後味
「これだ!」
力がないなら頭を使えばいいだけだ。あいつは武器を使った殴り合いが戦いだと思っている。そして相手は小さな子供で絶対負けるはずはないと思い込んでいる。
だが勝つ方法は相手をぶった切るだけじゃない。
ラドは敵に見えないように、イチカの替え玉を育てるために石組みした秘密の部屋に向かう。そう、例のガラス培養器を隠した部屋だ。
敵にバレないように部屋に潜り込み、全身を使って天井の石と床面近くの数個の石をぎりぎりと動かす。次に石積みの側面に回り込み武器にと思って持っていたテコ棒を石と石の隙間に挟み込んだ。
棒はシーソーのようにビンと立っている状態だ。
そしてまた隠し部屋の中に身を潜めると、今度は大振りな石を震える腕で持ち上げ、あえて音が出るようにゴトリと落とした。
石と木で囲われた育成棟は、音を響かせるにはもってこいで床石に当たる衝撃音は、風穴の唸りのようにウワンと響く。
「ほぉぉぉ、そこかぁぁぁ」
もちろん敵に聞こえないはずは無い。場所を特定したシンシアナ兵は肩関節を軽快に動かして、肩に担いだ剣をくるんと回し遊ばせながらガニ股でこちらにやってくる。
「たしかに隠れるにゃ、そこしかねーな」
ラドはその様子をじっと伺う。
「そこじゃ剣は振れねーつてか。なら首根っこ捕まえて、へし折るだけだ」
想像すると身の毛もよだつ事を言い散らして、男が小部屋に入ってきた。
「逃げ場はもうねーな」
口を開く、ねっとりとした音がした。
薄明かりでよく見えないが、男は汚い歯を剥き、残忍な笑いを浮かべて舌なめずりでもしているのだろう。
「たしかに逃げ場はありませんね」
ラドは小部屋の正面奥の壁にピタリとへばりつく。
「おおう、喋れんのか。いい度胸じゃねーか」
追い詰められると恐怖のあまりパニックに陥り言葉を失う者が多い。悲鳴も出ない末期をたくさん見てきた男らしい感想だ。
「残念ながら僕はあっさり殺されるつもりはなくて」
「なら拳でやりあうか」
「それもいいですね。あなたがやる気なら」
ラドはファイティングポーズをとる。
「おもしれぇ」
「どこからでもどうぞ。ウスノロに負ける気はしませんけど」
「そうかよっ!」
と言うやいなや、恐ろしい瞬発力で大男は一歩を踏み込んだ。
その拳風より早くラドは僅かに開けた石の隙間をぬって小部屋の外に出る。壁にへばりついていたのはこの隙間を隠すため。
「残念でした!」
寸止めで拳を止めた男はラドが抜けた隙間を見て一瞬考える。この隙間は自分には狭すぎる。こじ開けるか、いや入り口から外に出るか。
その間にラドは石組み這い上がり小部屋の頂上を目指す! 狙うは石の隙間に挟んだテコ棒。この先に反動をつけてぶら下がれば!
小部屋の中で男が何か罵っているようだったがラドの耳には聞こえなかった。ただ作戦通りに事を成すこと。それだけにラドは集中していた。
「いけーーー!」
石組みの頂上から飛び降りテコ棒の先端にぶら下がる。落ちる勢いを借りたテコ棒は差し込んでいたコーナーストーンを重苦しく動かす。さすがにラドの体重でも重力が加われば重い石でも動く!
だがもう少しのところでテコ棒は作用点から外れ、ビョンとあちらに飛んでいく。
「くそったれ!」
珍しく汚い言葉が出た。この一番大事な時に仕事を放棄するテコ棒のひ弱さが憎い。だが諦めるわけにはいかない! 今度は寝そべって両足で石を蹴り押す。
「小僧!」
小部屋の中の声が動いているのが分かる。早くしなければ!
「がっっっ! ちくしょーーー!」
怒りに任せて石を思いっきり蹴る! 蹴る! 蹴る!!!
「いまそっちにいってやるぜ!」
「動け! 動け!」
石が重い――。
「動けよ! くそっ!!!!!!」
瞬間、コーナーストーンがゴリッと外れた。
同時に支えを失った石組みはグラりと揺れ、全く耐えるそぶりも見せずドシャっと内側に崩れ落ち床を揺らす。中からは「うわ」とも「どぅお」ともつかぬ悲鳴が聞こえ、石の隙間から埃が吹き上げてきた。
「やった、やった!!! 敵を押しつぶしてやったぞ!」
瓦礫の山からコロコロと落ちてくる小石も落ち着く頃には、倒壊の余韻も命の息吹も止まった静寂が訪れていた。
小部屋は石積みのアーチ構造で作ったが、総石造りゆえ天井部分が非常に重く補強が必要だと前々から思っていた。論理的には支え合っていれば天井が落ちることはない。だが一つでも石が外れれば全体が崩れ落ちる脆さがある。
だからコーナーストーンを外せば、あっさり瓦解するだろうことは容易に予想できた。だが内側に倒れるか外側に倒れるかは正直賭けだった。
そして自分はこの賭けに勝ったのだ!
「はぁ、はぁ、なんとかやったか。そうだ! アキハは!?」
落ち着いている場合じゃない。危機はまだ続いているのだ。振り返り入り口を見るとアキハは培養液の青白い揺らめきの中、まだ激闘を続けていた。
何をどうしたのか額から血を流し、肩で息をしてだらりと両腕を垂らしている。
ラドは腕をやられたと早合点したが、アキハはまた両腕を持ち上げナタを添わせた構えをとる。大丈夫、どうやら無事らしい。
だが無事でないのはタナの方だ。真ん中のあたりからポッキリ折れて先の部分はなくなっていた。
あれは鋼ではなく粘りのある鉄なのに、それを折るとは一体どんな戦いをしたのだろうか。
敵はというと息こそ荒れていないが、反対の足も膝裏を切られ殆ど見動きが取れないようだった。それても戦意は横溢しており、アキハが気を抜けば形勢はすぐにでも逆転しそうだった。
こっちは片付いた。アキハを助けに行かねばならない。
だが素で行っても邪魔にまるのは必至だ。なにか武器になるものは無いかとキョロつくと視界の端に残光が横切った、目を戻すとナタの剣先。
「使える!」
ラドは可能性を手中に収めるべく走る。
シンシアナの男は傷つきながらも、不敵な笑いを浮かべてアキハに向けて喋り出す。
「おまえハブルだな」
「だったらなによ」
「じゃなきゃ、説明がつかねー」
アキハは黙って男を睨みつけている。
男は年端も行かない子供がここまで戦うことに驚きつつ同時に一つの確信も得ていた。それはアキハの出自だ。
「おめぇみたいなチビが戦うなんざ、フツーできねーんだ。俺はそんなガウべルーアのガキをみたことがねー」
「好きで戦ってるんじゃないわ!」
「へんっ! いいやがる。本当は昂ぶってるだろ。かわいそうになぁ、おめぇみたいな半端もんはガウべルーアじゃ、さぞかし生きにくいだろうに」
「そんなことない! みんなよくしてくれるもの」
「笑わせるぜ、そんなボロを着てりゃすぐ分かる」
「……」
反駁の余地もない指摘だ。アキハの着ている服はシャツもスカートもベストすらも擦り切れ、元々あっただろう図柄が何なのかも分からない程に色あせている。その上に何箇所もほつれを直した跡があり、それが更に貧しさを助長していた。
衣食住とは語呂がいいが、正しいプライオリティは食住衣だ。そんなことは戦いしか知らぬ男にも必然の理と分かる。
「親父の分まで働いてるかあちゃんを楽させてやりたくねぇか」
何故わかるのか男は母子家庭を見ぬき、言葉の矢じりをアキハの胸に突き刺さす。
戦場で生きてきた男には、眼前の少女の戦意が急速に消散していくのが分かった。もしやと思った直感はことごとく当たっている。こいつの親父はやはり――。
「おめぇ俺とこい」
「何でアンタと!」
「おめぇなら稼げる。シンシアナじゃ強いヤツが認められる」
「……」
「強くなりゃ家族だって誰だって、楽させてやれっぞ」
「ラドやイチカも一緒に?」
「ああそうとも。俺が鍛えりゃ、おめえなら結構いい所までいける、そしたら仲間も連れて親父も――」
「アキハ! こんなやつの言うことに耳を貸すな!」
そんな甘言をぶった切ってラドが割り込む。そしてアキハを取り込もうとする男との間に滑り込み、小さな体を目一杯開いてアキハを隠すように立ちはだかった。
「ラド!」
「懐柔されるな、あいつの言ってることは全部デタラメだ」
「わかってる」
「うおらっクソガキ! しゃしゃり出てくるんじゃねー!」
「アキハは渡さない、もちろんイチカも渡さない! もう一人は僕が倒した、これで二体一だ。いま大人しく帰れば見逃してやる」
「見逃す? 二体一だぁ? しゃらくせーことをぬかしやがる。俺がお前らに負けると思ってんのか」
「ああそうとも、あんたは足をやられている。そして僕らは魔法が使える。二人がかりなら造作もない」
「はっ! 魔法だと? 俺が何人のガウべルーアを殺してきたと思ってる。なら使ってみろ、火の玉か? 氷か? だせ! 今すぐ出してみろ!」
「……いいのか」
「やれるもんならやってみろ! その女は光しか使えねー、それにお前は火の玉だってだせねー。魔法があるならとうの昔に使ってるわ、分からねーと思ったか、うわっはっはっはっ!」
のどちんこまで丸見えの大口で男は大笑いする。
そのとおりだ、これほど苦戦して魔法を使わないのは使えないからと考えるのが当然だ。
「くっ!」
「ほら、唱えてみろ! なんだ? 俺は隠れもしねーぜ」
受けて立つとばかりに手を広げて、男は小馬鹿にしたようにギョロ目をむいた。
「手負いのお前を倒すのに、魔法なんていらないんだよ!!!」
言い切ったラドはアキハから折れたナタを奪い取り、大男に向かって飛びかかった。
男は待ってましたと剣の握りを変えて、動かない下肢をカバーすべく捻っていた上体を振り戻して剣を大きく振り回す。
来るとわかっていたか、剣の持ち手はギリギリまで短く振りは鋭い。
その速さはラドの想像以上だった。
剣刃はラドの胴に直撃し、まるでジャストミートしたホームランのごとく吹っ飛ぶ。
「いやーーーー!」
絶望的な光景に絶叫の声を上げるアキハ!
だがその声の意味を男は恐怖とともに知ることになる。
そこにあったのはどこから取り出したか、長槍を構えてまさに突きを放つ瞬間の構えをした一人の少女だった。
槍は一線となって完全に無防備になった男に顔を、否、さらに鋭く眼球を突いた。
「どわーーーー!!!!」
この世のものとは思えない叫喚。
男は暴れまわり、のたうち回る!
アキハは激痛に暴れ狂う男の動きを見切って男の腰のサックから素早くダガーを抜き取り、男の太ももを踏み台にすると、タンっとジャンプし躊躇なく正面から頸動脈を切り裂いた。
そしてそのまま、くるりと前転して着地する。
背後には血しぶきをあげて急速に萎んでゆく命が残り、程なくして男の声が途切れ、大きな躯体はくたりと地に崩れ落ち、ただの抜け殻となった。
倒したのだ。シンシアナの手練の兵を、たった一人の少女が。
奇跡的な光景である。
「ラド!!!!!」
アキハがラドに駆け寄る。
「ラド! 死んじゃだめ!」
「ううう……」
アキハはラドが目をバッテンにして唸りを上げてうずくまっているというのに、抱き上げようと肩を取る。
「いっっっ! 動かさないでっ!」
「大丈夫! きっと大丈夫だから、ちゃんと体も繋がってる! 足もあるよ! あっ! でも血が!!!」
自分の血は平気だというのに、ラドの服から滲み出すそれを見ただけでアキハはパニックになり、ラドをゆさゆさと揺さぶり始めた。
「ラド! ラド!!! ラドっ!!!」
「いたっ! やめっ! やめて! 肋骨が、肋骨が折れてるから!」
「でも、血でてる!!!」
「大丈夫、擦り傷だよ、これのおかげでどこも切れてないから」
と、浅い息を止めて胴から引き出したのは、敵がつけてた鉄の防具。
「鉄板?」
「ううん、敵から掠め取ったすね当て。これで剣を受け止めたんだ。だからどこも切れてないって」
「はーーー、なんだ早く言ってよ! もうダメだと思っちゃったじゃない」
アキハは安心したのか脱力し、へたへたとその場に腰をおろした。
「いきなり。死に急がないよ」
「でもすごい、このすね当て圧し曲がってるわよ」
「ほんとだ、僕が小さかったから大事にならなかったけど、もし大人だったらまともに剣圧を受けて、すね当てごと切られていたかもしれない。危なかったよ」
「ほんとだよ、無事でよかったー」
「それはアキハも」
「ラドこそ」
極度の緊張から開放されたからだろう、張りつめていた気が抜けて顔を見わせるだけで、二人してへらへらと笑い崩れる。
「にしてもアキハが、あんなに強いとは思わなかったよ」
「うーん、わたしもびっくり。剣が目の前を通った瞬間、急に冷静になって周りがゆっくり見えて。そしたらああなっちゃって」
「なんだか別人みたいだったよ」
「そ……う、よね」
戸惑うように目を伏せる。
「あっ、でも悪い意味じゃなくて、すごいなって」
「ありがとう……。ラドって時々やさしい」
「時々じゃないよ。常に、常時、僕はやさしいじゃない」
「もう冗談。それよりラドも、よく一人で敵を倒したわね。見なおしちゃった!」
「敵が愚かだっただけだよ。うまくトラップに引っ掛かってくれたし凄く運が良かった。おかげで槍も作れたし。むしろアキハが僕にサインを送ってくれたから動けたんだけど」
「サイン?」
「えっ? 出したじゃない、ナタをこう横に構えてライトの魔法を使って」
「ああ、あれ!? 違うわよ。あれは気持ちが昂ぶっただけ」
「えっ! 気持ちが昂ぶっただけ?」
「魔法を使ったら、『こいつは魔法を使えるかも』って、思わせられるかもって。全然ラドのことなんて見てなかったけど」
「じゃ僕の早とちりかよ! もう! 紛らわしいことを」
「勝手に思い込んでるのラドの方でしょ、でも槍は分かったわよ、あんなの背中にはぶら下げて現れたら、『これを使って急所を狙え』意外に考えられなかったもん」
「うん、そこは息が合ってた! さすが僕らだ」
「でも突っ込んでいくとは思わなかったわ。ラドが伏せた瞬間にわたしが狙うつもりだったのに。間合いはそれでも充分届いたから」
「はぁ??? じゃこの怪我は無駄ってこと?」
「そう……かもね」
「まさに骨折り損だぁ」
ラドはアキハに支えられてイチカのもとに向かう。
一体何体のホムンクルスが犠牲になったのだろうか。日が登らないと分からないが、あたりは血の海だった。亡くなったのは一人や二人ではない。
可哀想なことをしたと思う。もう少し早く来ていれば犠牲はもっと少なかったかもしれない。
イチカが目覚めてから、ラドにはホムンクルスがただの肉塊だとは思えなくなっていた。何かのきっかけがあれば目覚めるかもしれない寝ている人。おかしな作られ方をしているが、彼らは人なのだ。
だから驕り目にもシンシアナ兵を倒し、イチカ達を助け出したのは誇りに思える。
息を吸うたびにビリビリと胸が痛んでも、それは救助の勲章だ。
しかし骨が折れるとは、これほど痛いものだとは思わなかった。前の世界では一度も骨折したことはなかったので痛みの程度を知らなかったが、まさか息も吸えない程の痛みで歩く振動にすら顔をしかめる程だとは。
「アキハ、まって、ちょっとひと休み」
懇願してペタリと石槽の前にしゃがみこむ。育成棟がこんなに広いと思ったことはない。
アキハも疲れたのだろう。普段なら気忙しく「早くしなさい」と言いそうな所を素直に「うん」と答える。互いに背中を支え合う形で、ペタリと座って二人して合わせて、はぁ~と息を吐き出す。
はぅ! 息を吐くのも辛い。
こんなに全身が痛むのだ。これは痛めたのは肋骨だけではないかもしれない。
「アキハ~」
死にそうな細い声で名前を呼ぶ。
「なにー」
だが背中には柔らかなぬくもりと心地よい声の振えが返ってくる。それが傷ついた心身を癒してくれる。
「ごめんね、まきこんじゃって」
さっきまで考えてなかった言葉が出てきた。
「なによ、いまさら」
アキハも疲れたらしく、とろんと全身の力が抜けた声がした。
部屋の奥にある崩れた石積みから、コロコロと小石が落ちる音がする。
それが二個、三個。
「アキハ、石が崩れてるね」
「そうね」
アキハは瓦礫の山を見ようともしない。疲れ果てて体を張るひねるのも億劫なのだろう。それはラドも同じだが、生来の警戒心が胸の奥で『放っておくな』と呟いている。ラドは仕方なく消耗し自分のものとは思えないほど重くなったアタマを無理やり回す。
「どこの石? 動いてるのは」
「どこだっていいじゃない」
「動く所って……瓦礫」
つづく言葉は、決まっていた。
「やばい! あいつ生きてる!!!!!!」
ラドの叫びに合わせるように、さっき倒したはずの敵の男が瓦礫の中から勢いよく這い出てくきた。
顔には頭から流れた血筋があり、それは目にたまり真っ赤な瞳となって、鬼ようにこちらを突き刺している。その姿はさながら地獄の死者。
「小僧ーーーー!!!!」
そして口は怨嗟の声を吐き出す。
ラドは立ち上がろうと体に力を入れるが、一度気の抜けた身体はすっかり痛みを受け入れてしまい言うことを聞かない。
アキハは遠くに置き去りにした、ラドが作った即席の槍を見つけていた。
だが敵の男と槍までの距離に愕然とする。男までは半ホブ(十五メートル)もない。一方、さっき倒したシンシアナ兵の槍の墓標は消え入りそうなほど闇の向こうにある。
武器を取りに行けば、その間に間違いなくラドが犠牲になる。
敵は眼前。手持ちの武器なし。ラドも自分も力を使い切って自由に動ける状態ではない。それでも生き残る方法はないか必死に考えるが、その可能性の少なさにパニックになりそうになる。
それはラドも同じだった。それでも乱れる気持ちを押さえて必死に声をひねり出す。
「アンタもしつこいな」
「あの程度で死ぬと思ったか」
「たしかに……」
男はちらりと入り口の方を見る。そこには顔から槍をたてた遺体が転がっている。
「てめぇステーンをやりやがっな!!!」
猛然と怒り、震える筋肉がムクムクと隆起するのが遠目にも分かった。
「一撃でぶった切る!!!」
目を血走らせた男はそう言って、瓦礫の中から剣をまさぐる。
もはやこの男からは逃げられない。せめてアキハだけでも逃がしてやりたいが、それすら自分の体は許してくれない。仮に立ち向かうだけの力があったとしても、勝利の可能性のない戦いは蛮勇以外のなにものでもない。
遂に男が剣を手に取る。
「うるァァァァァーーー」
うなる声と激情が大地を揺るがせる。その咆哮は育成棟全体を震わせる気迫となって、ラドとアキハを飲み込む。
ダメだ。勝ち目はない。勝つ方法も逃げる方法も何もない。
ラドは心の中で何度も同じ言葉を繰り返していた。
――ごめんアキハ、ごめん、ごめん、ごめん、ごめんなさい。巻き込んでしまって!
その時だった。
「ラド! 魔法を使います!!!」
切迫した声にラドとアキハは振り返る。
そこにいたのは、いつ目覚めたか、凛々しく石槽に立つイチカ!
「イチカ!!!」
アキハの叫び。
「魔法の邪魔になります。伏せてください!」
イチカは青白い光を下から浴びて、鬼気迫る表情で両腕をこちらに突き出している。その手からちたちたと雫が落ちるのが妙にスローに見える。
「インエルアルト――」
火の魔法の詠唱が始まった。
シンシアナの男は全身から敵意を放ちイチカを睨みつける。
「お前か目覚めたホムンクルスってのは。しかも魔法を使うたぁ――」
男の感想を無視して、イチカは一心不乱に詠唱を続ける。
「――聞いてねぇが、なら食らう前にぶった切るまでだ!」
男は何故か冷静にイチカを評価し、手に取った剣を振り上げると、その勢いのままにラドとアキハの頭上をジャンプした。
「イチカ!!!!!!」
アキハの慄きが裏声になって耳をつんざく。
一方、イチカは迫りくる殺人鬼を視界に捉えつつ、恐れもせず詠唱を続けている。
「イチカ逃げろ!」
だが聞く耳を持たない。やりきるつもりなのだ。
だがその詠唱がピタリと止まる。
「イチカ!」
「ラド、続きを教えてください。呪文の続きがわかりません!」
そ、そうだ、イチカが知っている呪文は寝ている間に聞いていたインプットしかないんだ。自分は詠唱ルールは声に出して読んできたが魔法そのものの詠唱練習はそれほどしていない。それに彼女には一度も呪文なんか教えていない。そん状態で魔法が一発で成功するものか。
なんという博打なんだ!
「イチカ! 魔法は無理だ、にげろ! 逃げてくれ!」
「逃がすか! その前に終わりだ! 死にくされぇぇぇ!!!!!!」
男は石槽の縁を足場に次々と石槽を飛び越え、飛び石に猛接近する。
「逃げません。私はラドとアキハと生きるのです。だからラド! 呪文の続きを!!!」
だが男はもう目の前まで来ている、振り下ろす剣が早いか詠唱が早いか。
「わかったイチカ!!! 僕に続け!!!!!!! フォーレ エルク ドゥテイル エントだ!」
ラドは一気に伝えるとイチカと一緒に大声で呪文を唱えた。
詠唱が終わると同時にイチカの手からはこぼれんばかりの炎が溢れ出し、無重力に漂う水滴のように火球が戯れだす。そしてイチカが両手を男に向かって突き出すに合わせて、火球の子たちは一斉に戯れを敵意に変えて、躍りかかる男めがけて突撃していった。
それはまるで止まり木から飛び立つ幾百の雀を思わせた。
食らった男は大剣を振り切りつつも、直撃を受けて後ろに吹っ飛ばされる。
その距離感はギリギリ……。
剣先がイチカの前髪をかすり、銀髪が青白い光に反射してキラキラと落ちていく。
白刃が通過したイチカの額から、一筋の赤い筋が生まれ、つつっと血が滴った。
ほんの一瞬、コンマ数秒の差が勝敗を分けたのだ。
男は天を仰ぐように仰け反り、したたか石槽に背中を打ち付けて、逆くの字に曲がって燃えていく。
言葉も悲鳴もなかった。
圧倒的な火力で、彼の心臓は被弾の瞬間に止まっていたのだろう。
男はみるみる炭になっていく。それほどイチカの魔法は強かったのだ。
真の静寂の中、三人は言葉なく肩を抱き合い、固まって震えた。
ボロボロの辛勝だったが、喜びの思いはカケラも湧き上がらなかった。
最後の炎が消えて、白い煙が空に溶ける。
それを見果した三人は、まるで申し合わせたように自分の手をみた。
昨日と同じ小さな手は、昨日より少し赤色に染まって見えた。