レイフの酒場
動転するラドをよそに、意外にもライカの状況判断は早かった。
「イチカを助けにいくぞ!」
そう言われてもラドは直ぐは動けない。
「しゅにん! なにしてるんだ!」
「う、うん」
「しっかりするにゃ! ライカによくわからないけどイチカがさらわれたんだろ。ならすぐ助けにいくんだ」
「でも僕とイチカで書いた本が無くなっているだけなんだ。イチカがさらわれたとまでは」
「ライカの鼻は、あいつがここに居たって言ってる。それにイチカはもう戻ってアレを塗らないとダメなんだろ」
アレとは培養液の軟膏のことだ。時はもう夕刻に近い。軟膏の効能は半日くらいだから夕方には、ここに戻って軟膏を塗り直さなければならない。だのにここに帰ってこないということは自由を奪われている可能性が高い。
たしかに動揺している場合じゃない、事はイチカの生死にかかわる。
「ライカ、ありがとう。狼狽えちゃったけど大丈夫だ」
「しゅにん!」
「ウィリスがどこに行ったか臭いで分かるか?」
「ライカの鼻は、そこまでよくないんだ」
「ならウィリスが行きそうなところか。一番ありそうなのは自宅か。あいつの家はどこだ?」
「その前に、ウィリスの部屋に何かないのか?」
「そうだな、行ってみよう」
一つ上の階の工場長執務室に入る。一番手掛かりにありつけそうなのは彼の机だ。
ウィリスは確か独身だったはずだ。しょっちゅう酒臭いことを考えると家はあっても余り帰らず酒場と工場の往復をしているのだと考えられる。そしてもう一つ考えられるのが借金があるのではないかという可能性。
工場長の給料とはいえ毎日飲んだくれるほどに高給はもらえない。それとライカと一緒に買い物に出てからまれたときに聞いた『売女と遊んでる』という一言。あいつは稼いだ金を酒と女につぎ込んでいるはず。ならば。
「あった!」
机の引き出しから出るわ出るわの借用書の束。ラドの片手で持てないくらいの量で、ざっと二十万ロクタンはある。
「しゅにん、それは何だ?」
「借金だよ。ガルボの酒場、イエルドの酒場、オルフINNもある」
「借金ってなんだ?」
「お金を人から借りることだよ。自分で稼いだ以上にあちこちで遊んでたんだ」
急に黙ったラドをみてライカがどうしたのかと聞く。
「レイフの酒場がない。ナナリーINNがないのは僕がいるから分かるけど」
「ん? どういうことだ?」
「パラケルスには酒場が三軒あるんだ。INNの借用書まであるということは、あいつは街中の酒場に借金を作っているんだ。なのにレイフの酒場がないのはおかしい」
「どういうことだ?」
「たぶんあいつは借金のせいで出禁なんだ。けど、お気に入りのレイフの酒場だけは借金を返済するつもりでレイフの酒場に行った。その返済のあてはもちろんイチカとあの本だ」
「じゃ、しゅにん、そこに行ってみよう! なんか分かるかもしれない」
「ちょっと待って!」
「どうしたんだ?」
「書簡がある。王都からのだ」
ラドは封蝋の書簡を開き中の手紙を斜め読みする。
「目覚めたホムンクルスのことが王都に報告されている。それが出来たら内密に引き渡せと書いてある。差出人はカレス・ルドール」
「じゃ、ウィリスはイチカを王都につれていくのか!」
「わからない。でもその引き渡しがレイフの酒場かのかもしれない。それでレイフの酒場だけ借金をかえすのか……」
「ううう~、わかんないにゃ! でも行くしかないにゃ!」
「ああ!」
アラッシオは久しぶりに訪れた幸せな気分を味わっていた。
気持ちが違うというだけでパラケルスの街の物売りの声、交渉の掛けあい、往来を行き交う荷車引く音さえも、普段とは全く違って軽快に聞こえる。
「街ってこんなに楽しそうだったかしら」
ふと独り言がアラッシオの口から漏れた。
いつもは俯いていた顔を上げると、街の人が談笑する弾ける笑顔がみえる。工房と一体になった靴屋の入り口をチラリと覗けば、何人かの職人がお喋りしながら道具を片手に作業をしている姿が見える。となりの服屋は戸口では髭針(獣の髭で作った針)を手に目にもとまらぬ早さで縫物をしている職人。街の人々のフレッシュなエネルギーが眩しい。
すれ違う人々から自分に投げかけられる視線は依然として冷たい。だが全く気にならなかった。
自分に足りないのはこの眩しさだったかもしれない。
パラケルスに流れ着いたときから自分は不幸の主人公だった。いつも背中に暗い何かを背負い、そのせいで自ら不幸を呼び寄せていたのではないか。
レイフさんが愛想がないと自分を怒鳴ったのも、ウィリスが弱みにつけ込んだのも、半獣人に襲われた事も結果的に自分が手繰り寄せた現実だったかもしれない。
だがラドが変わってから何かが変わった。よく分からないが何かに打ち込んでいる息子の姿が暗く背中を丸めて二人で寄り添っていた暮らしを変えて、自分を日の当たる場所に運んできてくれたのかもしれない。
アラッシオは歩幅を広げて、中央広場から少し離れたところにレイフの酒場に向かう。
酒場は宿貸しも行っている。この国では主に酒を出すのが酒場と呼ばれ、主に宿を提供するのが宿屋と呼ばれる。ともに酒も宿も提供するが呼び名が違うのは、やってくる客の目的が違うからだ。
酒場は酒を飲みにくる場所。だから昼間っから働きもせず酒をかっくらう奴らが出入りする。そして宿は単なる旅の宿ではない。想像通り娼館となっている。
どこの世界でも同じだが男は女を求める。当然それが商売になってしまう。そして身寄りのない娘が生きるために働く場所にもなる。
「こんにちは」
小さく入り口で挨拶をし、アラッシオはレイフの酒場の戸口をくぐる。
一階に開かれた酒場のホールは様々な形の木造テーブルと椅子が無秩序に置かれ、入り口から差し込む陽射しに舞い上がる埃を煌めかせている。
客はまだ数名。夜ならば退廃的な喧騒に湧き上がるこの店も、日の高い時間ならばこんなもので、今は一時の静けさを湛えている。
店主のレイフはカウンターにはいない。多分客の少ない時間なので二階の自室に籠り金勘定をしているのだろう。
アラッシオはよく知った階段に足をかける。
――ここを何回上がったことだろうか。
十代の頃はここで働いていた。木材卸だった両親と家族でパラケルスに来る途中、街道で狂獣に襲われ両親は殺された。やっとの思いでたどり着いたパラケルスだったが子供二人が生きるためには姉の自分がココで働くしかなかった。
階段は踏み込む度に立て付けの悪い踏み板がミシっとなる。
僅かに違う音階を聞くたびに、一段一段に染み込んだ嫌な思い出が湧き上がってきた。
初めて男を相手にした夜。
喘ぎ声が気に入らないと、ここから蹴落とされた事。
客がつかなくてレイフさんに随分怒られた事。
そしてウィリスの事。
ウィリスはよくここに出入りしていた。弱い者にはめっぽう強い悪い男で、相手をすると「こんな商売をしやがってクズめ」と暴言を吐いていくが、そのくせ何度も自分を指名してくる客だった。
そのウィリスがぴたりと来なくなった。金が無くなって店に来れなくなったのだ。イヤな客が一人減ったと嬉しくなったが、ある夜、寄宿舎に帰る途中にウィリスにつかまり街はずれに廃屋に連れ込まれた。
抱かせろというのだ。体を許してくれたら俺がレイフから買い取ってやると。
レイフの酒場に務めているということは自分は商品だ。レイフさんに怒られてしまうと断るとウィリスは怒り、私の手を縛り柱に結わえて押し倒した。
格子窓から満月が差し込む、獣の遠吠えが聞こえる夜だった。
翌日、ボロボロになって街に戻ると、街では私が金欲しさに街外れで裏商売をしていたと噂になっていた。そして”半獣落とし”になって当然だと。それは違うとレイフさんに必死に訴えたが、脱がされた私の服の内ポケットから五百ロクタン貨が転がり落ちた時、頭の悪い私でもさすがに気づいた。
商品に手を付けたと分かればタダでは済まないと思ったウィリスは私を嵌めたのだ。だから半獣人が彷徨く日の夜中を選んで私を犯した。まさか出歩くとは思えない日の時間に。
”半獣落とし”になり行き場を失った私はウィリスの相手をして何とか生き長らえたが、暫くしてレイフさんがナナリーINNの仕事と妹に農奴の仕事を紹介してくれた。レイフさんだけは私がウィリスを嫌っていた事を知っていたから街の噂がウソだと気づいたのだろう。
「ん?」
そんな苦い事を思い出したからだろうか、ウィリスのいやらしい声が聞こえた気がした。
ウィリスの気に入りの部屋は階段を上がった最初の右手だった。
まったく何の気はなかった。
この時間ならまだ商売は始まっていないだろうと思い、つい扉を開けてしまったのだ。
そこには柱に縛られた少女の姿があった。
足元には担いできただろう大きな南京袋。そこから視線を上に走らせるとぐったりと疲れて伏せた青い瞳が目に入った。
「イチカちゃん!」
気づいた時にはもう遅かった。驚きのあまり大きな声が出てしまっていた。
ラドとライカは暮れなずむ街までの道を疾走する。だがライカより頭ひとつ以上小さいラドは完全に足手まといだった。なにせラドの身長は四十五シブ(百三十五センチメートル)にも満たない。「しゅにん、遅いぞ!」と言われても足の長さが違うのだ。頑張って走ってもライカの小走りにも満たない。
「ライカ先に行け! ウィリスの足取りを探すんだ。中央広場で落ち合おう」
「わかったにゃ!」
その声がラドに届く前にライカは既に全速力で走りだしていた。あっという間に小さくなる背中を追いながらラドは思考にもエネルギーを割く。
なにかしら情報を得たウィリスは夜中に僕の部屋に忍び込みあの本を手にした。いや何かしらじゃない。鍵を開けたということは合鍵を作ったということだ。なら確固たる情報をもって忍び込んだんだ。そして本を盗みイチカを拉致してカレス・何某への引き渡しを画策した。
そうだ。思い起こせば目覚めたホムンクルスを作れと言われたとき、どうも挙動が不審だった。あの時は既にイチカの事に気づいていて……だとすればウィリスにとってみれば僕はイチカと培養中に死んだホムンクルスの二体を作ったことになっている。量産方法が確立していて製法は本に書いていると思い込んでもおかしくない。
しかし何で内密なんだ。王都に渡すなら堂々とやればいい。横流しするつもりか。
考えているうちに街につく。さてレイフの酒場に行くか中央広間で待つか……。
前の世界はスマホがあって便利だった。通信ができないことがこんなに不便だなんて。爪を噛みつつマッキオ工房の前を通過したとき。
「あ、ラド。どうしたの? なんかひどい顔してるよ」
当然のようにアキハが顔を出す。
「ひどい顔って、ひどい顔にもなるよ」
「何かあったの?」
「ああ、イチカがさらわれたかもしれないんだ」
「ええ! ちょっとなに呑気にココに来てるのよ!」
「呑気じゃないよ! その推理に至って急いでライカと街に戻ってきたところなんだ」
「わたしも探すわ。心当たりはないの?」
「ある」
「じゃ、そこに」
「いまライカが向かってると思う。僕は足が遅いからライカが先に街に行ったんだ」
「じゃ私たちも」
「入れ違いになるのが怖い。中央広間でライカと待ち合わせをしているんだ、まずはその情報を待つつもりだ」
「う、うん。わかったわ。私も一緒に行く」
そうして日が落ちるまで待っただろうか。人の流れが商売から帰宅に変わり、さらに夜の娯楽に変わる頃にライカがしょんぼりして広間に現れた。
「ライカ! どうだった」
「ダメだった」
「イチカがか!?」
「ううん、レイフの酒場には入れなかったんだ。格子から覗いてもウィリスはいないし。他の酒場も見たけどいなくて」
「そうか」
「ラド、ライカは半獣人だもん、酒場に入れないのは当たり前よ」
「それを言うと子供の僕らだって酒場に入れない。入っても追い返されるのがオチだよ」
「だよね。ラドちっちゃいもん」
そうアキハに気にしていることを言われて、はっと気づく。要するに子供に見えなきゃいいのだ。なら簡単だ。
「変装しよう。ライカは三人の中で一番大きい。ガウベルーア男性の平均身長からみて、それほど遜色はない。胴回りに詰め物して大きめの服を着てフードをかぶれば男の人に見える。アキハは母さんの服を着て底の高い靴を履くんだ。髪を結べば大人っぽく見えるだろう」
「え、え? なにするの?」
「変装したライカがアキハを売りに来たように見せかけて店に入るんだ」
「なるほど! でもラドはどうすんの?」
「僕は……そうだな。その店先にぶら下がっている南京袋に入ってライカに担いでもらうよ。ライカ僕を持ち上げてみてよ」
「しゅにんをか?」
するとライカはラドの肩と膝の裏に手をいれるとお姫様だっこでひょいとラドを持ち上げる。少々力んだようだが何の苦も無くだ。
「しゅにん軽い! 工場のうんこ桶より軽いや」
「……素敵なたとえありがとう。ライカ」
横でアキハが声を殺して笑っている。
「そこ! 笑うな!」
「ごめん、ごめん。ラドなんでそんなにちっちゃいの? わたしの首くらいしかないの」
「失礼な、鼻くらいはあるよ!」
「でもそのサイズなら南京袋に入れそうね」
「ねぇ、こんなもんかしらね」
アキハは最近、伸ばしている髪を後ろにまとめて結び、すこし乱れ髪にセットする。
「うん大人っぽい感じだ。胸の詰め物はもう少し多い方がいい、色気が出る」
「そうかな。大きすぎない?」
「いやローブでシルエットを見せるから、大きすぎるくらいがいい」
「ライカは変じゃないか?」
「どれどれ? 大丈夫よ、顔はもう少し汚した方がいいかしら。荒くれっぽく」
「コートのフードが不自然に盛り上がって見えるから、ちゃんと帽子をかぶった方がいいよ」
「でも耳をふさぐと聞こえないぞ」
「聞かないくらいの不愛想が丁度いいよ。いいかい。ライカは声が高いからしゃべっちゃダメだ。おしのフリをするんだ。僕がメモを書くから店主にはこれを渡す。何を言われても手を振って答えない。でもチップは弾むんだ。二百ロクタンも払えば何も言わないはずだよ」
「もったいないなぁ。この服を買ってチップも払ったら一週間分の食費になっちゃう」
「確実にイチカを助けるためだ。お金で解決できるなら惜しまないさ」
「たしかにそうね」
「じゃ行こう、僕が袋に入ったらスタートだ」
レイフの酒場にふらりとくる客の目的は三つしかない。酒か女か女を売るかだ。今回は旅の男に成りすました自分が、アキハが扮する女を売るという設定だ。
ライカは決して開放的とは言えない酒場の扉を開ける。
勢いよく開けたつもりはないが緊張のせいか思ったよりも力んでしまったらしく、頭の上から喧騒に似つかわしくない、かわいい土鈴の音が騒がしいほどコロンコロンと響く。
初めて見る酒場の景色は、ライカの目には狂乱と同じに映った。
大声を上げて叫び、ぐでんぐでんになりからみあい、ぶっ倒れてテーブルに突っ伏す男たちの巣窟。これを狂乱と言わずに何と言おう。
酔っ払って狂乱に陥る自分達を棚に置き、半獣人の狂乱を責め立てるのは解せないと思う。それと同時にそんな世界を客観的に見ている自分は何でここに居るのだろうかとも思う。
半獣人である自分は、たとえ大人になってもここに入ることはできない。なのにまだ幼い自分がそんな世界を見てしまった不思議。
視線を前に向けると目が深く沈んだ、シワの深い店主が顔を上げてカウンターからこっちを見据えている。客相手とは思えない鋭い視線を送ってくるのは、この客が飲み客か買い客か、はたまた売り客かを見極めるためだ。
腹に力を入れて気持ちを切り替える。
ラドに言われたとおりに、あえて堂々と泥酔する客が座るテーブルとテーブルの間を大股で歩いてカウンターに向かう。
酔っぱらいの目が自分に向かうのを鋭い聴覚で感じながら、だがそこに怯むことなく自分を律してカウンターに肘をつく。そしてポケットから一枚の紙を出す。
店主はそれをみて、カーキ色のフードで顔を隠したライカと、横で小さくうつむく全身ボロのローブに手縄をつけた女――アキハ――を交互に見た。
「売りか?」
ピンクの色を失った口が僅かに動く。
その言葉に対してライカは背中にコツンと叩く感覚をみとめた。南京袋にかついだラドが背中からサインを送ってるのだ。背中を一つ叩くのはイエス。つまり頷けのサインだ。
それを認めてライカはゆっくり頷く。
「ちょっと待ってろ」
店主は全身から張った気を発しながら、カウンターの右手奥に伸びる上階段をきしませる。
商売柄、騙されることが多いのだろう。相手をとことん信じないのは、この商売で生きていく唯一の防衛策となっているようだ。
取り残されたライカは、カウンターの前で来たそのままの立ち姿で待つことにする。
無駄な動きをする必要はない。むしろソワソワすれば疑われるのがオチだ。そう教えてくれたラドの言葉が頭をよぎる。
「おい、にいちゃん!」
にもかかわらず誰かがライカの肩をつかんで力任せにぐっと引っ張った。
「んあ~、てめぇ、どこのもんだ? パラケルスじゃねぇなぁ~」
酒臭い!
ここで出てくる酒は土酒だ。パラケルスは芋の産地なので酒も芋から作るのだが、そのままでは臭いので濾したのち壺にいれて土に埋めて臭みを沈殿させるのだ。この土に埋めるという製法から、これを土酒と呼ぶ。それでも土酒はかなり臭い。
その濃縮した臭いが被ったフードの中にもわりと満ちる。鼻の鋭いライカは酒の臭いも芋の臭いもどちらも嫌いだ!
その嫌悪が反射的に顰めた表情に現れたのだろう。目まで充血させたサル顔の調子のよさそうな相手は僅かに動いた口元をみとめて難癖をつける。
「にいちゃん、パラケルスにゃパラケルスのルールってのがある。新顔はおれたちに一杯おごるってなァァァ!!!」
その張り上げた大声で飲んだくれどもは口笛を吹き喚声をあげる。
ライカは迷った。というか困った。「奢る? そんなことするわけない」と言ってやりたいが、ラドからは声を出すなと言われている。だが黙っていれば肯定だ。といって逃げるわけにもいかない。
どう動くべきか逡巡していると、相手の男は馴れ馴れしく肩を組み服ごしに尻や上着のポケットをまさぐりだした。
金目のモノを物色しているのだ。何か見つければ「にいちゃんのおごりだ!」とで言ってばらまくつもりだろう。
その手が上着の合わせに入ってくる。そして乳房の端をするりとさする。
その微かな柔らかさに気づいた男が「うほっ」とエロイ顔を浮かべた瞬間、ライカはたまらず体を入れ替え、目にも止まらぬ早さで相手の顔面に肘鉄をいれていた。
くらった男は、ひとたまりもなくその場にくらくらと倒れる。
だがうっかりラドをつめた南京袋を落としてしまった。
あちゃーと思ったときにはもう遅い。袋の中からくぐもった声て「うぅっ」と小さな声が漏れた。
バレたかと思ったが、客たちはむしろこの展開に歓声をあげ、ラドの苦痛の声は完全に掻き消す。だがホッとしてはいられない。目の前でくらりと倒れたサル顔の男にテーブルをひっくり返された客が、酔っぱらいとは思えぬ瞬発力で立ち上がりライカの腕をひねり上げたからだ。
危険を察知したアキハがこちらに近寄りそうになるが、その足は踏み出そうとして止まる。ここでアキハが助けに動けば計画がおかしくなってしまう。アキハの対応は正しい。
――しかたないにゃ。
ライカは心の中で独り言いいココで戦うことを決意する。ここは屋内だ。屋内ならばヒトは魔法を使えない。魔法がなければヒトになんか負ける気はしない。それが一対一ならなおさらだ。
決断が着いたらライカは早い。
相手が一歩踏み込む前に、持ち前の跳躍力でぴょんと跳ね上がり、つかまれた自分の手を支えに両足をそろえて相手の顔面にキックを入れてやる。たまらず手を離した男が大の字になってその場に倒れる。当のライカはそのまま宙返りをしてクルンと着地。
「こんちくしょ、喧嘩か! やれやれ!!!」
明らかにこの状況を楽しんでる数名が立ち上がり、客達はまるで申し合わせたようにテーブルを引いて空間を作る。ホールは観客に徹する客と一戦交えようとする荒くれに分かれ、この場は瞬く間に格闘場に早変わりだ。
しゅにんは『ガウベルーア人は知的で温厚だ』と言っていたが、それは本当だろうかと思う。自分は市場に行くと石を投げられ食べ物も売ってくれない、盗みを働くと火の魔法で殺されそうになる。その上、夜はこんなところで我を失うまで飲んだくれているのだ。もしかして例外はいるのかもしれないが、温厚なラドやアキハの方が例外なのではないか。そうだとしか思えない。
「俺が相手になってやるぜ」
周りから見ても明らかに体格のいい男が参戦を申しでてきた。
横でフードをかぶっているアキハが狼狽しているのが分かった。止めたくても止められない葛藤だ。ここにはこの喧嘩を止める人は誰もいない。アキハもそうだがラドも南京袋から出られない。この場をどうするかは自分の仕切り次第なのだ。
『いいかい、ライカは女の子を売る悪い奴って設定なんだ。血も涙もない悪党なんだ』
ラドの言葉を思い出し、ならその役に徹してやると覚悟を決めて一歩前に出る。
大きく息を吸って「来い!」と言おうとして、自分はしゃべっちゃいけないと思いだす。ならばと手の甲を相手に差しだして、ちょいちょいとこっちに来るよう指図する。まるでカンフー映画のように。それは大いに相手を刺激した。
「やろう。どこの誰だかしらねぇが、なめやがって」
男は対戦を始める予兆もなく、うぉーとうなり声をあげて突っ込んでくる。
近づいてくると自分にはかなり大きい相手だと分かった。身長はガウベルーア人にしては珍しく五十七シブ(百七十センチメートル)に近そうだ。腕も自分の倍くらいはあり、どこかの兵士あがりかもしれない。その男が拳をふるってくる。
どうしようか。ちらっと後ろを見ると、そこには一人様の客がすわるカウンターが設えられている。なかなかにごつい天板で頭でもぶつけたら痛そうだ。なら――。
ライカは相手の拳がぎりぎり自分にあたるところまで引きつけると、パッと体を開いて相手の手首
をクイっとつかむ。ネコ系半獣人の自分にとってヒトの動きなど、精神を集中すればスローモーションに見える。
取った手首に体を添わせて、走り込んでくる相手の足にちょいと足首をひっかけてやる。
すると相手は、あっさり上体をくずし前のめりにオットットと躓いていく。そしてライカは開いた体の反動を利用してくるりと回り、自分の横を通り過ぎていく男の背中に後ろ回し蹴りをくらわしてやる。
食らった相手はたまったもんじゃない。体勢を立て直す間もなくつんのめりそのままカウンターに顔面を強打!
バシーンと盛大な音を発してその場にぶったおれる。吹き出す鼻血。
――うわ、いたそうっ!
やったのは自分だが、想像するだに痛そうで目をつむってしまう。だからといって済まない事をしたとは思わない。むしろ日ごろのうっ憤を晴らしにスカッとした快感が駆け巡る。
周囲は瞬殺されたこの現状に生唾を飲む。
一瞬にして静寂が訪れ、次の行動が恐怖に落ちるのか、乱闘になるのか、しらけるのか、まったく行方が分からない状態になった。
だが興奮してきたライカは、その空気が読めなかった。
後ろ回しげりの足をもどしローブを直すと、ホールの中央に向かって一歩踏み込み。ドンと大きく右足で床をならす。
「次の奴、くるにゃ!!!」
と大声で叫ぼうとして――。
「俺の店で暴れるとは、いい度胸じゃねーか」と、恐ろしくドスの聞いた声が場を占めた。
ホールを占める沈黙の瞳は階段から下りてくる店主に向かう。
「仕掛けたのはどいつだ」
全員の視線が自分に注がれる。ちょっと待て。そんなバカな話はない。自分はからまれた方だ。だがしゃべれない以上弁明はできない。
店主はじっとこちらを見ている。ライカはローブの顔隠しをかぶり直して店主のほうをみる。だが顔がはっきり見えないようにしなければならない。
「おまえじゃねーな。だが弁償はしてもらう。あり金、全部置いてきな」
そんな中、人込みに紛れてコソコソと外に向かう影をみつけた店主は、「クレイトン、てめぇもだ。そのテーブル代だ、一万払え」
「ちょっと待ってくれよ! レイフの旦那。俺じゃねぇって」
「大方、てめぇが絡んだんだろ。俺はてめぇがおしめの頃から知ってる。おめぇはそういう奴だ」
ゆっくり地べた這うように、べっとりと喋るレイフが怖い。
「旦那……」と言ったきりクレイトンと呼ばれた男は、蛇ににらまれたカエルのようにだんまり。遂に「わかったって」と言ってポケットの中からけなしの黒檀通貨をばらけさせた。
硬質な音を奏でて、床におちた通貨は数えても五百ロクタンもない。
「ちっ! 文無しが。あとできっちり請求してやる。クソども!!! もう喧嘩はしまいだ! とっとと店戻して飲みやがれ!」
一声、レイフが怒鳴ると客は終わりを悟ってか、何もなかったように会話を初め、レイフがライカのもとに歩いてくるまでの間にホールをいつもの乱痴会場に戻してしまった。
「ぼうず、金を置いて上にいけ」
レイフがライカにかけた言葉はただそれだけだった。