第1部-51話「掴む」
子犬は幾度目かの彼女の記憶を黙ったまま座って見つめている。彼女の中で痼として残っているこの数年の記憶は、何度見ても慣れることなど無い。
それにしても、と子犬は呆然と立ち尽くしているクラース達をちらりと視線を移す。
子犬は彼女の一部であるために記憶、つまりは彼女の心の中にいても、記憶の再現としてそこにいる人間には感知できない。だからクラース達を見た時は、彼等は異物であるためにどのように彼等が彼女の心に影響を及ぼしてしまうのかを危惧していた。とはいえ大きな行動をしない限りは特に心配なく、心の守護者たる自分の傍から離れない限りは自分の力である程度誤魔化しがきくのだが。
しかし子犬の今まで彼女の中から見た印象と会った印象と総合したものとして、正直彼女の為ならばどのような行為も構わず、彼女が受けていた仕打ちを直視したときに一直線に彼女を助け出してしまうのではないかという懸念が産まれてしまうほどだったために、もしそのような行動をするのならば追い出すしかほかない、と思っていた。しかしながら、ここまで彼女の記憶を見ていた彼等は、その記憶に干渉することなく見ているだけだった。
子犬は彼等の手を、唇へと視線を移して目を細める。
―いいや、我慢しているだけのようだ。
よく見ると皆一様にして唇を強く噛み、手のひらには爪が食い込んでいる。フロースとルミノークスは涙を目に一杯ためているではないか。何かしてあげたいけれど、現実における風の大精霊の警告をしっかりと守っているのだ。
子犬は安堵する。彼等はただ妄信的に彼女を愛しているのではなく、守りたいという意志も再び共に歩みたいと思っているのだ。それならば、きっと彼女の手に届くだろう。
途端、風景が乱れ光の粒のように消えて闇が訪れるのだが、お互いの姿を認識できる。浮いているのか、立っているのか曖昧な空間はただただ黒く塗りつぶされている。
ふっと全員の体が僅かな段差を降りたような感覚に陥るが、それはすぐに終わる。今度こそはしっかりと地に足が付いた感覚を感じクラースは息をつく。
≪2つ目の記憶。2つ目の彼女の後悔。病的なまでの他者への献身はここから産まれたの≫
通学路を彼女が小走りで急ぐ。クラース達の目の前を通り、その瞬間皆が「アウローラ」と名前を呼ぶ。それを聞いて子犬は驚いた。この子等は、見た目が違うというのに彼女をしっかりと“アウローラ”だと認識している。ふっと子犬は地面を見つめた。
≪あぁ貴女は、こんなにも愛されているのね≫
※
生まれ育った土地の高校へと私は入学した。地方都市であるので高校の数は多いが選り好みせずに、卒業後すぐ就職が見込める実業校へと入学した。というのも、榊さんの家で暮らす時間は居心地が良すぎて、自分はそのような恩恵を受けるべきではないと思ってしまうからすぐにお金を稼いで、元の家に暮らしたかったのだ。
元の家は、榊さんが買い取ってしっかりと保存してくれていた。元の家に戻って、榊さんに返金するつもりだ。彼にそう言うと「いいのに」と笑うが、それでは私の気が収まらなかった。本当は、両親が残してくれたお金ですぐに返金は出来るのだが、このお金は私が使うべきではなく、弟が使うべきなので私自身はほとんど手を付けていない。美和に少しだけ使われていたのは癪だが。
高校入学後は、見知った顔も何人かいたので問題なく過ごすことができた。普通に友人もできたし、勉強も、“普通の生活”というものを満喫できていた。
だがそれは、高校2年生の秋に終わりを告げる。
ある日、とある男子生徒から告白された。その相手は別に好きでも嫌いでもなかったが、自分がそのような対象として見られていることが気持ち悪くて、同時に愛されるということに恐怖を感じた。なぜ、怖いと感じたのかは分からない。自分は愛を与えられるべきではないという忌避の感情ではなく、ただただ、怖かった。
こっぴどく、というわけではなく、丁寧に断った。
「ごめんね。君の事、友達としてしか見れないんだ」
恐らく、私の言い方が悪かったのだろう。彼は「諦めないから」と真剣な眼差しでそう言うと、立ち去った。
青春の1ページ。そう片付けられる甘くささやかなものであればどれほどよかっただろうか。
次の日学校に来ると、それが起きてた。
いつもより遅く学校に来てしまい慌てて走っていると、誰もかれもが玄関に入らず屋上へと視線を向けてざわついている。中にはスマートフォンを向けている人もいた。何だろうと屋上へと視線を移すと、今にも飛び降りそうな女子生徒が一人。その顔を見ると、高校1年生から一緒にいる友人の1人だ。
血の気が引いて、慌てて屋上へと向かうと、屋上の階段下でもう1人いつも一緒にいる子がすすり泣いていた。私はその子に駆け寄って声を掛ける。すると彼女は泣きはらした目で私を見ると、抱き着いて来た。
一体何があったの?と声を掛けると、彼女は静かに昨日彼女とやり取りしたことを話し始めた。
飛び降りようとしている彼女は、私もこの子も知らなかったが中学3年生から付き合っている彼氏がいるようで、誰が見ても仲が良くて2人で一緒の高校に入るためにお互い頑張るほど想い合っていたそうだ。だが、最近になって彼氏は何やら心ここにあらずといった風で、一緒の時間も少なくなってきたのだ。そして昨日の夜「別れよう」と言われたのだ。
理由を聞くと、好きな人ができた、振られたけれど、彼女の事しか考えられない、と。そして、ただただ「ごめん」と謝られたらしい。
心当たりがあって、目の前の彼女に問いかける。
「相手の子の名前は?」
「わかんない。あの子は知っているみたいだけど、ウチには教えてくれなかった」
再び泣き始める彼女の頭を撫でながら「ちょっと、行ってくるね」と言い、その子を他の子に任せて屋上へと階段を上る。いつも屋上への扉は鎖で何重にもなり、南京錠が掛けられているのだが、それはバッサリと切られている。
屋上の扉の前にいる先生が「戻れ!!」とどなり声をあげるが、私はそれを無理矢理どけて屋上へと足を踏み入れる。生徒が入ることがない屋上は雨風に曝されているために所々風化し、昨日夜中にパラついた雨により泥だらけで、落ち葉も水たまりの中で何枚も浮いている。
私の胸程までしかないフェンスの向こうで、彼女がこちらに体を向けながらフェンスを掴んでいる。私の顔を見ると、みるみる目を丸くし、涙を溢れさせた。
てっきり憎悪を含んだ目で見られるかと思ったが、その視線は純粋にただただ悲しい色を帯びている。
ゆっくり距離を詰めていくが、来ないでともいわれない。屋上の半ばまで来たところで、私が「聞いた」と震えて言うと、彼女は泣きながら笑う。
「わかんなくなっちゃった」
泣きながら笑顔を浮かべる彼女は、フェンスを握っている手に力を込める。
「辛いの。苦しいの。怒りたいの。泣きたいの。いろんな気持ちがぐるぐるなってね。それを吐き出したいのに、誰に吐き出せばいいのか分かんないの。別れるとか思ってなくて。話聞いたとき、コノヤローって思ったの。でもさ、ゆーちゃん断ったって。聞いて。ゆーちゃんの事、嫌いになろうとしたのに、出来なくて。りゅー君の事、大好き。でもね、ゆーちゃんの事も大好き。だからね、わかんなくなちゃって、苦しくて。もう、全部嫌に、なっちゃった。もうやだ・・・死にたくないのに、死にたい。どうしたらいいかわかんない」
ぐちゃぐちゃに涙を流して吐き出す彼女に、私はゆっくりと近づいた。私は、どう受け答えをすればよかったのだろうか。いいよと言えば、彼女はこのような行動を起こさずに私だけを憎めただろうか。無理、と答えれば彼は諦めて彼女と共に歩んでくれたのだろうか。
どうすれば、よかったのだろうか。
涙を彼女は拭いその手でフェンスを再び握り足の場所を直した、が、濡れた手がずるりと滑った。「あ」という声と共に彼女の体はぐらりと揺れて、もう一つの手でフェンスを強く握ろうとするが焦った彼女は足を動かしてしまって空を蹴る。
遠くと後ろで上がる悲鳴と共に私は彼女の名前を叫びながらまだフェンスを握っている手を掴む。何とか掴んだが、パニックになっている彼女は悲鳴を上げて体をバタバタと動かしているうちにもう一方の手もフェンスから外れ、雨で滑り足も縁から外れてしまう。
「やだ!死にたくない!!」
彼女の切羽詰まった声に、あの日の光景がフラッシュバックする。細いとはいえ縋る彼女の体を支えるのは一人ではキツイ。先生達が後ろで何やら指示を出しているのが聞こえるが、私の手は既に悲鳴を上げている。ずるりと制服が滑り、私も一緒に落下した。
落ちる瞬間彼女を引き寄せて彼女の頭を胸に抱いて、くるりと自分が下になるように体勢を変えた。
これはもう無理かと思ったが、幸いにも丁度真下にあった広葉樹と植木鉢によって私と彼女は軽傷で済んだ。とはいえ、気絶はしたので病院へと運ばれていった。
検査入院1日だけして、何の異常も見られなかったため私はすぐに退院となったのだが、あの子は自殺未遂をしたということでしばらく入院となるらしい。看護師さんに話をして彼女の病室へと訪れた。
あの子の母親がそこにいて、私は頭を下げるが母親は彼女から何も話を聞いていなかったらしく、頭を深々と下げてお礼を言う。私は泣きそうになりながら「いいえ、全て私が悪いのです」と言いたかったが、出来なかった。母親は気を使って廊下に行くと、私と彼女を二人きりにしてくれた。
「ごめんなさい」
私は、涙ながらに謝る。
私が、ちゃんと断っていれば、相手に変な気を起こさせるようなことをしなければ。彼女は愛する人と共に、これから幸せに暮らしていけたのかもしれない。泣きながら謝る私に、彼女は微笑んだ。
「謝らないで。というか、謝るのはこっち。ごめんね。ごめんね・・・」
ぽろぽろと彼女の瞳から涙が零れ落ちる。そして、両手を覆い泣き出した。私はそれを抱きしめてただずっと謝るしかなかった。2人の泣き声が部屋の中に響き渡る。
人を不幸にしかしない。人から一番大切なものしか奪わない。こんな私には、自分の為に生きる価値などない。
これからは、私は他者の為に生きよう。困っている人がいるなら助ける、どんなことをしても助ける。それで命を落とそうが、そんなことはどうだっていい。他者の為に自分の体を使うこと、それがきっと神様が私に与えた償いの方法であり、使命なのだ。
ここしばらくは、私にすぎた幸せだった。
自分の手で救った命を抱きしめながら、他者への献身に全て捧げると誓った。
※
≪ここからの彼女は、今までの女性らしい姿とは一変したの≫
景色が変わり、先程までいた校舎がある敷地内にクラース達は立っている。玄関に数込まれていく少年少女等の中にクラースは前世界のアウローラの姿を見る。長く艶やか長い髪は耳が見えるほどに短く切られ、女生徒の制服を着ているとはいえ後ろから見れば少年と思えるほどだった。更に、バッグや小物類も可愛らしい物とは一変しシンプルでスタイリッシュなものへと一新していた。
≪彼女は、女性として視られないように取り繕った。そして、学校の王子様と呼ばれるほどに手伝いや助っ人とかをかってでるようになったの。これが2つ目の記憶。じゃ、3つ目ね。行きましょう≫
子犬が身をひるがえし、校門から出ると再び周囲の景色は黒く塗りつぶされて落ちる感覚と共に景色が一番最初の公園へと変わった。
「一つ質問いいか?」
≪何?≫
「屋上から落ちた子は、どうなったんだ?」
≪少し遠い場所に引っ越した。あの告白してきた子も、噂が広まって学校にいられなくなって引っ越した。その後は知らないわ≫
嫌悪感を含み吐き捨てるようにしていった子犬は公園の入口まで歩いて行き、その後を皆が付いて歩いて行く。
≪3つ目の言ってもね。これからは沢山の記憶が複合したもの。混ざり合っているから、私から離れないように気を付けて≫
子犬は振り返らずに言う。クラース達は返事をすることなく、ただ小さい子犬を見失わないように早足で付いて行った。そして、全員が公園を後にした直後、瞬きをするほどの一瞬で景色が変化する。驚き、足を止めてしまいそうになったのだが子犬はクラース達の方を振り向きもせずに進むため、足を無理矢理動かして前に進んで行く。
クラース達の世界にはない大きなアスファルトの大きな道路をたくさんの自動車が走り、歩いている人も多い。歩道同士を繋ぐ古びた歩道橋の上を、子犬とクラースは歩いて行く。子犬はトコトコと歩道橋を降りようとしたが、そこで足を止めた。何だと子犬の視線の先を見ると、そこには今にも階段から転げ落ちそうな年配女性がいて、その年配女性の少し前には、少し大人になった前世のアウローラがいた。
紺色のスーツに身を包み、短く切りそろえている髪は学生時代から変わっておらず、顔立ちも少し大人っぽくなった程度で殆ど変わりがない。彼女は、落ちそうになった女性の方に瞬時に振り向くと、女性の手を取ってグイっと力任せに引っ張り反動で彼女の体が階段から転がり落ちた。
悲鳴と共に、倒れている彼女の傍に駆け寄って叫ぶ人々。落ちる瞬間に頭を庇った彼女は、血を流していないものの気絶している。その隣を子犬は静かに通り過ぎて、クラース達も戸惑いながらもその隣を通り過ぎる。
階段下に着いた直後、再び一瞬で景色が変わった。
今度は先程と同じくらいの大きな道路の横断歩道。青信号が点滅している最中、黄色い帽子を被ってランドセルを背負っている少女が慌てたようにして走っていった。そこを曲がろうとした車が少女の気が付かずに通り抜けようとする。それを、先程と同じスーツを纏った彼女が鞄を放り投げて走り、少女を間一髪で抱き上げて走り抜ける。だが、間に合わずに彼女の体が車と衝突した。
子犬とクラース達は彼女が誰かを、命を顧みずに助けるという光景を通り抜けていく。
何度も、何度も、彼女は誰かを助けて、怪我を負う。それは長期の入院をしなければならないものから、病院に行かなくてもいい傷まで。
病的なまでの誰かを助けたいという意志が見えた。
そのためなら、死んでもいいとすら思っているようだった。
そして、彼女は日夜“助ける行為ができる場所”を探しているようだった。まるで、死に場所を探している猫のように。
酔っ払いに絡まれている女性を助けた際に喧嘩になって返り討ちにした光景後、今度は病院の廊下へと景色が変わる。扉が開け放たれている病室の前で、子犬は座る。
クラース達も立ち止まると、中では顔や腕に包帯を巻いてベッドの上で上半身を起こしている彼女と傍らには彼女に似ている青年が立っている。
≪あれが、彼女の弟≫
弟と何やら話している様だが、聞こえない。耳を澄まそうとした直後「―それで許されるとでも思っているのかよ」という低い声が聞こえてくる。すると、彼女の顔がみるみる翳り項垂れたまま乾いた笑みを浮かべる。声は聞こえないが何を言っているのかはすぐにわかる。「ごめんね」と謝っているのだ。
弟は勢いよく病室を飛び出し、少し離れたベンチに腰掛ける。そこで、声を殺して泣いていた。
子犬は踵を返し、病室を後にする。クラースは病室の後にする時に中の彼女の顔を見ようとしたが、窓の外を見ていてよくわからない。ただ、握りしめた拳は震えていた。
ノヴァ達の背中が遠ざかっていくのを小走りで追いかけようとした直後、「アキト君?」という声が聞こえて鳥肌が立った。
―そんなはずがない
と思うが、その声に聞き覚えがあった。心臓が早鐘を打ち、息が浅くなる。
長い間聞いて来たその声、だが、ここにいるはずがない。いるはずがないんだと、他人の空似だと頭の中で考えると同時にその声を聞き間違うはずがないという確信があった。
振り返ろうとした直後、ぱっと景色が変わり病院の廊下ではなく、黒い空間へと景色が変わる。
振り返らなくてよかったという思いと、振り返れば聖騎士任命の儀以降自分が抱いている“誰かの後悔”のヒントが得られたのではないかという思いがあった。
いやしかし、今はアウローラを迎えに行かなければと首を振り、少し先にあるノヴァ達に近づいていく。
「どうかしたかい?」
ノヴァの問い掛けにクラースは「いいや、大丈夫」と何事もなかったようにして答えるが、勘のいい彼の事だ。何か感づいているだろうが「ふぅん」と短く言って、子犬へと視線を移した。
子犬が何もない空間に短い手を伸ばすと、そこに元々は別の色だったものを黒く塗りつぶした扉が出現した。
≪この先は彼女の記憶であるけれど、彼女を蝕んでいる闇魔法の中よ。一番彼女が怖かった、苦しかった思い出の中に捕らえ、生命力を奪う魔法。ここで彼女を助ける手段はたった一つ。彼女の願いを叶えること。そうすれば、種は可視化でき壊すことができる。壊す手順はここが解放されたら教えるわ。後、私は中に入れない≫
「どうしてですか?」
子犬は小さく≪くぅん≫と喉を鳴らす。
≪私、あの子に拒否されているの≫
「守護者ですのに?」
≪うーん、まぁそうね・・・多分、あの子は生を受け入れていないから。私と混ざり合うのを遠慮しているのね・・・≫
自分で納得した子犬は何度も頷きながら唸るように言うが、何の話か全く分からないというようにクラース達は顔を見合わせる。子犬は≪こっちの話≫と首を左右に振った後に、扉に手を当てる。すると、扉はカチャリと音を立てて勝手に開いていく。
≪ここはさっきまでの記憶とは別物で、彼女自身が再現した記憶ではなく、闇の魔法が彼女の記憶を読み取り再現した記憶。いい?別物よ。だから、したいと思うことを貴方達はすればいいの。それがあの子が一番欲しがっているものだから。大丈夫、貴方達なら大丈夫≫
扉が完全に開くと、周辺の景色は黒い空間ではなくなり、沢山の人が手元を見ながら何かを待っていた。クラースはこんな場所を見たことがないはずなのだが、ここがどのような場所か分かった。
彼等が待っているのは電車というもので、ホームと呼ばれるこの場所は固い石で舗装されている駅内部にある場所だ、と。
「見たことないはずなのに、分かりますわ。この場所が」
ルミノークスが戸惑ったようにして呟く。つまり、この光景の知識は皆何かしらの影響で与えられているということだ。これも、先程の子犬の力なのだろうか、それともアウローラの心が作用しているからなのだろうか。とはいえ、考えても仕方がない。人混みの中、クラース達は周囲を見渡して彼女の姿を探す。
「いました!!」
フロースが声を上げ、前を指さした。すると、ノヴァが周囲を見渡して怪訝そうな顔をし少し口元に手を当てて考える仕草をする。フロースは人混みをかき分けて彼女に近づいて行き、クラース達もその後に続いていく。だが、こんなに人が多いと前に進み辛く、中々近づけない。
表情が見えるほどまでに近づくと、彼女が何かを呟いていることがわかる。
「いやだ、いやだいやだいやだいやだ」
何かに怯えているような表情の彼女は、何処かに逃げようとしている様子だが体が動かないようだ。何かおかしいとクラースが彼女の足元に視線を動かすと、幾つもの黒い手が彼女の足を掴んでいた。涙を流し「いやだ」と怯えて震える彼女に必死に皆は近づこうとする。だが、前に進めない。
プァーっという音と共に、電車が駅のホームに入ってくる。すると、黒い手が彼女の足から離れて後ろに黒い人影を作る。人影は、口元に笑みを浮かべながら言った。
「死にたいなら死ねばいい。望んでいたことでしょう?」
人影が彼女の背中を押した。
線路の中に転落していく彼女は、涙を流しながらホームに手を伸ばす。だが、その手を誰も取らずただただ落ち行く様を見つめていた。
「私は―」
己の望みを言いかけた彼女は、覚悟したようにして目をつぶる。
「「アウローラ!!」」
「「アウローラ様!!」」
クラース達は彼女の名前を叫び、人混みを無理矢理かき分けて彼女に手を伸ばした。それを彼女は見て、驚き、そして泣きながら嬉しそうに笑った。そして彼等の手を掴む。
その瞬間駅のホームからは人混みも、迫りくる電車も消えて、誰もいない静かな駅のホームへと変わる。彼女を引き寄せると、その反動で皆は尻餅をついて彼女を胸で抱き留める。
「うぅ・・・痛いですわ・・・」
「ノヴァ様、重いです」
「あぁごめん」
クラースが彼女を抱き留めたためにその場から動けず、下敷きになっていたルミノークス達はその下から這い出る。衣服に着いた砂を手で払い、彼女が何処も怪我をしていないのを見るとほっと胸を撫で下ろす。だが、彼女はクラースから離れずにただ静かに彼の胸に顔を埋めて泣いていた。それを彼はそっと抱きしめた。
泣きじゃくる彼女の体を抱きしめたまま、クラースは静かに口を開く。
「お前の過去を、全部見て来た。どうしてそんなに生き急ぐのか、ようやくわかった」
びくりとアウローラの体が震えた。離れようとする彼女をきつく抱きしめて、クラースは続ける。
「俺は当事者じゃないから赦すとか、もういいとか無責任な事をいうことは出来ない。でも、これだけは言える。お前を知れてよかった」
彼女が顔を上げて泣きはらした目をこちらに向ける。大人びてはいるがまだ子供のような、怯えたその表情は自分たちが知っているアウローラと同じ表情だ。クラースは、この子はやはり自分が愛しているアウローラその人なのだと笑みを浮かべた。
「一緒に帰ろう。アウローラ」
クラースが名前を呼んだ瞬間彼女の体が優し気な日だまりの色に光り、花びらが散るようにしてその光が綻ぶと、先程の彼女の姿ではなくアウローラの姿へと変わる。いつもの綺麗に整えられている髪ではなく僅かに乱れ、黒い喪服のようなワンピースを身に纏った彼女は、涙で頬に張り付いた髪を払うことなく真っ直ぐにクラースへ問いかけるようにして見つめる。
「帰っていいの?」
「あぁ」
「一緒に生きていていいの?」
「あぁ」
「こんなに私は汚れているのに。沢山人を傷つけて、壊したのに、のうのうと生きていていいの?」
「俺は、俺達はアウローラに生きていて欲しい」
再びアウローラの瞳から涙がほろほろと落ちていく。
それをみてふっとクラースは笑い、アウローラの額に自分の額をくっつける。子供をあやすように、くしゃりと髪を撫でた。
「―生きていていいんだよ」
アウローラは大きな声を出して泣き叫ぶ。その体を、全員で抱きしめた。
「貴女が罪を赦せないのならば、一緒に向き合いますわ」
「ルミノークスの言う通りです。一緒に生きましょう」
「いつか君が君を赦せるまで、俺はそれを見届けるさ」
アウローラは両手で流れていく涙を拭って、鼻を啜ると眉を下げて笑った。
「ありがとう」
すると彼女の体は透けて、光の粒となって消えていく。皆がその光の粒を見届けていると、声を掛けられた。
≪彼女は自分の心と向き合えたんだね≫
そこにいたのはレモンイエローの子犬だった。子犬は尻尾を振りながら、ちょこんと座っている。まだ漂っている光の粒が子犬の周囲をゆっくりと回る。
≪この光の粒はアウローラの意識。この心の奥に巣くう場所から浮上するね。うんうん、よかった。でも、まだ足りないよね≫
クラース達は立ち上がり、頷く。
まだ肝心の種を見つけていないし、壊してもいない。
クラースが周囲を見渡すが、それらしきものは全くない。
≪種はここだよ≫
子犬がそういうと、子犬の姿は幼い少女の姿へと変貌した。正しくは少女の姿をしたレモンイエローの光の塊。その光の少女は両手で胸を押さえており、ゆっくりとその手をどけた。そこに在ったのは、赤紫のおどろおどろしい見た目をした花の蕾。まるで死後の世界にある様な見た目のそれは項垂れているが枯れているわけでもなく、膨らみ加減を見るにあと少しで開花しようとしているようだった。
先程までずっといた子犬が探していた種を持っていたことに驚いたと同時に、もしやとクラースとノヴァは戦闘態勢になる。だが、光の少女は首を左右に振った。
≪敵じゃないわ。彼女に植え付けられていた種は、相性が良くて放っておけば数日で体を蝕んでいたわ。だから、少しでも時間を稼げるように相性の悪い私に植え替えたの。でも、ここは彼女の中だから思ったより成長が早かったわ≫
「君は、一体なんなんだい?」
ノヴァが耐え切れずに光の少女に問いかける。表情は分からないが、きょとんとしている事だけは分かった。そして、くすくすと両手で口元を押さえて笑った。
≪私は彼女の一部。それ以上も以下もないわ。まぁ強いて言うならば、彼女と混ざり合えなかった欠片という感じかしら≫
光の少女はそう言うと蕾が前に出るように胸を張る。
≪時間がないわ。この種を壊す方法は一つだけ。フロース、ルミノークス、聖女である貴方達が触れるだけでいい≫
「そ、それだけでいいんですの?」
「でも、私達聖女の力がまだ・・・」
聖女の力をまだ発言していない彼女等は顔を見合わせる。光の少女は≪大丈夫≫と笑みを含んで言う。
≪これは忌々しい厄災の力が入っている。厄災の力は聖女とは相性が悪いの。いつもなら肉体の檻に囚われているけれど、今は精神体。触れるだけで魔力が直に種にあたるわ。そうするとこれは枯れて消滅する≫
フロースとルミノークスは頷き合い少女に近づいて、恐る恐る蕾に触れる。すると、蕾は耳障りな断末魔を上げて見る見るうちに小さくなり消滅した。
少女は「ふー」と息をついて、背伸びをする。まさか花が断末魔を上げると思わなかったフロース達は、驚き目を見開いたまま硬直している。その表情を見て、少女は笑い、2人の頭を撫でた。
≪ありがとう。スッキリした≫
少女の体が段々と薄くなっていく。
≪やっと。1つになれるのね。長かったわ。これで、彼女が干渉できる≫
晴れ晴れとした雰囲気で少女は空を見上げ、周囲の景色もだんだんと白んでいく。そして、クラース達の視界も白く塗りつぶされていった。その最中、少女の声が聞こえて来た。
≪おめでとう。今回の君達。彼女の事、よろしくね≫
眩い光に目がくらむと、体が段々と浮上していくのを感じた。
※
駅のホームから転落するとき一番怖かったのは、死でもなく落ちることでもなく、周囲の人間だった。
落ちるまではラグがあったのだが、周囲の人々は誰も彼も悲鳴を上げるばかりで私を助けようとしなかった。あろうことか、笑みを浮かべて動画を撮影しようとした人までいたのだ。
それがただただ、怖かった。
誰かに手を取ってもらいたかった。誰かが私を助けるそぶりを見せて欲しかった。
私に手を伸ばしてくれたのならば、私は生きていていいよと言われているような気がしたからだ。
そんな私は、誰にも手を伸ばしてもらえなかった。やはり私は、生きる価値などないのだと、そう言われているようだった。
確かにそうだろう。
沢山人を踏みにじり、両親の命も、両親からの愛も奪った私には似合いの最期なのだろうと思った。
アウローラとして生を受けた時、正直げんなりとした。
私はまだ赦されていなかったのだ、ここで誰かの為に命を使わなければいけないのだ、そう思った。だから、私は幸せになってはいけない。愛を貰ってはいけない。あの日の皆の様でなく、誰かに手を伸ばせる人間に成ろうと、今までのように罪を償って誰かの命を救って行こうと思ったのだ。
だから、一番不幸になるだろう人を助けようと思った。
自分のために始まった彼女等との関係は、いつの間にかかけがえのない日々へと変わる。
嬉しい、楽しいと思うたび、仄暗い過去の私が囁く。
―人を傷つけて生きてきたのに、何笑っているの?
に胸が痛くなり、気持ち悪くなる。
なら、何も考えられないほどに体を使って、体を張って、助ければいい。
死んでもいい。
そう思っていた。
幾度も繰り返されるあの日の光景の中、私は婚約者の名を大切な彼女等の名を愛しい友人達の名を呼んだ。勝手に動くこの足が死へと向かう中、ずっと呼んでいた。
私は死にたくないのだと、生きていたいのだとその時理解した。
罪滅ぼしの為の人生の延長戦だと思っていたアウローラの人生は、私にとってかけがえのないものになっていたのだ。
何百回目だったか、もう嫌だと思い次また死んだら終わりにしようと思ったとき、手を引かれた。
名前を呼ばれた。
抱きしめられた。
生きていていいよと、言われた。
私の罪は消えることもなく、償うべき人もここにはいない。
これから先、私はこの罪を自分で赦せるようにならなければいけないのだろう。
生きて、罪と向き合うべきなのだと言われた気がした。
ふっと瞼が開き、目に飛び込んできたのは涙を浮かべた友人達の姿。体は重く、動かなかった。そして、なぜか心の奥にあった何かが溶けて消えてしまった一抹の寂しさと柔らかな何かが体に流れ込んでいくのを感じた。口々に私の名を呼ぶ彼等に、まずはこういわねばならないだろう。
「おはよう。ただいま」




