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これ以上追求されても困るので作業再開を促す。魔王は仕方ないといった様子で、鍋のすぐ上の空間を見つめる。するとその視線の先に、どんどん水滴が集まってくる。それは次第に大きくなり、ゆっくりと鍋の底へと下降していく。
次に鍋の底の空間に視線を落とす。すると、真っ赤な炎がボッと音を立てて燃え上がる。薪がある訳でもないがその炎は消える様子がない。
水魔法と火魔法を杖も詠唱も無しにやってのけたり、転移魔法という人智を超えた超高等魔法を城内を移動するだけの為に使ったり……。色々と突っ込みどころ満載なのだがいちいち驚いていたら切りがないし、聞いたところで理解出来なさそうなので聞かないでおく事にした。
それから落し蓋をして暫らく煮詰める。いい感じに繭が透けてきたら、鍋のお湯を捨て別の大きな容器に水を注ぐ。その中に煮詰めた繭を投入したら、下準備は完成だ。
「後はこれで、糸引きをする」
そう言って魔王が取り出したのは、人の背丈程ある木製の台だった。台の足元には複雑な魔法陣が彫り込まれており、二本の支柱を繋ぐ様にして架かっている棒の中央には、大きな糸巻が取り付けられている。
魔王は水に浸った繭を魔法で一つ宙に運び、そこから糸の先を器用に手繰り出し筒に絡める。すると台に刻まれた魔法陣が淡い光を放ち、筒がひとりでにくるくると回転し始めた。次々と糸が巻き取られていき、やがて巨大な一本の束になる。繭一つ分手繰り終えたらそれを魔法で筒から外し、一つに纒めて出来上がりだ。
スピラはその出来立てほやほやのペタルーダの糸にそっと触れてみる。繭だった時とはまた違った艶々とした光沢と、滑るような手触りに感激する。
「――素晴らしい手触りですわね……。それに丈夫なのでしょう?」
「ああ。伸縮性、防水性、耐熱性に優れているから、戦闘服の生地に使われる事が多いな」
「……なるほど。確かにもってこいですわね! これを明日納品するのですね」
「ああ、まだ完成していないがな。これから精練して生糸に含まれる余分な成分を除去する。それを地下倉庫の分と合わせて納品する。明日は夕方迄には帰るよ。リトスと留守番を頼む」
「……あの。それってわたくしも、着いて行きたいと言ったら……駄目でしょうか?」
「それは構わないが……。付いて来ても特に面白い事はないぞ?」
「えっ! 良いんですか!! 嬉しいっ!!」
スピラは、パァッと花が綻ぶような笑顔を魔王に向ける。
すると魔王は何かに驚いた様子で大きく目を見開いたまま、その場に固まってしまった。
固まった姿のまま、一向に返事がない事を不審に思ったスピラは、遠慮がちに声を掛ける。
「……あの、陛下? どうかなさいまして?」
「――いや……何でもないよ。明日は早朝に出発するから、今日は早めに休んだ方が良い。部屋まで送ろう」
「……はい? ありがとうございます」
〇
その頃リトスは、城内の一角にある厩舎内にいた。
馬には明日納品予定の品物を運ぶ大事な役割があるので、体調管理は欠かせない。厩舎の掃除を終え馬のブラッシングをしていると、転移魔法でやって来たらしい魔王が現れた。
「リトス、明日は彼女も一緒に街へ行く事になった」
「そうですか。――ですが、宜しいのですか? 外に出しても」
「僕と一緒なら問題無い。それより、彼女がお前の事を心配していたよ。図書室で何があった?」
リトスは露骨に嫌な顔をして魔王から視線を逸らす。
「…………別に。ハデス様にご報告する様な事は何もありません」
すると、魔王はやれやれといった様子で嘆息する。
「全くお前は素直じゃないな。つまり、『報告する程ではない何か』があったんだな?」
「…………だっ、だったら何だと言うんです!! だいたい、あの女に心配される筋合いなんてありませんよ!!」
「――リトス。無理に彼女を受け入れろなどとは言わないが、あまり心配をかけてやるな。彼女は自分の一言が君を傷付けたかもしれないから僕に気にかけてやって欲しいと、そう言っていた」
「…………別に……。何も傷付いてなどいません。ただ――」
「『ただ』何だ?」
「………………ほんの少し。ほんの少しだけ、似ていると……。そう思っただけです」
〇
燃え盛る家々と焼ける屍の匂い。
見渡す限り焼け野原となったその土地に、昨日まで確かにあった人々の活気は微塵も感じられない。数歩歩けば無惨な姿となった同胞の屍に躓き、その度に絶望の淵へと叩き落とされる。
一体どうしてこうなったのか分からない。自分達が何をしたというのか。
日照り続きで作物が育たない時は水魔法で大地を潤し、飢餓を防いだ。大雨で近くの川が反乱した時は土魔法で巨大な壁を作り、畑と農民達を水害から守った。ルペシア軍が陸路からポリスを攻めて来た時には、軍に加勢し力を尽くして国家と民を守った。いつだって人間の為に持てる限りの力を尽くしてきた。種族は違えど分かり合えると、仲間だと、そう信じていたから……。
(――それなのに……!! それなのにどうしてっ!!! どうしてこうなった!!)
少年は力尽きる様に膝からその場に崩れ落ちる。悲哀、絶望、悔恨、憎悪……それらの感情が綯い交ぜになって少年の心に渦を巻く。行き場を無くした感情を発散する様に、何度も何度も地面を叩く。爪がくい込む程に握り込まれた拳の皮はとうに擦りむけ、血だらけになっている。
『くそっ!! くそっ!! くそっ!! くそがっ!!! くそがっ!! …………』
『…………ド…………………ど…が………』
どれ程そうしていたか分からないがふと気が付くと、どこからか掠れた声が聞こえてくる。焼け爛れた喉で絞り出す声は、性別さえ判別出来ない。だが、まだ生きている者がいる。少年はもうとっくに限界が来ている重たい体を奮い起こす。煙で霞む視界の中、必死に目を凝らし今にも消え入りそうな声の主を探す。
暫らくすると、倒れているであろう黒い人影が霞の中に微かに見える。慌てて黒い影に駆け寄り、うつ伏せになっているその体を仰向けに起こしてやる。その者は両腕を切断され、体にはいくつもの矢が突き刺さり、顔は無惨に踏み潰されていた。唯一性別だけは体付きから女性だと判別出来た。その酸鼻を極めた同胞の姿に、大粒の悔し涙が次々に零れ落ちる。
すると女の乾いた口元が、僅かに動く。
『……リ………ト……ズ………どご…………わ……だじの……』
『……え』
その言葉に弾かれる様に、女の顔をもう一度確認する。顔は踏み潰されていて判別がつかない。しかし、焼け焦げた外衣の鮮やかな緑色は、今朝までは元気だった母が着ていたそれとよく似ていた。
最悪の事態に少年の全身から血の気が引く。自分の思い違いかも知れない。だが、目の前の同胞は今確かに自分の名を読んだのだ。信じたくない。確かめるのが怖い。そんな筈はないっ…………だが確かめないわけにはいかない。少年は意を決し、震える唇を動かす。
『……か………かあ、さま………………?』
『………リ……トズ……………わた……じの…………………』
(母様だ………間違いない……!!)
『母様!! リトスです!! 私はここにおります!!!』
少年は潰れた顔から僅かに覗く母の瞳に映ろうと、必死に顔を近付ける。
すると、その姿を捉えたであろう女の瞳が僅かに揺れ――すっと雫が零れ落ちた。そして口元が微かに弧を描き――そのままゆっくりと瞼が下りた。
『――母様!! 母様!! 目を開けて下さい!! 私はここにおります!! どうか!! 私を……!! 私を置いていかないで下さいっ……!!』
〇
「はっ………………!!」
――夜も深まった時分、リトスは荒々しい息遣いのまま寝台から飛び起きた。
どうやら随分と懐かしい夢を見ていたようだ。まだ乱れる息を整えつつふと体に手を当てると、衣服が汗でぐっしょりと濡れていた。
リトスは呼吸が落ち着くと、すぐに寝台から起き上がる。そのまま真っ暗な室内を躊躇いなくテーブルの方へと向かい、そこに置かれたグラスに片手を翳す。すると空だったグラスがみるみるうちに透明な水で満たされる。それを一気に飲み干す。
もう何百年も見ていなかった過去の夢。最愛の母のあまりにも痛ましい最後……。今になってまた夢に現れた理由は察しが付く。
――今から四カ月程前、魔王は突然人間の娘を妻にすると言い始めた。初めは何の冗談かと思ったが、その理由を聞いて愕然とした。
なんとその娘は、五百年以上前にこの世を去った唯一無二の魔王の妻、ペルセポネの生まれ変わりだと言うのだ。この世の全ての生命は輪廻する、というのは生前のペルセポネからよく聞かされていた。魔王とペルセポネの黄金の瞳には、対象の魂を見通す力(魔眼)がある。魂には今まで辿った過去の人生の記憶が全て詰まっているらしいのだ。
魔王は森で出会ったスピラをひょんな事から「魔眼」で覗き、スピラの前世がペルセポネだと気付いたらしい。だが急にそんなことを言われても、すぐにはいそうですかと納得は出来ない。輪廻を疑っている訳ではない。魔王とペルセポネは自分にそんなバカげた嘘を付いたりしない。だが自分は魔王と違い「魂を見通す目」など持ち合わせてはいない。
見た目も種族もペルセポネとは全く異なるスピラを、急に受け入れろと言われても無理がある。唯一白銀の髪色だけはペルセポネと同じだったが。
それにスピラは記憶を失っている。スピラをペルセポネたらしめるのは記憶だ。記憶のないスピラはただの人間も同然。人間は嫌いだ。無知で強欲で浅ましい獣。他社から奪うことしか考えていないから、争いが途絶える事はない。それはここ数千年の歴史が証明している。
だが、だからと言ってスピラを無下には出来ない。スピラの魂は間違いなくペルセポネのものだからだ。魔王が何より愛して止まないペルセポネの魂を、見間違う筈がない。それに今日、少しだけスピラとペルセポネが重なって見えた。姿形は違えど、スピラの中にその姿を垣間見た気がしたのだ。懐かしい夢を見たのはきっとそのせいだろう。
人間に同胞を皆殺しにされ、寄る辺のない自分を引き取り、実の息子同然に愛し育ててくれたのは魔王とペルセポネだった。自分にとってペルセポネは母も同然の存在。そんな彼女がどんな形であれ、自分達の元へ帰って来てくれた。それだけで、もう充分だと思うべきなのかもしれない。理屈では分かっている。だが、心はそう単純ではないのだ。
魔王とて同じ気持ちだろう。だから、どうするのかは知らないがスピラにペルセポネの記憶を取り戻そうとしている。
『物事は常に表裏一体よ。コインに裏と表があるように、悪い部分があれば、必ず良い部分があるわ。わたくしは、そのどちらも欠けてはならないと思っているの』
ペルセポネらしい言葉だ……と、リトスは思った。ペルセポネはいつだって光と闇の両方を引き受ける覚悟を持てと、自分に言った。この世に無駄なものは一つも存在しないのだと。くだらないと思える事や、無意味に感じられる時間、足元を掬おうと忍び寄る暗闇にさえ――その全てに存在する価値があるのだと教えてくれた。
スピラを認めるつもりはない。自分が愛し、尊敬していたペルセポネはもうこの世のどこにもいない。――だけどほんの少しだけ、スピラに興味が湧いた。スピラがどんな人物なのか知ってみたいと、そう思った。