シンシアナ帝国
シンシアナ帝国はガウべルーア王国に北方の高地に位置する軍事大国である。
背後に山頂に万年雪をいただく大山脈を擁し、良質の大理石と鉄鉱石、そして石炭を排出する。その資源を基にシンシアナ帝国は製鉄業を大いに発展させ石と鉄の文化を築いた。
シンシアナ帝国とガウベルーア王国は長年敵対しており国交もほとんどない。
唯一行われた外交は百数十年前に行われた、両国の間に緩衝地帯を設ける取り決めだ。
魔法という強力な反撃の手段を組織的に持たなかった頃のガウベルーア小国が、頻発する食料の略奪に苦しみ自ら譲歩する形で土地を割譲した。
軍事国家のシンシアナ帝国がこの条約を守るのか訝しむ声は多かったが、どういう価値観かシンシアナ帝国は現在までこの条約を頑なに守っている。
だが食料の略奪を止めることはなかった。秋になればシンシアナ帝国は緩衝地帯を越えてガウベルーア王国に侵入し都市を襲い芋、麦、肉、青果をごっそりと奪っていく。
略奪だけではない、刃向えば殺す。刃向わなくても辺境の貴族は見せしめのために殺す。だが都市は滅ぼさない。滅ぼさず適度に痛めつける。
そうして怯えて生きてきた屈辱の歴史をガウベルーアに生きる人々は誰に聞くでもなく体に染み込ませている。だからガウべルーアの民は名も知れぬシンシアナ皇帝と、全てのシンシアナ人を忌み嫌う。
その二国関係に変化が現れ始めたのは最近、といってもここ五十年くらいの事だ。
長らく搾取される立場に甘んじていたガウベルーア王国が、魔法の力で優位に立ち始めたのだ。
領土を守り、略奪に現れるシンシアナ兵を退け、都市攻撃を阻止せんと城壁を作り、時にシンシアナ軍に損害を与える。届かぬ弓とわずかな火の魔法を頼りに戦っていたガウベルーア戦史は、いまや昔話だ。
さて、天秤のバランスが崩れれば安定をとり戻そうとして、反対の皿に新たな重りが乗せられるものだ。シンシアナも負けじと対抗し、より強い攻撃に打って出る。
重りを乗せれば反対の天秤は大きく揺れる。さすれば守るガウベルーアは魔法兵を増強して一層固く守る。
揺れを収めようと重りを乗せるほどに大きくなる揺れ。時と不信を糧に軍拡のうねりは次第に大きくなっていく。
軍備は金がかかる。両国とも戦を大きくしたい訳ではない。だが、やっているのは引けば取り返しがつかぬ恐怖のゲームだ。天秤から重りを取るという至極簡単なことが、いつの時代も簡単にはできない。
互いに思惑の分からぬまま、二国の主は互いの腹を探りながら采配を振るう。
どこへ向かうのか、どこまで行くのか――。
いずれにしても、二国は大きな転換点を迎えつつあった。
ここはシンシアナ帝国の帝都、枢要施設の一室。
ガリウス・セネガは、薄暗い部屋の御簾の前にかしづいていた。
石壁をくり抜いた小さな窓からは黒煙の影と煤の匂いが、石と鉄を打つ不規則なリズムに交じって舞い込んでくる。この匂いと音はガリウスにとって子供の頃から馴染みのある日常風景だ。目覚ましには騒がしいが、あると落ち着く。
だが、そのどれもがこの薄暗い空間には似つかわしくなく、心休まる打音のリズムも何ら安らぎを与えてはくれない。
暗がりに紛れた部屋の遙か向こうには皇帝がいるという。
そう言われたが――。
会ったことも無ければ見たこともない人物だ。
若年兵から皇軍に入り、もう何年も経つ。幾多の軍功を上げて、いい加減軍を指揮をする立場になったが、仲間内でも皇帝に謁見し拝顔の誉に預かった者はいなかった。それどころか声を聞いた者すらいない。
なぜなら皇帝の御言葉は侍従が伝える習わしになっているからだ。
そして、その侍従は女か子供と決まっていた。
その侍従の声がする。
「貴官の使命を言ってみよ」
透き通った幼女の声。この声はまだ乳も膨らむ前の子供の声だ。
「はっ! ガウベール王国東方領の戦力を適切にそぐこと。また食料及び資源の調達であります」
煤けた空にムクドリの群れが形を変えて横切り、差し込む窓明かりに影がまたたく。
そして静。
「ただそれだけの事で貴官は二万の兵を失うのか」
「そ、それは想定外の攻撃があり。かつてない強力な魔法で」
「愚か者め」
「はっ!」
相手から見えぬと分かりつつ、これ以上ない程にひれ伏す。
感情のない子供の声は怖い。
何を考えいるのか分からないからだ。分からない範囲は笑いから死罪まで広すぎる。
セネガは撤退の最中に実に多くの兵を失った。
確かに多くの者が燃える土で焼け死んだ。そして追撃をしかけたサルタニア魔法兵の標的になった者は少なくはない。だがその攻撃で失った兵は二千もいなかったろう。
セネガがラド達と戦った小山から戻った時点では、火計によりあたりは焼け野原になり、威容を誇っていた無数の陣幕は柱も残って無かったが、多くの兵はまだ死んではいなかったのだ。
爆心は陣幕が集中する本陣の真上だった。その真下にいた士官クラスの生存は諦めざるをえなかったが、城壁を取り囲む兵達はまだ健在だったのだ。
だが火傷に呻く兵の唸り声があちらこちらから聞こえてくる。
一刻も早く指揮系統を復活させ自軍を立て直さねばならないのに、火傷を負い指揮官を失った兵たちは混乱に陥っていた。このままではサルタニア魔法兵の餌食になり被害が拡大するばかりだ。
ここにはいられないと判断したセネガは、まだ動ける兵をかき集めて火傷に唸る兵を連れて急ぎ撤退を開始する。だがこれが軽率だった。
負傷兵を慌てて連れ出したため、火傷の兵の皮膚は剥げ落ち、翌日には酷い化膿と発熱に苦しむ者が相次いだのだ。それが百や二百ではない万の数である。
あの攻撃は全く想定外だった。爆発の炎にやられた者は自分の身に広がる火を消そうと濡れた地面を転げまわった。だが炎は消えるどころか勢いを増し、皆、全身に酷いやけどを負ってしまった。
一旦サルタニアの攻撃が届かない林に引いた事も災いした。
もはやこれ以上の移動は難しいと考えたセネガは本国に救援を要請しつつ、負傷兵の容態が安定するまで待つことにする。だが火傷の負傷者は一日、二日で良くなるものではない。負傷兵の様態はいっこうに上向かず四日待っても未だ救援が来ないことに業を煮やしたセネガは、まだ動ける軽傷の兵を先に帰還させることを決断する。
戦場から着の身着のままで撤退したため、食料が逼迫していたからだ。
残食料と相談すれば、一万近くの兵を本国に戻さねばならない。残った三万は傷病兵と衛生兵と未だ健在の兵たちだ。士官クラスの大多数を失ったが先任将校に小隊をまかせて二万の兵を動かせば、再度サルタニアを襲う事が可能だ。なにせ城壁は崩れもう用をなしていない、急げばアージュの援軍が来る前に一気にケリをつけられる。
そう考えて二万の兵を動かした矢先だった。負傷兵の腐臭に誘われて狂獣が集まってしまった。兵がいれば寄り付かない狂獣だが、二万もの兵が空になれば襲ってくる。
伝令の報告に軍を引き換えし狂獣を駆逐するが、獣は獣を呼び大戦闘に陥り、多くの負傷兵を失ってしまった。
その顛末がこの呼び出しである。
「皇帝は無能な司令官にお怒りである。皇軍士官に言い訳はない。敵を侮るがゆえの結果と心得よ」
「はっ!」
子供の生意気なセリフであるが、後ろに恐怖の対象がいると思えば、舌足らず発音さえ恐怖に感じる。言いたいことは山ほどあるが、これ以上の釈明は許されない。
侍従は石室に共鳴する己の声が落ち着くまでたっぷり余韻をとる。
この間が最後の審判のようで、時が経つほどに不安で鼓動が早くなる。
「責任は身を持って贖え。貴様を第二皇軍師団長から解任する」
「それだけは! 次回は必ず敵を打ち負かし」
「見苦しい。命があるだけ有難いと思え」
「敵将はラドという者で、まだ子供の風体ですが怪しい――」
「黙れ。報告は既に受けている。黙らねば貴様から声を奪う。口などなくても一兵卒ならば務まるだろう」
「ははっ! 御意のままに!」
あの新しい魔法が全ての元凶であることを報告する余地すら与えられず、セネガはただ虫けらのように石床を這いつくばったままで退出する。
恐縮するセネガの声が消えた空間は、まるで主を失った遺跡のよう。そんな命のない石籠の小さな窓から鳥の羽がふわりと落ちる。
「ラド……圧倒的な魔法」
リュリュウと鳴くムクドリの声にまじり、御簾越しに小さな声が聞こえた気がした。