔王は射殺さんばかりの鋭い視線を男に向ける。
すると男の全身から一気に血の気が引き、みるみるうちに顔が真っ青に染まる。先程までの威勢は完全に鳴りを潜め、肉食獣に睨まれた小動物ように体を小刻みに震わせている。
スピラはその情けない姿に敵ながら同情する。このままでは、肉体より先にこの男の精神が崩壊しかねない。それに、これ以上この修羅場が長引けば双方にとって何ら得るところがない。
スピラは気が進まないながらも、この場を丸く収める為に男の提案に乗る事に決めた。
「名案ですわ! それで手を打ちましょう!! ねっ!? ハーディス様!!」
スピラは魔王の両手を掬い上げ、必死の形相で見上げる。
「――君は甘すぎる。この男は君を連れ去ろうとしていたんだぞ? 僕が少しでも駆け付けるのが遅ければ、どんな目に合っていたか分からない」
「……仰る通りですわ。ですがわたくしはハーディス様のお陰でこの通り無事です! それに元はと言えば、部外者であるわたくしが出しゃばった事が原因で、この様な事態に発展してしまいましたの。――ですからどうか! どうかこの場はわたくしに免じて許して頂きたいのです!!」
「――しかし……」
魔王は、険しい表情で沈黙する。――すると、スピラは魔王の手を握る自分の手により一層力を込める。
その切実な妻の眼差しに、魔王は暫く思案したのち、仕方ないといった様子で深い溜息をつく。
「………………。良いだろう。それで手を打とう」
スピラはパァっと表情を輝かせる。
「ありがとうございます!!」
すると男は、極度に高まった緊張から一気に解放された反動で、その場にへなへなと崩れ落ちる。先程までの威勢は見る影もない。
そうして男は、ギルド経由で葡萄酒を届けさせる事を約束し、覚束ない足取りでその場を立ち去っていった。群がっていた野次馬も騒動が解決したと見ると、それぞれの方向へ散って行き、事件は漸く収束した。
それからスピラは、一部始終をハラハラとした様子で見守っていた女に手を差し伸べ、気遣わし気に声を掛ける。
「貴方、何処か怪我はない? ――立てそう?」
すると女は、慌てて自分の手をスカートで擦って綺麗にし、恐縮した様子でスピラの差し出した手に自分の手を重ねる。
「――あの、この度は本当にありがとうございました! 何とお礼を申し上げたら良いのか……」
「あら、気にしないで。これはわたくしが勝手にやった事なのだから」
「――そういう訳には……!! 何かお返し出来たら良いのですが………。私の様な端女に返せる物など…………」
女は肩を落とし、しゅんとした表情で俯く。
束の間その状態で沈黙していたが、突然何かにひらめいた様子でスカートのポケットに片手を突っ込む。次いで取り出した物をスピラに差し出す。
「あっ、あのこれ!! 良かったら受け取って頂けませんか? 本当に大した物では無いのですが……」
そう言って女が差し出したのは、細密な薔薇の刺繍が施された手巾だった。
「――まあ……。とっても綺麗な刺繍ね! ……これは貴方が?」
スピラは、その見事な出来栄えの手巾をしげしげと観察する。
「はい! その、粗末な物で恥ずかしいのですが……。今はこんな物しかなくて……」
「あら、これで充分だわ! だってこれは貴方が丹精込めて縫い上げた物なのでしょう? ――でも……本当にわたくしが貰ってしまってもいいの? 誰かに渡す予定だったんじゃない?」
「いいえ! そんな事はお気になさらないで下さい!! それより本当にこんな安っぽい物を受け取って頂けるのですか……?」
女は不安げな表情で問いかける。
「勿論よ! 物の価値は受け取る人の心で決まるものよ。――素敵なハンカチをありがとう。大切にするわね!」
スピラは女に柔和な笑みを向ける。
すると女は頬を桃色に染め、恥ずかしそうに視線を彷徨わせる。
それから女は、スピラの姿が見えなくなるまで何度も後ろを振り返りながらその都度頭を下げ、雇い主の屋敷へと帰って行った。
やっと騒動が一件落着し、スピラは自然と安堵の溜息をつく。
一時はどうなることかと思ったが、魔王の助けもあって、何とか収まるところに収まった。これで後はリトスの料理本を買って帰国するだけ。
スピラは、晴々とした心で帰路を行こうと一歩を踏み出す。――すると、右肩を後方からがしっと掴まれる。
恐る恐る振り返ると、静かな怒りの炎を背後に背負った夫が美しく微笑んでいた。
「僕の可愛い妻殿。そろそろ教えてくれても良いだろう?」
「…………」
スピラは、視線だけで魔王をちらと見上げる。
「――何故君は僕との約束を破った」
そう問いかける魔王の表情からは怒り以外の一切の感情が削げ落ち、そこはかとない威圧感が周囲を覆っていた。
スピラはその重たい空気に気圧され、息を飲む。これは相当怒っている。ここで返答を間違えれば、大変な事態になりそうだ。先ずは落ち着いて、慎重に言葉を選ばなくてはならない。――大丈夫。魔王は話の分かる男だ。ちゃんと説明すれば分かってくれる。
「えーっと、その……。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。――初めは傍観していたのですが、彼女が打たれそうになった所で、どうにも歯止めがきかなくなってしまい……。気が付いた時には前に出ておりました」
「僕は君に迷惑をかけられたなどとは思っていない。今そんな事はどうでもいい。何故僕の元から離れたのかを問うている」
「それは……。外が騒がしかったのでどうしても気になって。か弱い女性が今にも打たれそうになっていたので……つい」
「気になって……? 君は僕と約束したはずだ。許可なく僕の許から離れないと」
「確かに約束しました……。勝手な行動をして申し訳ありませんでした」
スピラは反省した様子で頭を下げる。
しかし魔王の表情は曇ったままだ。
「何故不用意に他人の揉め事に首を突っ込む?」
「何故って……。今にも打たれそうになっている女性を前に、ただ突っ立って見ていることなんて出来ませんわ」
「それでも関わるべきではなかった」
「そんな言い方って……。なら、わたくしはあの時、打たれそうになっている彼女をそのまま傍観していれば良かったんですか?」
「ああ、そうだ。自分の身一つ守れぬのに何故他人を庇おうとする」
「ですから勝手に体が動いてしまったんです!」
「彼女が助かれば、君自身はどうなっても良かった、という訳か」
「――そういう訳ではありません! ですが、彼女がどうなっても良いとも思えませんでした」
「愚かだな。呆れて物も言えない。放っておけば良かったんだ。人間同士の揉め事など、関わっていたら切りがない」
「本気で仰っているんですか!? 彼女があのまま打たれれば良かったと!?」
「ああ、そうだ。僕にとって何よりも優先すべきは君の命だ。人間がどうなろうと知った事ではない」
魔王は冷たい瞳で言い放つ。
その余りに情に欠けた言い草に、スピラは愕然とする。
「――そう……ですか。――陛下のお気持ちはよーッく分かりましたわ。貴方がそんなに冷たい人だったなんて!!」
「何とでも言えばいい。――約束を破った罰だ。君はこのまま城へ返す」
そう言って魔王はスピラを背中に担ぎ上げ、直接城の寝室に転移する。それから室内に結界を張り終えると、何も言わずに転移で街へと戻って行った。




