失踪
変なところを見られて冷や汗をかいた。
目の下にじっとりかいた汗を指先でぬぐいつつ、ラドは今日の仕事にとりかかるために自分の執務室に向かう。なまじ時間があるから里心ついた事を思ってしまうのだ。仕事に集中すれはそんな事など忘れてしまうだろう。
「おはようイチカ、ごめんね夜中に抜け出しちゃって。着替えを取りに家に帰ったんだけど、迂闊にも忘れてきちゃって」
そう言いながら自分の席につくが返事は帰ってこない。
「イチカ?」
声が返ってこないということは、もう仕事を始めているのだろう。お日様はもう高いのだから当然だ。資材の棚卸しをしているのか、部材発注の準備をしているのか、あるいはホムンクルスの発育状況を確認しているのかもしれない。
そういう事は普段イチカに任せっきりにしているが、体を動かさないとまた頭が働いて余計なことを考えてしまいそうなので、今日は事務仕事は止めてイチカと一緒に外回りの仕事をすることにする。
管理棟を出て六月の爽やかな風に吹かれて工場をまわる。育成槽をガラスに変え、し尿処理にバクテリア分解槽を採用してから工場の臭いは激減した。
半獣人を大量に採用したが彼らは匂いに敏感なので、ココで仕事をするのが辛そうだったのだ。労働環境の改善はサラリーマンならずともマネージャーとして大事なことである。
この半獣人という言い方も何とかしたい。半分獣で半分人というニュアンスが差別的で言ってて自分でもイヤになる。
資材倉庫を覗き、各育成棟を回る。
培養液製造場に書庫。
一応、門番の控室にも顔を出す。
「あれ? どこにもいないなぁ。僕を追って家に行ったかな」
そう考えてみるが工場までの道は一本道だ、すれ違っていないからそれはない。
「入れ違いになっちゃったかな?」
管理棟に戻り自分の執務室の扉を開けるが、さして広くもない部屋はシンと静まりかえっている。
「ウィリス工場長のお使いかな?」
あまり気が進まないが工場長の執務室をノックする。
「ウィリス工場長……」
されど声は聞こえず。
「ラドです。ウィリス工場長?」
やはり声はない。ここにウィリスがいないのは珍しい。業務時間だというのに工場のほぼ全ての事は自分とイチカにまかせっきりだし育成棟を見に来ることはまずない。基本的に彼はこの部屋で適当に時間をつぶしている。
「入りますよー」
そう声をかけて扉を押すと、「あれ? 鍵がかかってない」
どういうことだろう。一応、重要書類があるのだから不在ならば鍵をかけるはずなのに。
そっとドア開けて隙間から中をのぞくと、やはり人はない。
さらに押し広げて中にはいる。やはり不在のようだ。
普段ひっきりなしに居る人がいないのは、ぽっかり穴があいたようで何とも違和感がある。違和感といえば自分の執務室も違和感があった。
言葉にできないから違和感なのだが、あれはなんだったのだろうか。
まあいい。ラドはもう一度、工場を回ってみる事にする。もしかしたらすれ違っているかもしれない。
ウィリスが行きそうなところは思いつかないので、最前と同じようにイチカや行きそうなところを一通り歩き回って、やはり二人がいないことを確認して、工場の一番奥にある第二十育成棟にたどり着く。
案の定、育成棟には早くも親気取りのライカの後ろ姿。ガラス槽を抱きしめながら「リレイラっ、早く大きくなるんだぞ」と話しかけいる。
「ライカ、ここにイチカは来なかったかい?」
「おお、しゅにん。イチカは今日は来てないぞ」
「そうか……」
「いつもなら、もうリレイラに会いに来るころだけどな」
「リレイラ? その子に名前をつけたのかい?」
「うん! イチカと考えたんだ。ライカがホムちゃんって話しかけてたら、イチカが『その名前はちょっと……』って困った顔するからさ」
アキハ再来。お前らのネーミングセンスは一緒かよ、と思いつつ「いい名前だね」と、たぶんイチカのセンスだろう名前を褒めてあげる。
「だろ、ライカが考えたんだぞ」
「え!!!」
「なんだよ、しゅにん」
「いや意外だったから。てっきりイチカが名付け親かと思って」
「しゅにんは、ライカが名前をつけられないと思ってるだろ。マイカもエイラもノイラもライカが名前をつけてあげたんだぞ」
「あはは、そう……なんだ、ライカはネーミングセンスがあるね」
「にゃははは、だろ!」
「ところで、イチカを探してるんだけど手伝ってくれないかな」
「どうしたんだ?」
「イチカがどこにもいないんだ」
「イチカはしっかりした子だからちゃんと帰ってくると思うぞ」
まったく……おまえよりしっかりした子だよ。それはイチカも言われたくないセリフじゃないだろうか。
「そうなんだけど、ウィリス工場長もいなくて、なんか心配でさ」
「ふーん、別にいいけど、しゅにんはイチカに過保護にゃ。ライカはちょっと不満だぞ」
ライカが頬を膨らますのを見て、ラドは確かに自分が二人に差をつけていると気づいた。
イチカは体が弱い。軟膏を切らすと死んでしまうかもしれない事がずっと頭にあるから、ついイチカを守らなきゃと思ってしまう。
一方、ライカはやんちゃな小学生男子をいなすように扱ってしまう。体は丈夫すぎるほど丈夫だし、類まれな運動神経があるのでケガなんてしようもない。
だがパラケルスではいつも心を傷つけられてきた少女なのだ。二人の境遇に変わりはない。それを知らないわけではないが、いつも陽気で元気なライカを見ているとつい失念してしまうのだ。
「ごめんね。ライカ。僕はライカもイチカも大事だよ。でもちょっと最近イチカのことばかりになっていたね」
言葉で謝罪をするが、ライカには言葉よりもっと気持ちを伝える方法がある。ライカのねこみみ頭を優しくなでてあげるのだ。
するとライカはしっぽを立てて、きもちよさそうに目を細める。
「わかればいいにゃ、しゅにん」
なんて調子のいいことをいう。だがそういうところがかわいいと思う。
「よーし! イチカをさがしにいくにゃ~」
最近気づいたがライカは機嫌がいいと語尾に「にゃ」がつくらしい。
これはたぶん自分のオタク脳が都合よく、ガウベルーア語を翻訳してるのだと思うのだけれど。
二人はもう一度ラドの執務室に戻る。
もしかしたらイチカが戻っているかもしれない。イチカが行けるところはそう多くはない。ラドの家かココか……。だから張り付くならこの執務室がいい、そう思ったがライカは執務室に入るなり意外な事を言った。
「しゅにん、ウィリスの臭いがする」
「そりゃするよ。工場長は時々ここにくるんだから」
「ちがう、すごく臭いが濃いんだ」
そのヒントはラドの頭のスイッチを入れるには十分だった。
この部屋の調度品は、部屋の左壁に机が二つに、右壁にベッドが一つ。そのベッドが乱れている。イチカはこういうところは几帳面だ。教えたアキハはやらないのにベッドを出たらちゃんとシーツや毛布を整える。それが乱れている。
そしてもう一つは自分の机の椅子の位置だ。この部屋を出たときのままなら、座面は扉の方を向いているはずだ。もしイチカが気づいたなら椅子は机のあるべき場所に収まっているはず。それが引かれて扉の対面にある窓側を向いている。
自分が感じた違和感の正体はこれだ。つまりこの部屋には誰かが入ったという違和感。それはウィリスだったということ。
「ライカ、臭いはどこが一番強い?」
急に真顔になったラドをみて、ライカがしっぽの毛を逆立てて対応を切り替える。ライカにはこの工場の警備も任せている。有事の対応は教えており今がその時と悟ったようだ。
「ちょっと待って」
いくつかの調度品に鼻を近づけて、スンスンと臭いをかぐ。
「ライカの鼻じゃ、そんなにわからないけど。しゅにんの机のあたり」
意外な事にベッドじゃない。ということは夜這いじみたことはなかったということか。それに少しほっとする。
だが自分の机に何の用があったのだろうか。
ラドは自分の椅子に腰かけて机についてみる。
イチカが作った製造発注に関する書類の束。
ブックエンドに立てかけた魔法の本。
搾油した獣油が入った陶器の壺に、限りなく行燈に近い獣油ランプ。
別段おかしいところはない。
そして天板の下についた鍵付きの引き出し。
その鍵穴にポケットから取り出した鍵を差し込む。
「はっ!」
「どうしたんだ?」
不意の声にライカの耳がぴんと動く。
「開いてる。鍵が。締め忘れたのか、それとも……」
ラドの背中にピタリと張り付いたライカが、引き出しの行方を剣呑な雰囲気を醸し出しながら見守る。ドキドキと脈打つライカの鼓動が背中からはっきりと伝わってきた。
そっと取っ手を引くと、職人がやたらいい仕事をした引き出しがガタつきもなく「シー」と音を発して中身をさらけ出していく。
この中には、ラドとイチカにとって大切なものが入っている。
それは一冊の黒表紙の本。
題名は『ホムンクルスと魔法に関する考察』
つまり二人で実験と観察を繰り返してきた、目覚めたホムンクルスと魔法に関する研究の全てだ。もちろんイチカの秘密も書いてある。
それがない!
「どうした、しゅにん?」
ラドが引き出しの四角い穴を見つめて止まったのをライカは気づいたのだろう。
ライカは不安げな声をかけた。