親心
日差しがジリジリと熱くなる頃になっても、ラドの魔法の研究は一向に進まなかった。
ラドが仮説を立てて、イチカが魔法を唱えて実験する。こんな繰り返しを何度しただろうか。
呪文にはいくつかの不思議がある。言葉を変えても効果が変わらない転変や、魔法を顕現させるには呪文詠唱だけではなく個人に合ったやり方があること、呪文の特定のセンテンスを唱えると非常に微弱な魔法が顕現するのもそうだ。これはイチカの魔力が強いから確認できた事で、いくら文献を調べてもこの様な事例はどこにも乗っていなかった。
また氷冷の魔法と火の魔法の呪文に共通部分があるのも気になる。
察するに呪文はプログラム言語のようなモノだと思う。僅かに効果を発揮するセンテンスは、魔法効果そのものを記述する関数に相当し、それ以外の部分は計算やループ等の制御文なのではないだろうか。
だかその仮説をもとに共通部分を置き換えた呪文を作っても魔法は顕現しない。その原因は呪文構文が間違っているのか、そもそも考え方が間違っているか……。
何かピースがハマれば突破できそうな気もするが、そのピースが見つからない。
一方、ホムンクルスの研究もあと一歩で足踏みをしていた。
様々に条件を変えてホムンクルスを生産すると、どうやら仕込みの過程で半獣人の毛などの不純物が混じると通常より多彩な反応をするホムンクルスが作られると分かってきた。
だが不純物が多すぎるとヒトの形にならないし、ヒトの形にならないホムンクルスは途中で死んでしまう。いったい何をどのくらい、いつ混ぜるべきなのか皆目見当がつかない。
また多彩な反応といっても、音や振動に対して敏感だというだけで、イチカのように目覚めには至らない。唯一ライカが過剰に世話をするホムンクルスだけは、しばしば眼振を起こす反応を見せているが、それ以上の変化はない。
知的な刺激や感情が目覚めの大きな因子だとは思うのだが……。
半獣人の狂乱原因もそうだが、この手の実験結果や新たに分かった事実や推察は、実験ノートとして一冊の本にまとめている。
魔法が使えないラドが魔法騎士になるには、魔法や魔法と関係があるホムンクルスの謎を解き明かさなければならない。そのためには観察の積み重ねが不可欠だ。
今日も工場の仕事が終わってから、執務室に閉じこもりノートをまとめる。
今日の実験は”魔力は何を媒体に伝導するか”だ。先日、紙に書いた線上を魔力が伝う事を発見したのだが、この事と魔法陣に関係がありそうで魔力伝導の特性を調べている。
「ん? 燃料切れか」
手元が暗くなりふと顔を上げると、獣油ランプの油が尽きて炎が消えそうになっている。
ランプの油は約四時間もつ。この世界に厳密な時計はないが、月時計で九時に仕事を終えたから、今はもう夜中の一時くらいだろう。獣の遠吠えすら静まる時間だ。
どういう偶然か分からないが、この世界も時間は二四時間、一時間は六十分制だ。これが偶然なのかラドの頭が勝手に換算しているのかは自分では分からないのだが。
まとめ終わったノートを閉じ、んーっと背中を伸ばす。
後ろからイチカの寝息が聞こえる。
「だよな。だから寝ていいって言ったのに」
魔法が使えない自分には分からないが魔法の行使はかなり疲れるらしい。だからイチカには「無理して起きている必要はないよ」と、いつも言っているのだが、遠慮がちなイチカは「いいえ、ラドが頑張っているのですから起きています」と答え、ベッドの横にちょこんと腰掛けて、じっと待っている。
だが夜も更けるとうつらうつら。
今日もベッドを薦めたのに「いいえ眠くありません」と目をこすって背筋を伸ばしていた。だが眠気に耐えきれず、いつの間にか座った形のままパタリと横になってしまったようだ。
「イチカ、イチカ」
ベッドに入れてあげようと軽く揺すってみるが起きる気配はない。よほど疲れているのだろう。
そんな健気な彼女のために、そっと毛布を引き抜いてかけてあげる。
「さてどうしよう。イチカが寝ている間に一度家に帰って着替えだけ取ってきてあげようか」
最近立て込んでいて、もう五日も泊り込みだ。そのせいでイチカも家に帰れていないのだが、さすがに女の子が泊り続きで五日も同じ服なのは可愛そうだ。
こんなにぐっすり寝ているなら朝まで起きないだろう。起こすのも申し訳ないので一人で一時帰宅することにする。
工場の門を抜けると、眼前は広広たる地に平衡感覚を失うほどの満天に星。
思わず「うぁ」と声が出た。
夜明かりのない世界なので空はいつも綺麗だが、これほどの星空は見たことがない。思わず見とれて上を見ながら歩き出す。
「こっちが天の川かな、ひときは明るいのは南十字星? いや大三角形?」
感動の光景……なのだが同時に理系な思考が働き初め、ついここが地球ではないかと証拠探しに星座観測をしてしまう。
「やめやめ、それっぽい星座を見つけたって、これが天の川銀河とは限らないじゃないか。棒渦巻き銀河の辺縁にソーラーシステムがあれば、こんな景色が見えるのは想定の範囲だし」
考え出して今更だが、こんなに頭が疲れているのに更に思考をめぐらす必要はないと気づく。習慣とは恐ろしいものだ。
ラドは気持ちを切り替えて、純粋に夜空の煌めきを楽しむことにする。
「すごい星だなぁ」
都会で見る夜空にはシリウスかカノープスくらいしかないが、ここの空には落ちてくるほどの明かりがひしめいている。目が慣れると真夜中なのに本すら読めそうなほどに。
「見せたかったなぁ。やっぱりイチカと帰るべきだったかも」
こんな綺麗な空を密かに二人じめできた事を考えると、ちょっと残念な気持ちになる。
ナナリーINNはもう営業を終了しており、ラドは秘密の閂をあけて裏口から家に入った。
真っ暗な家の階段を音を立てないように上がり、屋根裏につながるハシゴを登る。
部屋に入っても懐かしい我が家の感覚はない。この世界に来てからココにいる時間は長くはないのだから。いつもアキハの家に入り浸っていたし、むしろ工場に泊まっている日のほうが多かった。
義母はINNの仕事ですっかり疲れたのだろう、寝息も静かにぐっすり寝ていた。
格子窓から差し込む星明かりに長いまつげが映っている。
物静かでとても優しい人。
だがラドはなかなか彼女に馴染めなかった。
急にラドという子供になって『この人が母だ』といわれても、ハイそうですかなどと受け止められなかった。子供ならともかく三十歳を超えた大人なのだから。
――そう、大人だったのだ。自分は。
義母はわが子の距離感で接してくる。それが受け入れられないラドは逆に距離を置こうとする。義母はそれを寂しく思うようで、ときより「ラドは急に大人になっちゃたわね」とポツリという。
ラドはそんな急に親離れさせてしまった事を申し訳なく思うのだが、それよりもっと辛い事があった。
自分は本当のラドじゃない事。
彼女が笑顔で手を広げて自分を待つ姿を見る度、鳩尾のあたりを抉られるような痛みを感じる。
申し訳ない思う。本当に申し訳ないと思う。
だから本当の事は絶対知られてはいけない。彼女が育てたラドという少年の中身が別人だと知ったら、この優し女性はショックの余りもう立ち直れなくなってしまうだろう。
事実を使えるのが彼女のためになると思えない。素直が全てにおいて正義とは限らないし、それに自分は正義を語るような人物じゃない。
義母を起こしては悪いので部屋の隅の編みカゴから何着かの着替えを取り出し、風呂敷に詰めて丸めて包む。
それでも気配が動くからか、義母は「ううん」と寝言をもらして寝返りをうつ。
連子窓からさしこむ星明かりに横顔か映る。
穏やかな寝顔。
贔屓目に見ても義母は美人だ。
女性らしい卵型の輪郭に整った目鼻立ち。少し憂いのある二重瞼。ふくよかな婦人が多いパラケルスにおいてほっそりとした彼女はミステリアスでぞっとする。
アキハの母もなかなかの美人だが、ラドの目には姉の方に軍配が上がると思える。
この世界の美的感覚の程は分からないが、彼女が”半獣落とし”と知らない街の外から客には人気があるのでやはり美女なのだろう。
「美人薄幸。荒れた世ならなおさらか」
あまつさえ、なんでこんなイイ人の元に僕なんかが。
「ごめんね。――さん」
起きている時には言えないが寝ている時ならと小さく謝り――、ラドは少しの間、罪滅ぼしに義母の隣で横になった。
INNで聞いた噂では、義母は子供の頃に姉妹でこの地に流れ着いたのだという。
「苦労したんだろうな、だからヒュウゴ先生が言ってた裏で商売を……そんな人には見えないのに……」
そう思いながら夜更かし続きの疲れからか、ラドの意識は急速に遠のいて行くのだった。
「ラド、起きなさい。あなた工場の仕事があるんじゃないの」
鈴が鳴るような声で目が覚めた。
「こんなに寝坊なんて珍しいわね」
「ん、んー」
眠くて目が開かない。それでも耳が夢の世界から戻るにつれて外の喧騒をひろい始める。
街道の賑わい。荷馬車が轍を超える軋み。隣の八百屋のおばさんの威勢のいい笑い声……。
「あっ!」
ガバッと跳ね起き格子に顔を押し当てると、日はもう高く時にして十時を遙か超えてる。
「寝ちゃった! 何やってんだ僕は!」
ワタワタと狭い部屋を駆けずり回り身支度に暴れまわるラドに、母は「まぁ忙しないわね」と嬉しそうに言いながら、メレンゲでも掴むようにそっとラドの肩を捕まえて、寝癖になった頭を手櫛で整える。
「早く行かなかきゃ!」
「もうすっかり遅刻よ、そんなに急がなくていいじゃない」
優しく響く全く大人らしくない不誠実な言葉。それと同じくらい優しい力がラドの黒髪にかけた手にふわりとかかり、義母は吸い寄せるようにラドを正面から抱きしめる。
それがあまりに自然で、ラドは何も言えずにしばらく義母の胸にいだかれた。
ぎゅっとではない、でも慈愛にみちた包容を静かに解いて義母が言う。
「ごめんね、ラドはもう大人ですものね。嫌だったでしょう」
慎ましい胸のぬくもりを感じながら、ラドは小さく頭を横に振る。
「そんなことないよ。……さん」
ふと緩んだ母の腕から顔を上げると、目尻を落としてにっこりと微笑むコバルト色の瞳があった。そんな顔を目の前に、恥ずかしさが頂点に達したラドは義母の胸をトンと突き返す。
「僕、もう行くよ」
そのまま逃げるようにハシゴを駆け降り部屋を後にする。
何の懐かしも愛着もない部屋のはずだった。
だがそこには、たしかに母の香りが漂っていた。
たとえ突然であっても、この世界に生まれ落ちて身を託したのなら、きっとそれは母なのだ。それは今、胸に満ちた自然と涙が零れるような思いが証明している。
「いってきます。母さん」
ラドは誰にも聞こえない言葉を戸口において、その場を後にした。
恥かしさに耐えかねたラドは、工場までの道をひたすら走る。
おろかにも着替えを全て忘れてしまったことに途中で気づいたが、今更引き返すわけにもいかず、そのバカさ加減が身に染みて、更に足に力を込めて走り続ける。
工場に着いても、なんとなくイチカと顔を合わせるのが気恥ずかしく、一旦一人になりたくて第二十育成棟に身を隠す。
ガラス容器に置き換わった育成棟は青白く光る燐光に照らされて、サイバーアニメで見るような近未来の光景を醸し出している。
その一つ。ライカが溺愛するホムンクルスに言葉をかける。
「つい母さんって言っちゃったよ」
もちろんホムンクルスはなんの反応もしない。
「きみの母さんはライカだよね。きみはライカに母さんって言える? ただ目の前にいるだけの人かもしれない、その人に。全てを託して」
生後一歳くらいに育った彼女がピクッと動く。といってもこれが特殊なことではない。ホムンクルスだって寝返りは打つ。これは通常の反応だ。
「でもライカは君を愛しているから、ならライカは君のお母さんかもしれないね」
ガラス槽にそっと手を添えて、人肌に温まったぬくもりを手のひらから感じる。
ライカはこの水槽に抱きついて頬ずりをしていた。ガラス越しに愛情表現をしても伝わらないだろうと思うが、ライカはそんな理屈などお構いなしだ。だがこの時ばかりは彼女の気持がわかる気がした。
「あの人にとって今日は久しぶりの親子の時間だったんだ。僕たちは互いにもっと近づきたいのかもしれない。でもそれがもうできないのも知っている。だってあの人が求めるラドという子はもういないんだよ。僕はあの人の想い応えてあげたいけど」
「しゅにーん! なに独り言いってるんだー」
入り口を見ると木桶に掃除道具を抱えたライカが大きな口をあけて立っている。
「ら、ライカ!?」
飛び跳ねて驚いたのを見て、ライカは「どうかしたか?」と聞く。
「聞いてた? いまの聞いてた???」
「ううん、聞こえてなかったけど、ライカのことはいってたよな」
聞いてるじゃないか!
「なんでもない! もし聞こえてたらスパッと忘れて! さ、仕事、仕事」
「へんなしゅにんだな」
ラドは空をかきむしって、今あったことをかき消した。
アキハの叔母にあたるオラッシオは、部屋を飛び出していった息子の背を黙って見送った。
ある日突然変わってしまった息子。男の子は小さい頃は甘えん坊だが、いつかは親を捨てるように離れていくとは聞かされていたが、それがこんなにも突然の来るものだとは思わなかった。
まだ十歳そこそこである。昨日まで半ベソをかいて抱きついてきていた子が、一晩で家にも寄りつかなくなった。
実の子ではないからかと思ったが多分そうではない。その事は本人にも言っているのだから。
多分ラドの中にある別のラドが目覚めたのだ。
実の子ではないが親ならば気がつくことがある。性格、知識、価値観が突然変わった。瞳の色すら日に日に変わっていく。本当にラドなのか思うほどの変化であったが、それでも変わる前のラドの片鱗がしばしば見える。
頑固なところ、優しいところ、我慢強いところ、泣き虫なのに負けず嫌いなところ……。
ラドは自分のかわいい息子なのだ。半獣落としになった私に与えられた光。だから拾ったときから覚悟があった。
オラッシオは抱きしめた小さな温かみを改めて確認し、自分の胸を我が手で抱きしめる。
この子の全てを受け入れて母になろうと思ったのだ。だから今のラドも受け入れたい、開いてしまった溝なら埋めればいい。
三十路にしても荒れ過ぎた手をパンと叩いて自分に言い聞かせ、踏ん切りをつけてINN仕事に戻ろうとしたとき、部屋の片隅に夜までなかった風呂敷を見つけた。
「あら、忘れ物」
中を開けるとラドとイチカの服がある。これは夜中に帰ってきたラドが工場に持っていくためにまとめた服だ。泊まり込みが続く息子はイチカのためにこの服を取りに来たのだろう。それを一眠りして忘れてしまったのだ。
「ふふ、賢くなっちゃったけど、こういう拔けているところもラドのまま……」
ふっと微笑みを漏らして意外に重い包を持つ。そろそろINNの仕事だが昼食を抜けばまだ間に合う。
「届けに行こうかしら。そういえば今日はレイフさんからお給料を戴く日だし」
これは息子との距離を詰めるチャンスかもしれない。アラッシオは包を背に綴りつけると屋根裏部屋を出る。
「旦那様、レイフさんの所にいってきます」
「もうそんな日か。レイフの旦那も義理堅てぇな。まぁコッチはタダで働き手がいるからいいけどよ」
「お昼過ぎには帰ってきますので」
「遅くなるんじゃねーぞ!」
アラッシオはナナリーINNのすり減った階段を珍しく駆け下りた。