第1部-50話「過去の記憶、罪の塊」
過激な表現が出てきます。
ご注意ください。
中学2年生の冬。
窓の外に目を向けると、どんよりとした曇り空の中雪がちらちらと降っていた。それを私はベッドに横になりながら見つめていた。刹那、ピピピという電子音が自室に響き、痛む関節に顔を顰めながらわきに挟んでいた電子体温計を引っ張り出す。
熱は37.6度で、先日の38度より下がっており、安堵した。
病院には昨日の昼過ぎに学校を早退して1人で行ってきた。朝から体調に不安があったので、財布に保険証とお小遣いを入れており共働きである両親に迷惑をかけずに済んだ。だが結局、病院と学校から連絡が言ったようで両親共々いつもよりも早く家に帰って来た。
私は「寝ていれば治るよ」と言ってベッドに籠ったのが昨日の夕方。時折起きて、部屋の前に置いてあるおかゆを一人で食べて再び眠る。それを何度か繰り返した。
今日、母は会社を休んだらしい。だが、これは恐らく私の体調を心配したものではないだろう。
扉の向こう側で、弟が駄々をこねている声が聞こえてきた。必死にそれを母があやしている。
10個下の弟は4歳で、幼稚園に通っているのだが今日は休み。彼の面倒を見ることのできる私は風邪で寝込んでいるため、休まざるおえなかったのだ。
一軒家で良かったと思えるほどの弟の泣き声に、私は耳を塞いで布団にくるまる。
別段弟の事が嫌いではなく、産まれ当時はなんてかわいいのだろうとか、守ってあげなければと思った。だが、今まで両親の愛を独り占めしていた私は、弟ばかりに構う両親に寂しさを感じてしまっており、同時に弟を心の片隅で憎らしいとすら思っている。
だが、これは仕方がないこと。
何度も何度も心の中で念仏のように呟いて、私は張り付けたような笑顔で「大丈夫」と両親に笑顔で言うことが癖になっていた。
具合の悪さと寂しさ、頭に響く彼の声に泣きそうになりながら目を閉じると、睡魔はあっさりと私を眠りに引きずり込む。
目を開くと、外は既に真っ暗になっており、窓の外には雪が多少積もっていた。
時間は何時だろうと、枕元に置いてある目覚まし時計に手を伸ばすとガチャリと玄関の扉が開く音が聞こえた。
「ぱぱおかえり!」
明るい弟の声が聞こえ、それを笑顔で迎える父の声が聞こえてくる。母も、明るい声でそれを出迎えた。目覚まし時計に伸ばしていた手は動きを止めて、部屋の外に広がっているいつもの日常の音をただぼうっと聞いてしまう。
私がいなくても続く日常があるのだと、心の中に黒いシミが広がっていくようだった。
足音が私の部屋に近づいてくる。思わずもう眠くはないのに布団にくるまり、壁に体を向けて入口に背を向ける。
控えめなノックの後、遠慮がちに扉がきいっと開く。
「大丈夫か?」
返事は、何故かしたくなかった。
“大丈夫”とも言えなかった。
そっとした足音が聞こえ、ヒヤリとした手が私の額に触れる。冷たくて気持ちいいが、それも束の間、すぐに弟が父を呼ぶ。逡巡した彼は、部屋の外に向かう。
行かないで、と言いたくても、言ってどうするのだと心の奥底で私が呟く。
まだ迷っているように何度か足を止めている父を、弟が急かす。それに、なぜか怒りが沸いた。
恐らくこれは、嫉妬だろう。
「お父さん」
痛む喉で父を呼ぶ。振り返った彼は、こちらを振り返って驚き目を見開く。
あぁ、今は、私だけを見てくれている。
ここで私は間違いを犯す。
「お父さん、息が、苦しい」
私は、嘘をついたのだ。
すると見る見るうちに父の顔は焦りを帯びていく。そして母に何やら話して、弟を父の親友で幼馴染の榊さんに弟を預けて私は救急診療へと連れていかれることになった。
暗い道を父は車を走らせる。私は、母の膝の上に頭を乗せて後部座席に横になっている。大丈夫かというように、撫でてくる母の手のぬくもりは、久しく感じていないものでこの瞬間、私は弟から両親を奪い返したのだ。
ざまぁみろ。
そう思った瞬間だった。
けたたましいクラクションと共に、強い衝撃。浮き上がる体を必死に母が抱きしめてくれ、視界が暗転した。
はっと気が付くと、自分の目は真っ白な天井を見つめていて、電子音が鳴り響いている。
「今お医者様呼んでくるっ!」
聞き覚えのある声が聞こえてそちらの方へと顔を動かそうとするが、どうも思うように動かない。そこへ、榊さんが私の顔を安堵したような表情で覗き込み、私の手を握って「よかった。君だけでも、助かって」と握る手に力を込める。
母の優しい温もりではなく、熱い熱い体温。
ぼんやりとする頭で、彼の言葉に引っかかり尋ねる。
「お父さんとお母さんは?」
長い間声を出していなかったかのように、掠れた声で、自分ではしっかりと言っていると思っても、彼はちゃんと聞こえていたか不安になった。すると、彼は聞こえていたようで視線を彷徨わせる。
「2人は・・・」
言い淀む優しい榊さんに私は察する。泣き叫べば楽だろうが、酸素マスクと体の痛みがそれを許さず、涙がつうっと頬を伝いシーツを濡らした。そもそも、私には泣き叫ぶ資格なんてないのだろう。
私は、両親を殺してしまった。
永遠に、弟から両親を奪ってしまったのだ。
それ以降の記憶は殆どない。
いつの間にか数か月が経って、退院の日になった。それ以降の生活がどうなるのかは、まったく分からなかった。もしかしたら入院中に誰かが来たのかもしれないが、全く記憶がなかった。
退院の日、出迎えたのは榊さんではなく、母の妹である境美和叔母さんだった。彼女は弟の手を握り、隣では旦那さんである篤さんがニコニコとした笑顔で立っている。美和叔母さんと篤さんの境家とは、年末年始やお盆に挨拶する程度の仲で、母との仲は悪いとかいいとか聞いたこともない。もしかしたら私が知らないだけで、仲は良好だったのかもしれないと当時の私は思った。
そこへ、焦りを帯びた顔で早足にやって来た榊さんが現れる。
私に聞こえないようにして、榊さんは彼女等に詰め寄る。何言か言葉を交わした後、ため息混じりに美和叔母さんは彼をじろりと睨む。
「―遺言もないのに血縁関係のない貴方に任せるより、妹である私が面倒を見た方がいいのではないのかしら?」
押し黙る榊さんに美和叔母さんは勝ち誇ったような笑みを浮かべて、私に近づくとその手を握る。そして、私と弟を車の後部座席に押し込むと逃げるようにして車を走らせた。遠ざかっていく肩を落とした榊さん。
・・・もし私に勇気があれば、榊さんの手を握ることができたのならば。
美和叔母さんと篤さんの自宅は私が住み慣れた地方都市ではなく、都心の方であった。
一軒家ではなく、マンション。
中学校も幼稚園も変わってしまった。
美和叔母さんと篤さんの間に子供はおらず、彼女等は笑顔で「好きに暮らしていいから」と言ってくれた。
だが、平穏な日常は突如として終わりを告げる。いいや、突如ではなく最初から既に平穏な日常というものは存在していなかったのだろう。
弟も幼稚園は楽しい様で、私も中学校ではそこそこうまく暮らしていた。ある日、弟が年長さんになってお泊り会があり、美和叔母さんの帰りが遅いときのことだ。部屋で次の日の準備をしていた時、突如後ろから肩を掴まれてベッドに押し倒される。必死に抵抗するが、それ虚しく、相手の人間には敵わない。その顔を見て、私は言葉を失う。
―篤さんだったのだ。
興奮したような荒い息と、片手で両腕を抑えつけもう片方の手で体を撫でまわす。
「あぁ、あぁ、やっぱりそっくりだ。夢にまで見た、和沙さん、そっくりだ」
首筋を、頬を、腕を舐められる。鳥肌が立って、必死に抵抗して叫ぼうとした瞬間顎を掴まれる。
「弟がどうなってもいいのかよ」
その言葉で、私は抵抗をやめた。
幼稚園での出来事を楽し気に話す彼から、これ以上何も奪いたくなかった。
抵抗することを止めて受け入れることを選んだ私を、篤は蹂躙する。味わうようにして、体を何度も弄られ、打ち付けられて、私は無言のままそれを受け入れた。涙など出ず、ただその行為が終わるまでそれを我慢した。
譫言の様にして、悦に入った篤は嬉々として言っていた。
篤と美和叔母さん、母である秋元和沙は高校の同級生で、篤は母の事が好きだったらしい。だが、当時の篤は母のように頭がいいわけでもなく、もし告白したとして釣り合うとは思わなかった。そして、必死に勉強して高校3年生の時に有名大学に受かって、やっとで胸を張って告白できると思ったのに、もうすでに、母の隣には父がいたのだ。
篤は諦めきれず、美和叔母さんに接近し、恋人同士になったのだ。そうすれば、母と親族に成れる、そして、親族として縁は切れることがないと思ったらしい。だが、日に日に母に対する欲情は増していき、私の姿を見て歓喜したのだという。
私の見た目は、若き日の母にそっくりらしい。
それ以来、弟がいない日、美和叔母さんがいない日は突如として部屋に入り、私の体を貪るようになった。そしてそれは段々とエスカレートしていく。
首に残る痣を隠すためにタートルネックを着るようになり、体の痣を隠すために厚く黒いストッキングを履くようになった。あの人にできなかったけれど、心の内ではしたかったことを全て渡しに吐き出すようになった。
私は、それに耐え続けた。
泣き叫ぶこともしないで、ただただそれが終わることを耐えていた。
弟へ、その欲望が向けられないように。
耐えることを止めたのは、冬の初めの事だ。
部活の顧問が体調不良で帰ったために部活動ができず早めに境の家に帰ると、誰もおらず、静かだった。その静けさに安堵し、自室へと行こうとすると扉の中からすすり泣く声が聞こえた。扉越しでもすぐに弟の物だと分かり、慌てて扉を開くと、弟が泣きながら袋に入れた氷水を腕に付けていたのである。
「何をしているの?」
ゆっくりと近づいて問いかけると、弟は泣きはらした目を私に向けてから、胸に飛び込んできた。
よく見ると弟の腕には新しい赤い痣と、ほかにも複数の時間が経った打撲痕があった。
境家に来てからは、美和叔母さんが弟をお風呂に入れていたので弟と一緒にお風呂に入るということを暫くしていなかったから気が付かなかった。なぜ言わなかったのか、と彼に問いかけると私に心配をかけたくなかったと大粒の涙を流す。詳しく話を聞くと、美和叔母さんは不倫をしており、篤が仕事でいない日は浮気相手を自宅に招き入れている。それを弟がたまたま目撃したのだ。
最初は言わないように口止めされるだけだった。だが、弟の怯える顔が美和叔母さんと浮気相手には魅力的に見えたのだろう。以降、時折大きな怪我をしない程度に暴力を振るわれるようになった。更に、弟には手を出さないと言っていた篤も、弟を叩いたりしていたようだ。
「お前のせいで、あの子が手に入らないんだ」
などと言っていたと、弟が話してくれた。
「ごめんなさい、我慢できなくてごめんなさい」と謝ると泣きながら謝る弟を抱きしめながら、私の奥底で沈んでいた全ての感情が戻って来た。
壊そう。弟の為に、壊そう。
決意してからの私は、全てにおいて行動が早かった。そして、誰にもばれないように行動するのが上手かった。まるで、元からこういうことを知っていたかのように。
まず最初にしたのは、美和の浮気相手を突き止めることだった。未成年では探偵に依頼できないので、周囲の人間を使うことにした。自分で言うのもなんだが、中学では人付き合いは上手くやっていたし先生からの評価も上々だった。勉強もそれなりにできて、顔もそれなりによかった。更に、両親を事故で無くし、その事故に遭っていたのに生還した奇跡の少女、という大衆が好きそうな憐れみを含んだ肩書は周囲の人間を協力的にさせてくれた。
私としては、そんな肩書吐き気がするし、鋭い刃のようだったのだが。
同じマンションに住む同じ学校の生徒に話をそれとなく聞いて印象付けておくと、噂は勝手に集まってくる。私に好意を少なからず持っている先生には、涙を使い、悩み事に織り交ぜて話していく。
数週間で噂は集まり、そして私はカードを引き当てた。
何と、美和の浮気相手は私の同級生の父親だったのだ。つまり、ダブル不倫である。
接点はなかったものの、同じ部活の友人がその子と私を引き寄せてくれた。表面的には、私の境遇とその子の境遇を憐れんでいるような表情を浮かべているが、娯楽に飢えている少年少女には、この手の話題は面白いのだろう。
何とも不快であるが、それを利用しない手はない。
彼女は泣きながら、不倫の事を薄々感づいており更に我が家の生活資金を父が相手に貢いでいるようで生活が苦しくだが離婚の決心をすることもできないため思い悩んでいる母をこれ以上見ていられない、復讐をしたいのだけれど何に証拠も見つけられず何もできない。
「優華ちゃんは叔母さんの浮気を暴くために行動しているから、どうか、その証拠を私にも頂戴」
何と好都合なのだろうかと笑いだしてしまうのを必死に押さえながら、私は彼女に寄り添った。
辛かったね、大丈夫、私は味方だよ、一緒に罰を下そう。
相手が欲しい言葉はなんとなくわかる。なぞるようにそれを口にすれば、相手は陥落する。
それは、長い間篤の相手をし、行為を早く終わらせるために会得したものであった。
あの手この手を使って、同級生、その兄弟、水面下で徐々に美和を追い詰める準備が整っていく。
自分の行動1つで周囲の人間が思うように動くさまはとても気持ちよくて、同時に、気持ち悪かった。甘言で人を操った後はトイレで吐き、私を崇拝するような視線を浴びた時は自分の目を抉り取りたかった。
自分の心を何度殺しても、自分を殺したい衝動に駆られても、私は弟の為に頑張った。
弟がこれから泣かないように、苦しい思いをしないように、弟から両親の愛を奪ってしまった私ができるこれが罪滅ぼしなのだと、何度も頭の中で呟く。
ありのままの感情を封印しろ。
理性で動け。
嫌だと投げ捨てることは許されない。
全てを、周りの人間も自分の体も使えるものは全て使え。
気が付けば美和を追い詰めるだけの材料は揃っており、同級生の子は十分な量の慰謝料を貰えるだけの準備が整っていた。
他にするべきことはもう一つ、篤の事だった。
そちらは簡単だ。
行為の一部始終を撮影、音声も録音、そして後は篤を落とせばいい。
私は貴方の物である、貴方は私の所有者だと思わせればもうすべて準備は整った。
盲目なまでに私を愛した篤は、私が他の男性と仲睦まじく歩いているのを目撃する。親密そうな二人を見て、彼が嫉妬に狂わないはずがない。
一連を見せる前日に私は同級生に全ての証拠と弟を預け、更に篤から性的暴行を繰り返されていることを泣きながら告白する。警察に言おうという彼女に対し、私は泣きながら「もう一度、話し合ってみる」とたった一人で境家のマンションへと向かった。
同級生の家からこのマンションまでは徒歩で10分ほど。同級生の彼女には、15分後もし私から電話がかかってこなければ警察に連絡して、と言っておいた。
これから起こるだろうことに私は深呼吸しながら、マンションの扉を開いた。
部屋の中は暗く、明かりがついていないが人の気配はある。
美和は不倫相手と外出中の為に、帰ってこないのでいるのは篤しかいない。
わざと足音を立ててリビングに行くと、真っ暗な部屋の中テレビを見つめている篤の姿があった。彼は顔をこちらに向けて、笑う。
「お帰り。俺の優華。遅かったね、どうしたの?今日は部活がないはずだよね?何でこんなに遅いんだい?」
重なる問い掛けに私は無言のまま腕を擦る。答えない私にしびれを切らした篤が、ゆらりと立ち上がる。
「一緒に歩いていた男は誰だったんだ?」
低く何の感情も感じられない単調な声。テレビの笑い声が、異様なほど部屋に響き渡る。私は視線を下に向けて、唇を噛む。言いたくないと、態度で現わさなければ逆なでできない。
篤は涙を流して両手で顔を覆い獣のようなうめき声を上げて顔を引っ掻く。めり込んだ爪が皮膚をなぞり、赤い線を作っていく。爪の一部分がとがっていたのだろう。一粒の血が涙と混じり、赤く染め上げている。
篤は私に飛びかかり、渾身の力で私の首を絞めた。
背中を打ち付け、痛みと苦しさで足をバタバタと動かした。自分の意志に反して涙が零れ落ち、口からは言葉ともつかない息が漏れ出し腹に力が入る。征服感に満ちた狂気的な笑みを篤が浮かべながら、何度も何度も私の名前を呼んでいる。
くそったれ。
心の中で呟きながら、遠のく意識の中何やら大きな声と共にリビングの扉が開かれて男たちが入ってくる。篤は首から手を離し、突如肺に入り込んだ空気で私は何度もむせる。まだ鮮明としない意識の中、聞き慣れた少女の声で名前を呼ばれて抱き着かれた。視線を篤の方へと向けると、篤は何度も何かを呟きながら男たちに取り押さえられていた。
「もうっ・・・大丈夫だから・・・」
抱きしめられた少女、私がお願いした同級生の彼女にそう言われ、私は意識を失った。
目が覚めると白い天井が目の前にあり、電子音が鳴り響いていた。ベッドの脇にいた同級生の彼女は泣きながら私が目を覚ましたことを喜び、そして、すぐにお医者様を呼んできた。
どうやら3日程私は眠っていたらしかったが、その後の検査で後遺症などは見られないと診断された。
警察の事情聴取の時、篤は殺人未遂の現行犯で逮捕、あの子が提出してくれた性的暴行の証拠で現在勾留中のようだ。美和のなのだが、実は複数の男性からお金を貢がせているという証拠が見つかり、事情聴取中なのだという。
その話を聞き、私はほっと胸を撫で下ろす。
これで、弟に害を与える人はいなくなったのだ。
数日後、病院にやってきた人物に私は驚いた。
病院にやって来たのは、榊さんだったのだ。となりには、奥さんも高校生の息子さんもいる。
どうしてここが分かったのかと思ったら、どうやら自力で境家の住所を調べ上げ、隣人に話を聞いたら境夫婦は捕まり、その子供達は入院中だという。そこでたまたまあの同級生の彼女と会い、病院の場所と弟を預かっていることを知って辿り着いたのだと言っていた。
高校生の息子さんは「外で待ってるよ」と言って、手をつないでいた弟と一緒に廊下に出た。
何か、話すことがあるのだろうかと首を傾げると、榊さんと奥さんは私の傍の椅子に腰かけてこう言ってきた。
「ねぇ、私達と一緒に暮らさない?」
奥さんの言葉に、私は目を見開く。榊さんの方を見ると、彼は泣き出しそうだが無理に笑顔を作って頷いている。
「私達、貴方のお父さんとお母さんから沢山助けてもらったの。この人のお店が経営不振の時も沢山相談に乗ってくれたし、アイデアも出してくれた。そのおかげで、私達は暮らせているの。だから、その恩返しをしたくて。ダメかしら?」
願ってもない申し出だった。だが、彼等に恩返し以上の何かメリットがあるのではないかと疑ってしまう。
だが、榊さんの家は前の家の近所であるし、弟も住み慣れた場所の方がいいだろう。少し考え、私は笑みを浮かべる。
「えぇ、願ってもない申し出です。どうか、お願いします」
私の表情を見て、なぜか榊さん達は傷ついたような表情を浮かべる。そして、見る見るうちに悲し気に表情を歪めて二人でそっと私を抱きしめた。
少し前までの求めるように抱きしめられたものではない、まるで悪い物から守る様な優しい力で抱きしめられた。もう遠い昔のような、両親のぬくもりに似たそれに、ぞわりと悪寒が走る。これは、私が獲てはいけないものだ。
震える私の体を恐怖だと思ったのか、奥さんがおずおずと口を開く。
「全部話を聞いたの。境の家がやったことも、全部」
つまり、私と篤の間柄の事も聞いたのだろう。なるほど、彼等は私を憐れに思っているのか。
苦しかったねなどという慰めの言葉が出てくると思ったが、榊さんの口から出たのは違った。
「間に合わなくて・・・ごめん」
涙ながらに彼等は謝る。
何故、謝るのだろうか。彼等は何も悪くないのに。
ほろりと涙が流れる。まるで、体の内にあった氷が溶けたように。
私は彼等の背中に腕を回して、その体を抱きしめる。
「いいえ、いいえ。榊さん達は何も悪くない。それに、間に合いましたよ。ありがとうございます」
ちゃんと、弟は無事だったのだから。
私などどうでもいい。弟が無事なら、それでいい。
私が間に合っていると言っているのに、何故榊さん達は傷ついた顔のまま泣いているのだろうか。
分からなかった。
何も、分からなかった。




