15
食堂帰りのその足で浴室へと向かい、湯浴みを済ませる。部屋に戻ると夕食の後片付けを済ませたリリウムも戻って来ていた。今は左手をロサ、右手をリリウムに捕らえられ、ローズオイルを塗り込まれている。スピラは美容に関心が無いので、正直この時間は苦痛でしかない。しかし、侍女二人のただならぬ覇気に気圧されてされるがままになっていた。
「……もうそろそろ良いんじゃないかしら? 充分綺麗になったと思うわ」
「駄目です! もう少し我慢してください」
「殿下のお肌ってほんと、綺麗ですよねー! 私もこれくらい白かったらなぁー」
「あ、ありがとう、リリウム。だけど付け焼き刃で綺麗にしたところで大して変わらないんじゃないかしら」
「付け焼き刃でも何でもしないよりましです!! 普段からこまめにお手入れしてればもっと早く済んだんですよ」
「……うっ。そんな事言われたって……興味が無いんだから仕方ないでしょう」
「せっかくお綺麗なのに勿体ないですよー!! 若い頃の怠惰が後に響くんですよ……」
「若い頃って……貴方達とたった四つしか変わらないじゃないの」
「たった四年、されど四年ですよっ! ね、ロサさん!」
「その通りです! 貴方も偶には良い事言うじゃない」
「はい! て、今私ロサさんに褒められたんですよねっ!? 嬉しい!!」
暫らく離してくれそうにないと悟ったスピラは、大人しく二人に身を預ける事にした。
そもそも政略結婚における最も重要な役割は妊娠出産だ。世継ぎを生む事は国力の維持と王家の更ならる反映の為に欠かせない重要な仕事。だが、周知の通りこの国で常識は通用しない。口伝によれば、魔王は唯一無二の存在で世襲によって引き継がれるものではないらしい。それはあくまで口伝なので噂の域を超えない。実際魔王に出会うまでは、出鱈目だと思っていた。だが、魔王の驚異的な力を目の当たりにしてきたスピラは考えを変えた。
もしかすると、本当に何百何千年も生き続けているのかもしれない。魔物は人間よりも遥かに長生きな者が多いし、決してあり得ない話ではない。仮にそうだとして世継ぎが必要ないのなら、床を共にする理由も無くなる。ますます自分を娶った理由が分からなくなるが、取り敢えずそれはおいておこう。とにかく、今夜は何とか乗り切れるかもしれない。
(――陛下がいらっしゃったら、確認しなくては!)
役目を放棄するつもりは毛頭ない。しかし世継ぎを生む必要がないなら、焦ることもないだろう。愛する人と一緒になりたいなどと贅沢な事は言わない。初めから期待すらしていない。だが、もう少し時間が欲しい。
そうやって自分の思考に没頭している間に、いつの間にか両手が開放されていた。ずっと両手を上げっぱなしだったので、二の腕が鉛のように重い。
さっきまで両サイドを陣取っていた侍女達は、いつの間にか寝台の方へと移動していた。何やら真剣な面持ちで話し込んでいる。
「貴方達、何をしているの」
「あっ、殿下! 丁度良かったですー! 殿下はどれがいいと思いますか」
「スピラ様! 私は断然こちらがオススメです!!」
「えー! 私はこっちのフリルのデザインが可愛いと思うんですけどー!」
「こんな甘ったるいデザインじゃ駄目です。スピラ様は品のあるお顔立ちをされているから、敢えて大胆に攻めるべきよ。ギャップを狙うの」
「なるほど……。ギャップですか…………勉強になりますっ!!」
「ちょ、ちょっとお待ちなさい!――これって…………」
寝台の上に並べられていたのは、どれも際どいデザインのナイトドレスだった。生地は肌が透ける程に薄く、胸元はざっくりと空いている。まともなデザインの物が一つも無い事にスピラは愕然とする。だが他のナイトドレスは全て洗濯中で、この中から選ぶしかないらしい。渋々といった様子で一番露出が控えめな物を選ぶ。控えめといっても、“この中では”だ。ガウンを羽織れば何とかなるだろう、と無理矢理自分に言い聞かせ袖を通す。
「わぁー!! とってもお似合いです殿下! これで陛下もイチコロですね!」
「……そ、そう。そうなったもらっては困るのだけれど」
「何を弱気な事を仰ってるんですか!! 昼間の勢いはどうしたんです! スピラ様がその気になれば落とせぬ男などいないというのに」
「だから貴方はわたくしを買い被りすぎだと何度言えば……」
賑やかに禁断の乙女トークを繰り広げていると、コンコンと扉を叩く音がする。
その瞬間、三人の視線が一斉に扉の方へと注がれる。ロサは小走りで訪問者を確認しに行き、スピラは慌ててガウンを羽織り、リリウムは寝台に広げられっ放しのナイトドレスを掻き集めクローゼットに押し込む。その姿を確認したロサは、ゆっくりと扉を開く。
するとナイトウェアにさらっとガウンを羽織った魔王が入室して来た。
ロサとリリウムは魔王に頭を下げ、そそくさと部屋を後にする。さっきまで賑やかだった事が嘘だったかのように、室内がシーンと静まり返る。何か話さなくては、と思うのだが緊張のあまり言葉が出てこない。その間にも魔王は一歩ずつ自分の元へと近付いてくる。
魔王の艷やかな髪が、歩く度にさやさやと揺れる。熱の籠もった黄金の瞳は、スピラを真っ直ぐ捉えて離さない。何故かこの瞳に見つめられると目が離せなくなる。森で出会った時もそうだった。
一歩、また一歩と距離が縮まるに連れ、心拍数が上昇する。思い浮かんだ事を話そうとするが、口をパクパクとさせるだけで声にならない。そうこうしている内に、とうとう目の前までやって来てしまった。
魔王は右手をゆっくりと持ち上げ、優しくスピラの片頬に触れる。
スピラはその感触にびくりと体を震わせる。心臓は早鐘を打ち、触れられた部分からどんどん熱が広がっていく。自分でもはっきりと分かる程に体温が上昇している。きっと顔も真っ赤になっているに違いない。せめて、この煩い心音だけは気取られまいと両手で押さえてみるが、然程効果がある様にも思えない。――緊張が限界に達し、魔王の顔を見ていられなくなったスピラは、瞼をぎゅうっと閉じて俯いてしまう。
「ふっ……ふふ……」
暫らくその姿勢のまま固まっていると、途切れ途切れに妙な音が聞こえてくる。その音を不可解に感じ、俯いていた顔をガバッと上げて確認すると、口元に手を当てて笑いを必死に堪えている魔王の姿があった。
「い、いや……その、すまない……。君の反応があまりにも分かりやすいものだから……ふふっ」
何だか分からないが、魔王のツボに入ったらしい。馬鹿にされた気がしたスピラは、一転してキッと魔王を睨みつける。
「なっ……!! こっちの気も知らないで!! どうせわたくしは間抜けな女ですわよっ!」
「……いや、間抜けだなどとは微塵も思っていない。ただ…………」
「『ただ』何ですの!」
「……愛らしいと思っただけだ」
「………………は?」
今のは幻聴だろうか、と耳を疑う。百歩譲って「愛らしい」と思ったとして、何故笑いのツボに入るのか全く理解出来ない。
「これを聞いたら君は怒るかもしれないが……。君がどんな反応をするのか見てみたかったんだ」
「……つまり、わたくしを嵌めたんですね! 許せませんわ!!」
「本当にすまない。どうしたら許してもらえるだろう」
あまりに素直な魔王の態度に、荒ぶっていた気分が半減してしまった。この勢いに任せてこの場の主導権を握ってやろう、と思っていたのにそんな気も失せてしまった。
「……許すも何も、初めからわたくしにはそんな権利ありませんもの」
「――ほう。なら君はこの場で僕に何をされても構わない、という訳か」
「そっ! それは………………構わなくないです……」
「ふっ……。やっぱり君は素直だな。嫌なら嫌と言えばいい。君が嫌なら何もしない」
スピラはその言葉に瞠目する。
自分は何においてもどうしたいかではなく、どうあるべきかを基準にあらゆる物事を選択してきた。自分で決めていい事柄など何一つ無かったのだから、そうなっても仕方がないだろう。しかし長い間自分の本心に見て見ぬ振りをして来たせいで、最早何が本当の自分なのかが分からなくなっていた。
だが魔王はそんな本心を暴き、自分の意思を尊重すると言ってくれた。――心の奥にぽっと明かりが灯る様な感覚がした。温かくて優しい、なんとも表現しがたい不思議な感覚。
「……陛下は、それで宜しいのですか? 世継ぎは必要ありませんの?」
「ああ、そうか。君が知らないのも無理はないな。僕は君達よりずっと長生きなんだ。だから世継ぎは必要ない」
(――噂は本当だったのね!)
「そうなのですね。では、陛下はいったいおいくつなのですか」
「それは難しい質問だな。ここへやって来てから、という事なら……だいたい二千五百歳位になるか」
「――――に、にに二千五百歳!?!? それって本気で仰ってます……!?」
「ああ。そんなに驚く事か?」
「驚くことですわよ!! どうしてそんなに長く生きて、それだけの若さを保っていられるのですか!?」
「んー。そういう種族だから、としか説明しようがないな」
「そ……そうですか。わたくし何だか頭がくらくらしてきましたわ……」
「何だ、まだ体調が悪かったのか? ――仕方ないな」
魔王はそう言うと、スピラの背中と膝裏に手を回し軽々と持ち上げる。
スピラはバランスを保とうと、咄嗟に魔王の首元にしがみつく。急に横抱きにされ、羞恥で死にそうだったが降ろして欲しいと言う前に寝台の上にそっと降ろされた。
魔王は寝台のへりに腰掛け、スピラの顔にかかる髪を優しく掻き分ける。
「無理はするな。慣れない環境で疲れているのだろう」
酷く心配そうな顔でそう言われてしまっては、突っ込む気力も失せてしまう。もうそういう事にしておこう。
「ありがとうございます。その内慣れますから心配いりませんわ」
「ああ。何か必要な物があれば、何でも言ってくれ。――じゃあ、そろそろ僕は部屋に戻るよ」
「はい。お休みなさいませ」
「お休み」
そう言うと魔王はスピラの額に優しく唇を落とし、颯爽と立ち去って行った……。一瞬の事だったので、防ぐ暇もなかった。スピラはがばっと半身をお越し、まだ感触の残る額を押さえる。わなわなと怒りとも羞恥とも知れぬ感情が全身を震わせる。
「――な、な、な何もしないって言ったくせにーーっっ!!!!」
スピラの悲痛な叫びは誰に伝わるでもなく、夜の闇に掻き消えていった……。