幕間「ある日の夜」
自分の体が高い空から落ちていく。自分という個体を認識したのはその時であった。
同時に、この高さだと今の体では耐えられないということも理解できた。とはいえ、今の自分ではどうすることも出来はしない。べちゃりという音がして、体が大地に飛散する感覚がある。今、自分の顔は無く目がなくとも当たりを視認できる“目”も無くなってしまった。肉が地面に広がっている感覚は不快だが、命が終わっていく感覚はどうしようもなく心地よかった。
やっとで全てが終わったのだ。
安堵と漠然とした悲しみが自分の中で渦巻く。何と皮肉な事か。死の間際に感情というものが産まれるなんて。
「・・・生きたい?」
聞き覚えのある声が空から響いてきた。何とか最後の力を振り絞って数センチほど感覚を広げると、誰かが傍に立っているようだった。人のようなそれは、ただ静かにこちらを見下ろしている。
穢れたものを見るような視線とは違う、憐れんでいる様な波長を感じることができた。その声の主が自分が知っている存在であるならば、自分のこの体を踏みつぶす権利があるはずだ。だというのに、何故声の主はこちらに危害を加えない?
「ではこう問おう。美しいものを見たくないか?」
美しいとは何だろうか。
悲しい、嬉しい、楽しい、怒り、そういう感情とは別の物なのだろうか。
もう全て終わりたいという感情と知りたいという感情が入り混じる。人の言葉なんて全く分からないけれど、自分の思いが伝わるようにして口を開く。すると、自分の体が浮いた。
「美しいというのは、心を満たすものだ。この世界は美しい物であふれている。人、風景、都市、見えるものではなく見えないものでも美しいというものはあるんだよ。君はそれを知らないだろう。だって、教えて貰わなかったんだから。君は君の人生を生きる権利がある。造られた物であったとしても、大きな使命を背負っていたとしても、君は君の人生を生きるべきなんだ。大切な人に、それを教えてもらった。だからこのことを君にも教えたいんだ。どうかな?」
声はなぜか震えていた。なぜ、この声の主が感情を揺らす必要があるのだろうか。
理解できない。
だが、この声の主から嘘は感じられない。
死ぬことを止めて、この人と生きてみよう。
そうすればあの人たちのような“運命”と出会えるかもしれない。
ぐらりと視界が揺らぐ。
瞬きをすると、眼前に広がるのは赤い野原。
なんだか徐々に楽しくなってきて、私はその野原を駆けていく。
はしゃいで声を上げて私は駆けていく。その隣には誰かがいるのだが、顔は黒く塗りつぶされて見えない。そう言えば自分の顔は一体どんな顔だったのだろうかと疑問に思って、丁度近くにあった池に自分の顔を映す。
「ひっ」
思わず声を上げてしまった。自分の顔にはぽっかり穴が開いていて、穴の向こうには青い空が広がっている。私が動くたびにその穴からはどろりと黒いものが流れ落ちていく。
「どうしたの?」
優しい声がして振り返ると、そこには逆光で見えない女の人が立っていた。その人を私は知っている。だから私はその温かな人に向かって走っていく。
「■■■■■!!」
優しくその人は両手を広げて私を受け入れてくれる。その人に抱き着いたその瞬間、私の顔から流れ落ちていく黒い液体のようにぐしゃりと溶けて落ちる。
赤い野原に広がる人だったもの。私はそれをかき集めていくが、段々と私の液体とそれが混じり合いどれがどれだかわからなくなっていく。どうしたらいいのか私は分からずに、液体を垂れ流しながら呻いていく。
「選んだんでしょ?」
不意に声が聞こえる。先程まで一緒に走っていた彼女が目の前に立っている。
顔は見えない。だけれども、彼女は確かに泣いていた。
「ごめんね」
ふっと、落ちる感覚がして重い瞼を上にあげていく。目の前に広がるのは剥き出しの岩肌。湿度で濡れているその表面は、地面に焚いている焚火の光を反射させている。揺らめくその光をぼんやりと見つめながら、今が現実かどうかを確かめるようにして自らの掌を爪で切り裂く。
痛みと赤い血がぽたぽたと顔に落ちていく。間違いなく現実だ。
「何を見ていたんだろうか」
1人呟く。誰も答えることはない。それは勿論我ただ一人しかここにいないからだ。
自分の脇に置いている赤い外套に腕を通し、フードを深くかぶる。フードは深くかぶらなければいけない。だって、そうしないといけないからだ。
「お腹空いた」
いや我はお腹が空いてはいない。お腹が鳴ることはない。だって我は原初の厄災で、全てを壊すために産まれてきている存在だからお腹がすくという感覚は生きているものがおぼえるものだ。だが、今我は確かに口寂しい。何かを口に入れておきたいような感覚だ。
先程まで背にしていた物から肉を引きちぎる。その時、僅かに引きちぎった物がびくりと反応したのだがそんなことはないはずだ。だってもうそれはただの肉の塊なのだから。確か、肉体の反応といったか。
一度肉を口に運んでしまうと、体は貪欲に肉を求める。手が勝手に伸びていき、次々と肉を引きちぎっていく。こういう時は消えるという特性がとても楽だ。人のように片付ける心配がないし、口に入れれば自分の糧となる。
「うっ」
なんだか無性に吐きたくなって盛大に地面に吐いた。吐瀉物は先程食べていた肉片ではなく、黒いヘドロの様なものであった。思わずそれを見て悲鳴を上げた。そして、掻きむしるようにして自分の顔に爪を立てる。何度も顔に爪を突き立てて、そこに穴が開いていないことを確かめる。
呼吸を浅くしながら穴がないかどうかを何度も確かめて、穴がないことをやっとで理解した頃には自分の爪の中に赤い肉片が詰まっていた。
「あ、れ?」
そこでふと気が付いた我の手はこんなに獣のようであっただろうか。
これではまるで、魔物のようではないか。
「違う、違う違う!!我は、魔物ではない!!」
あの様な下等なものではない。言葉も喋ることができず、考えなしに殺戮をするだけの存在などではない。考える力がある選ばれた者である。
「これは!我のモノでない!!」
街灯の中からナイフを取り出そうとするが、その手ではうまく掴むことができない。近くにあった石を辛うじて掴むことができて、何度も何度もそのおぞましい手へと振り落とす。痛みなどどうでもよかった。ぐちゃぐちゃになるまで手を石で殴り、骨は砕けてもう手であるようには見えなくなってしまった。
「これでは、これでは」
我は愛してもらえない。
一体誰に?
ふと優しい誰かの影が頭の中を過っていく。その人は確かに我の大切な人であったはずだ。だというのに、何も思い出すことできない。
振り下ろしていた石を誰かに止められる。振り返ろうとした直後、ぐらりと視界が揺らいで体が動くことができなくなった。背中から地面に落ち、半分寝ている様な感覚の中ぼんやりと目の前にある焚火を見ている。
「これはひどいね」
「・・・回復魔法は?」
「できるけれど、少し摂取しすぎたから元の腕には戻らない」
「なら、腕を取ってくる」
「あ」
「何?」
「・・・ううん。何でもない・・・」
「可笑しな人だな。早い方がいいだろう?」
「うん。ごめんね」
「そんなこと言わないで。貴女は大切な人で、大切な人の大切な人は、こちらも大切にしたい。この前と同様の腕を持ってくるから。その間切除をしておいて」
「うん」
足が一つ去っていく。すると我何やらカチャカチャという金属の音が聞こえてくる。そして、肉を斬り、骨を斬る音が聞こえてくる。感覚が全て奪われているからだろう。痛みは全くない。だが、その人は悲しそうな声で何度も「ごめんなさい」と謝っている。
口は開かない。だけれど、どうしてかこう言いたかった。
「どうか、謝らないで」
なぜか分からないけれど、その人に謝られると胸が痛むから。




