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(――右手が温かい……)
それは半覚醒状態の五感が、一番初めに感じ取った感覚だった。
ぼやける視界の先には、まだ見慣れない寝台の天蓋が見える。徐々に視界が鮮明度を増し、はっきりとした意識が戻ってくる。自分はどうしてここにいるのだったか、と考えたのも束の間、結婚式での情景がふっと頭を過る。
(そういえばわたくし……あの時、酷い頭痛に襲われて……それから…………はっ!?)
「そうだったわ! 式は!? 結婚式はどうなったの!?」
スピラは勢いよく寝台から半身を起こす。
一瞬にして現実に引き戻され、自分の犯した失態に顔を蒼褪めさせる。焦っているせいか自分の右手を握る存在に微塵も気付く様子はない。
「結婚式なら気にすることはない。それより、体調はもういいのか」
突然、右側から聞こえてきた男の声にスピラは心臓が飛び出そうな位に驚く。声がした方への首を向けると、心配そうな表情をした魔王が視界に入った。一体いつからここにいたのだろう、という疑問が頭を過る。それからふと、右手に感じる温もりに視線を落とせば、魔王の大きな手に自分の手がすっぽりと包み込まれていた。
反射的にその手を解き、自分の元へと引き寄せる。
寝起きの無防備な姿を晒してしまった事や、寝顔を見られていたかもしれない事に対する気恥ずかしさで頬が朱に染まる。咄嗟に振り解いてしまったが、自分を心配して側に居てくれた事は明らかだ。少し冷静さを取り戻したスピラは、気まずくなって魔王の顔からそっと視線をそらす。
「その……すまない。心配だったもので……」
「……いえ……こちらこそ、ご心配をおかけして申し訳ありません。それに結婚式の事も申し訳ありませんでした」
「それなら気にする事はないよ。それより、何があったんだ? 体調が悪かったなら言ってくれれば別の日にしたんだが……」
「……体調は問題無かった筈なんですが、急に頭痛と目眩に襲われて……」
「そうだったのか。今は大丈夫なのか? 一応治癒魔法をかけておいたんだが」
「はい、もうすっかり元気になりましたわ。陛下の魔法のおかげですわね。ありがとうございます!」
「そうか、それなら良かった」
魔王がそう言い終えた所でコンコンと扉を叩く音が聞こえた。魔王は自分の背後に位置する扉に視線だけを動かす。すると扉がギィと鈍い音を立てながら独りでに開いた。
おそらく魔法を使ったのだろうが相変わらず杖や詠唱を一切使わない。杖と詠唱は魔法を具現化する際に必要となる重要な媒体だ。その過程をすっ飛ばして息をする様に魔法を使う魔王はやはり只者ではない。
誰が開けるでもなく開いた扉に、驚いた表情のロサが恐る恐る室内へと足を踏み入れる。両手はティーセットの乗ったトレーで塞がっている。
「し、失礼します。スピラ様、お加減は如何ですか」
「ロサ、心配をかけてしまったわね。でももう大丈夫よ! すっかり元気になったわ」
先程よりも幾分か顔色が良くなった主の姿に、ロサはほっと胸を撫で下ろす。
「それでしたら良かったです」
「じゃあ、僕はそろそろ行く。また夕食で会おう」
そう言って魔王は部屋を後にする。その姿を見送ってからロサはカップにお茶を注ぎ始めた。あまり嗅ぎなれない香りが室内に漂う。嫌な匂いではないが不思議な香りだ。カップを覗き込むと濃い茶色の液体が見えた。初めて見るその液体を興味深く覗き込んでいると、ロサがその視線に気付いた。
「これ、何でも東の国で飲まれている飲み物らしくて凄く貴重な物らしいんです。虚弱体質や病にも効果があるのだとか」
「そうなの。だけどそんな貴重な物を頂いても良いのかしら」
「スピラ様の御体を気遣って陛下がご用意して下さった物ですから」
「……そうだったの。それなら遠慮なく頂くわ」
スピラはカップを手に取り、ゆっくりと口内へ流し込む。少し苦味があるが悪くない味だ。香りに鎮静作用があるのか心が安らぐ。
「何だか癖になりそうな味だわ。確かに身体に良さそうね。だけどこんな貴重な物、何処で手に入れたのかしら」
「私もそれについては気になってるんです。食器類も珍しい物が色々揃ってますし。食料庫にも、初めて見る食材が幾つかありました」
「そう。それは気になるわね……。ところでリリウムはどうしてるの」
「リリウムは夕食の準備中です。スピラ様のために栄養満点の食事をご用意するんだって張り切ってましたよ!」
「それって……もしかしてリトスも一緒に……?」
「はい。意外と上手くやってるんじゃないですかね」
「……そうなの。あの子侮れないわね。わたくしも頑張らなくては!」
「頑張るのは構いませんけど、取り敢えず夕食までは休んでて下さいね」
「ええ、ありがとう。そうさせてもらうわ」
〇
辺りがすっかり暗くなった頃、スピラはロサと共に食堂へと向かっていた。
薄暗く入り組んだ廊下を燭台の明かりだけを頼りに進む。まだ慣れていないせいか途中何度も道を間違えてしまい、予定の時刻を過ぎてしまっていた。やっと見えてきた食堂の入り口からは、蝋燭の灯りが漏れている。
扉を開けると、白いテーブルクロスの掛けられた長卓が視界に飛び込んで来る。その中央の席には既に魔王が座していた。ロサに椅子を引いてもらい、魔王の隣の席に座る。
「少し道に迷ってしまって……遅くなって申し訳ありません」
「構わないよ。この城の廊下は複雑だからな」
「そうですわね。でもそのうち慣れると思いますわ」
二人が着席したタイミングを見計らって、リトスとリリウムが次々と料理を運んでくる。
鴨肉のロースト、牛肉のパテ、蛸のマリネ、生野菜のサラダ、パン、スープ、果物の盛り合わせ、焼き菓子等の豪華絢爛な食事が長卓の上にずらりと並ぶ。その品数は目算で20種以上。
元々食が細いスピラは、その圧倒的な品数にたじろいだ。まさか魔王はいつもこの量の夕食を平らげているのだろうか、と疑問に思っているとリリウムがボトルを持ってスピラの向い側にやってきた。スピラのグラスにワインを注いでいる。
「殿下、お加減はもう大丈夫なんですか」
「ええ、心配をかけてしまったわね。でも、もうすっかり元気よ!」
「なら良かったです。沢山食べて栄養付けてくださいね!」
「ええ。このお料理はリトスと貴方が作ったのよね?」
「はい! と、言いたいところなんですが……。殆どはリトスさんが作ったものなんですよ。私はお皿を用意したり盛り付けたりしてただけなんです」
「盛り付けも美しいわよ。貴方はセンスが良いものね」
「本当ですか!! 嬉しいです!! 私、お料理も頑張るのでいつか食べてもらえますか」
「ええ、勿論よ。楽しみにしているわ」
それからスピラは自分の取皿に三種類の料理を取り分ける。すっとナイフを通し牛肉のパテを食べやすい大きさに切り取ったら、美しい所作で口元へと運ぶ。
横に座る魔王はその様子を静かに観察している。
「――美味しい……。凄く美味しいわ、これ。母国の宮廷料理にも負けていないんじゃないかしら」
「口に合ったなら良かった。リトスは昔から料理が趣味でね。食べて貰う相手が出来て良かったよ」
(――食べて貰う相手? どういうことかしら)
「陛下はいつもリトスのお料理を食べていらっしゃるのではないのですか」
「僕は肉はあまり得意ではなくてね。食べられない訳ではないが、基本は野菜か果物しか食さない」
(そうだった! 魔族は基本草食性だった。わたくしとした事が……。基本中の基本ではないの)
言われてみれば、長卓に並ぶ料理の数々は野菜をベースに作られた品が圧倒的に多い。つまり、ここに用意されている肉料理は全てスピラの為に用意された物なのだ。
スピラはリトスの心配りにぐっと胸が熱くなった。魔王の向かいで鴨肉のローストを切り分けているリトスに向けて興奮した様子で口を開く。
「リトス、貴方のお料理はとっても美味しいわね! 凄い才能だわ」
「…………大袈裟すぎます。別にこれ位、普通です」
リトスは顔色一つ変えずにそう答える。
しかし、心なしか昨日より声音が柔らいで聞こえた。スピラはほんの少しだけリトスとの距離が縮まった気がして嬉しくなった。
それから和やかな雰囲気で食事の時間は過ぎていった。
普段は少食のスピラだが、野菜ベースで作られた料理はどれも胃に優しく食べ易いので、少し食べ過ぎてしまった。ピラミッド型に積まれたフルーツの中には、母国では見たことが無い種類も幾つか混じっておりどれも瑞々しくて美味しかった。流石に全部は食べきれなかったが、残りは朝食に回してもらう事にした。せっかくの手料理が廃棄になるのは忍びない。次からは少なめに作ってもらう様に伝え、スピラはロサと私室に戻った。